風とともに
波音が虚しく響く、海沿いの舗装路。
渡辺れなは、手元の小型レーダーを見つめて呼吸を整えていた。画面には、隣にいる吉本達也の光点と、こちらへ駆け寄ってくる光点がひとつ。
「れなちゃん……っ!」
路地から飛び出してきたのは、小早川葵だった。顔は恐怖で引きつっている。
「北条さんが……北条玲奈さんが、仲の良かった桃香ちゃんを殺したのをみちゃった」
葵は震える手で口元を覆った。吉本はその肩を静かに叩く。腰には結束バンドとダクトテープ。地味な支給品だ。
「誰が誰を殺してもおかしくない。まずは2日目のチェックポイントを目指そう。れなのレーダーなら、危ない奴を避けて進める」
れなは頷いた。けれど意識は、ポケットの中のもう一つの端末に向いていた。
今朝、運営から自分だけに届いた極秘通知。
――半径300メートル以内の対象の首輪を、遠隔で爆破できる権利。
(仲間を守るためだけに使う。それ以外には、絶対に使わない)
この力は、二人にも話していない。知れば背負わせてしまうし、漏れれば真っ先に狙われるのは自分だからだ。
「おーい! れなちゃん、吉本、小早川か!?」
背後の路地から、能天気な声がした。防弾チョッキ姿の中村陸が、手を振っている。
「ちょっと、大声出さないでよ!」
「いやあ、顔が見えて安心しちゃってさ」
陸は頭をかいて笑った。そのいつも通りの調子に、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩む。
「陸、お前も一人か。なら一緒に来いよ。人数が多いほうが見張りも回せるし、レーダーがあれば無駄な戦闘も避けられる」
吉本が声をかけると、れなも続けた。
「そうだよ、陸くん。防弾チョッキがあるなら、先頭を任せられるし……何より、一人でいるほうが危ないよ」
葵も、すがるように頷く。
陸は少し黙り込んだ。視線が一瞬、三人の顔を順に巡り、それから遠くの山の方角へ流れる。迷っているのは明らかだった。誘われたことが、素直に嬉しいのだろう。口元に、困ったような笑みが浮かんでいる。
「……ありがとな。正直、めちゃくちゃ心強いよ」
だが、陸はゆっくりと首を振った。
「でも、行けない。俺、坂井莉乃の誘いに乗ってみようと思うんだ」
「え……?」
「舞がいるんだ。幼馴染でさ。あいつ、昔から一度信じたら、周りが何を言っても聞かないんだよ。その舞が信じてる莉乃を、俺は会ってから判断したい。噂だけで決めつけて、舞をあっちに置いていくのは違う気がするんだ」
「あそこは、言うことを聞かない子を切り捨てるって噂だよ!」
葵が叫ぶ。
「知ってる。無防備には行かないさ。今朝スナイパーに撃たれたけど、このチョッキで助かった」
陸は胸を拳でとん、と叩いてみせた。
「それに、もし莉乃がヤバい奴だったら、俺が舞を連れて出てくればいい。柔道部のくせに、逃げ足だけは自信あるんだ」
冗談めかした口調だったが、その目は真剣だった。
吉本が屋根や高台に視線を走らせ、れなもレーダーを確かめる。映っているのは、自分たちだけだった。
「撃たれたのは朝だ。もう移動してると思う。……でも、舞を放っておけない」
「……わかった。無理はするなよ」
吉本が短く言うと、陸は「おう」と片手を上げた。
「みんなも、死ぬなよ。またどっかで会おうぜ」
陸は笑って、莉乃たちのいる方向へ歩いていった。大きな背中が路地の角に消えるまで、れなは目を離せなかった。
「本人が決めたことだ」
吉本はそう言ったが、表情は晴れなかった。
*
第2日目 午後3時50分――海辺のチェックポイント前
三人は防波堤の陰を伝い、慎重に近づいていた。
「待って。反応がある」
漁具小屋の前に、光点がひとつ。距離は340メートル。覗き込むと、高圧ボウガンを構えた猪俣竜次が立っていた。
「待ち伏せだ。迂回しよう」
吉本が囁いたとき、レーダーに新しい光点が現れた。やがて、陽気な足取りの神代錬が姿を見せる。
「やあ、猪俣! こんなところで何して……」
猪俣は無言でボウガンを向け、引き金を引いた。
シュッ――!
