久保田蓮の視点
久保田蓮は、潮の匂いが残る無人の魚取引所の暗がりに身を潜めていた。
コンクリートの床には、潮気を含んだ湿り気がまだ薄く貼りついている。割れた発泡スチロールの箱、錆びた台車、干上がった排水溝。かつて朝ごとに威勢のいい声が飛び交っていたはずの場所は、今は死んだように静まり返っていた。
その片隅で、蓮は膝を折り、背を丸めて座り込んでいた。
頭にはVRゴーグルのような大型ヘッドマウントディスプレイ。両手には自作のコントローラー。親指がスティックの上で小刻みに動くたび、闇の向こうで小型ドローンが静かに羽音を絞って進んでいく。ディスプレイの中の視界は、本人の目よりもずっと広く、ずっと鮮明だった。
彼は、こういう姿勢のときが一番落ち着く人間だった。
教室では目立たない。運動部のエースでも、クラスの中心でもない。けれど機械いじりと配線の話になると、急に早口になる。中学のころ、壊れた農業用ラジコンヘリを拾ってきて、一週間かけて飛ばせるようにした。そのとき初めて、「自分の手で動かしたものは、自分を裏切らない」と知った。以来、彼の世界の中心にはいつもドローンがあった。
彼が危険を冒して島の中をうごきまわっていた理由はただ一つ――『ドローンの強化パーツ』の捜索だ。
ゲーム開始時、久保田の支給品(小型ドローン)の脇には、国(運営)から支給された一枚の公式メモが添えられていた。そこには、島内のどこにどんなドローン強化パーツが配置されているかが克明に記載されていたのだ。
日本空軍の下請け企業「ドローンテクノロジー」への就職が決まったと知らされた日、母は台所で泣いた。農薬散布も、建設現場の測量も、軍用機も手がける、業界を独占しつつある会社だ。蓮は照れくさそうに笑って、「まだ入社試験みたいなもんだよ」と言った。その言葉が、いまは皮肉のように胸の奥で転がっている。
今日、島を歩き回って理解した。この島は人口500人程度の小さな離島で、主な産業は漁業と農業だ。だからこそ、国から指定されたこの魚取引所や農協の資材置き場には、産業用ドローンの予備パーツや通信拡張モジュールが配置されているのだと納得していた。
実際、彼は国のメモを頼りに、すでに「暗闇でも見られる熱源暗視カメラ」と「自動追跡型AIプログラム」のモジュールを手に入れていた。
だが、焦りがあった。
(索敵や追跡のパーツは集まった……だが、身を守るための『攻撃兵器(武器)』になるパーツがどこにもねえ……!)
指先に、じわりと汗が滲む。
今日一日で、ゲームがはじまってから数人の同級生とすれ違った。誰も襲ってはこなかった。互いに目をそらし、距離を取り、何も言わずに通り過ぎた。あの沈黙の重さを思い出すたび、蓮は逆に安心もしていた。本気で人を殺そうとしているのは、ごく一部の異常者だけだ。そう信じることでしか、足が動かなかった。
だから彼が欲しいのは、殺す力ではなく「情報」だった。
ドローンのAI追跡で「九条頼斗グループ」や「坂井莉乃グループ」の位置をいち早く特定し、接近される前に逃げ出すこと。そして万が一襲われたときのために、ドローンに威嚇射撃ができる程度の武装を載せたかったのだ。臆病と言われても構わない。生き残るというのは、結局そういうことだと彼は思っていた。
(特に……坂井莉乃だけは絶対に近づいちゃダメだ……)
VRゴーグルの暗い視界の向こうで、蓮の喉がひくりと鳴った。
坂井莉乃――。かつて蓮は、彼女の手配によってバスケ部の後輩女子をあてがわれ、童貞を捨てさせてもらった経験があった。その後も他校の女子を何人も斡旋された。一見すれば男にとって都合のいい、親切な「世話焼き」。当時の蓮自身も、そう思い込もうとしていた。
けれど、気づいてしまったのだ。
あてがわれた女子たちが、莉乃の前では決して目を合わせないことに。莉乃が小さく指を動かしただけで、彼女たちが言葉もなく動くことに。笑顔のまま、感情だけが抜け落ちていることに。
あれは親切などではない。人間を「飼育」しているのだ。
(あいつに見つかったら、何をさせられるか分かったもんじゃない……)
背筋を冷たいものが這い上がった。暗視カメラの緑がかった映像の中で、ドローンが静かに旋回している。映っているのは、錆びた柱と、揺れる暗がりだけ。異常はない。大丈夫だ。まだ、大丈夫だ。
蓮は小さく息を吐いた。
――その吐息が、この世で最後のものになった。
背後から風の音すら作らずに忍び寄っていた陰が、蓮の首元へ滑り込んだ。
(……え?)
痛みも、気配すらもなかった。ゴーグルに塞がれた耳は、足音ひとつ拾えなかった。ただ、視界の中でドローンの映像が、ふっと遠のいていく。コントローラーを握る指から、力がほどけていく。
最後に彼の脳裏をよぎったのは、恐怖でも後悔でもなく、台所で泣いていた母の背中だった。
わずか数秒、久保田の意識が暗転する。
情け容赦のない暗闇の中へ、彼は二度と目覚めることなく沈んでいった。
久保田蓮の身体が、力なくコンクリートの床へ崩れ落ちた。ゴーグルの奥では、ドローンのカメラがまだ、誰もいない闇を静かに映し続けていた。
闇の中から姿を現したのは、支給品を一切持たずにゲームへ投入された特務戦闘員――江角怜音だ。
幼少期から暗殺と殺戮の特殊訓練を英才教育として叩き込まれてきた江角にとって、VRゴーグルで視界と聴覚を塞ぎ、無防備にしゃがみ込んでいた久保田を殺害するなど、赤子の手をひねるより容易かった。
背後から首骨を一気に捻り折り、息の根を止めるまでにかかった時間はわずか12秒。
江角は冷徹な眼光で倒れた久保田を見下ろすと、彼が残した「小型ドローン」と、国から支給されていた「ドローン強化パーツの配置場所が記されたメモ」を無言で回収した。
自らの戦力と、島内に隠された兵器パーツの情報を手に入れた江角怜音は、足音ひとつ立てずに魚取引所の暗闇の中へと消えていった――。
現在の生存者数: 47名