極太の矢が神代の胸へ飛ぶ。その瞬間、海から強風が吹きつけ、矢は軌道を逸れた
「うわっ、危ねえな!?」
神代が尻もちをつく。猪俣は表情ひとつ変えず、二本目の矢を装填し始めた。
(殺す気だ……)
れなの脳裏に、去年の冬の夜がよぎった。
何もかもが嫌になって、夜の踏切の前に立っていた。誰にも言わず、誰にも気づかれずに終わらせるつもりだった。
そこへ、コンビニの袋を提げた神代が通りかかった。
「お、渡辺じゃん。ちょうどよかった、肉まん買いすぎてさ。半分食うの手伝ってくれよ」
警報が鳴り響く中、神代は何も聞かず、何も止めず、ただ隣に座って肉まんを食べていた。電車が通り過ぎたあと、れなは声を上げて泣いた。神代は最後まで、「たまたま通りかかっただけ」と笑っていた。
でも、あれが偶然ではなかったことを、れなは後から知った。
その日の放課後、れなの様子がおかしいと気づいた神代は、ずっと彼女を探し回っていたのだ。息が白くなるほど走ったことも、靴が泥だらけだったことも、彼は一度も口にしなかった。
その夜から、神代は毎朝「おはよう」とだけ送ってきた。返事がなくても、三か月、一日も欠かさず。誰にもこのことを話さず、れなが笑えるようになるまで、ただ隣にいてくれた。
「死ぬなとは言わない。でも、明日の朝、俺がおはようって送るからさ。見るだけ見てくれよ」
その一言のために、れなは翌朝を生きた。その翌朝も、またその次も。
(あの日、私は一度死んでた。今ここにいるのは、神代くんのおかげだ)
(誰にも言えなかった私を、見つけてくれたのは神代くんだけだった)
あのとき、れなは約束した。
――あなたに何かあったら、今度は私が必ず助ける。
(あのときの借りを、まだ返してない)
今、彼を救えるのは自分だけだ。
「れな、やめとけ。助ければ、俺たちが的になる」
吉本が腕をつかむ。
「わかってる。でも見殺しにしたら、一生後悔する」
れなはその手をそっと外した。
「気づかれる前に終わらせる。二人は隠れてて」
防波堤沿いに身を屈めて進む。距離表示の数字が、じりじりと減っていく。
【315メートル】
【305メートル】
【298メートル】
爆破可能範囲に入った。画面に、赤い【首輪爆破実行】のボタンが浮かぶ。
叫んでも猪俣が止まる保証はない。位置を知られるだけだ。神代は腰を抜かして動けず、猪俣はすでに次の矢を番え終えていた。
(他に、方法は……)
ない。
ボウガンの先が神代の頭へ向き、猪俣の指が引き金にかかる。
本当に、自分の手で命を奪っていいのか。迷いが一瞬だけ胸をよぎった。
「……ごめんなさい」
親指が、ボタンを押し込んだ。
ドンッ!!
乾いた爆音が海岸に響く。猪俣の身体が揺らぎ、ボウガンが手から落ちた。矢は放たれないまま、彼は崩れ落ちた。
れなは、すぐには動けなかった。
端末に残る、操作完了の表示。直後の爆音。もう動かない猪俣。すべてが一本の線でつながる。
(私が、殺したんだ)
指先が震えていた。背後から、吉本と葵が駆け寄る足音がする。
れなはふらつく足で、神代のもとへ向かった。
「神代くん、怪我は……!?」
「ああ……。なんか今日は、風の神様に守られたみたいだ」
神代は乾いた笑いを漏らしたが、顔色は悪かった。無傷だと確かめて、れなはようやく息を吐く。生きていてくれた。それだけで、胸がいっぱいになった。
神代は、何があったのかを問わなかった。ただ、れなの端末に一瞬だけ視線を落とし、すぐにそらした。
「私たちと来ない? 一人は危険だよ」
「ごめん。俺、一人が楽なんだ」
神代は荷物を拾い、砂を払う。
「助けてもらったお礼に、情報をひとつ。少し前に、漆原玲がドローンを飛ばして、ここへ向かってた。気をつけてな」
ドローンは、レーダーに映らないかもしれない。長居は危険だった。
神代は頭を下げ、ひとりで去っていった。
れなはゆっくりと振り返る。砂浜には、猪俣が倒れていた。
少し前まで、彼は生きていた。その命を奪ったのは、自分だ。仲間を守るためだった。けれど、どれだけ理由を並べても、事実は変わらない。
指先には、ボタンを押し込んだ感触がまだ残っていた。
波は何事もなかったように、岸辺に打ち寄せている。その変わらなさが、かえって残酷だった。
「……私、どうすればよかったんだろう」
小さな声は、波音にかき消された。
答えてくれる者は、誰もいなかった。




