チェックポイント
ゲーム開始から、すでに八時間が経過していた。
樋口錬児は、潜伏先の民家の二階から窓の外を静かに見下ろしていた。傍らでは、相棒の小渕詩織が壁にもたれ、息を潜めている。
樋口が考えていたのは、次のチェックポイントまでの移動ルートだった。
(選択肢は二つ……。ここから二百メートル先の民家か、徒歩で二時間かかる山上の神社か)
近くの民家なら、短時間でチェックポイントに到達できる。しかし、敵が待ち伏せている可能性は高い。一方、山上の神社なら敵との遭遇を避けられるかもしれないが、そこまでの長い道のりが問題だった。移動中に襲撃されれば、身を守るのは難しい。
ふと、樋口の視線が眼下のガレージに止まった。
そこには一台の軽自動車があり、玄関の棚には車の鍵が置かれていた。家の中には、いくらかの現金も残されている。
(車を使えば、一気に移動できるか……)
そんな考えが頭をよぎった、まさにそのときだった。
けたたましいエンジン音が、静かな住宅街に響き渡った。
一台の軽自動車が路地を猛スピードで走り抜けていく。運転席の人物までは確認できなかった。
直後、頭上から異様な風切り音が迫ってきた。
黒い影が、軽自動車を追うように急降下する。軍用と一目で分かる、無骨な大型ドローンだった。
ドドドドドドッ――!
機体下部に搭載された機関砲が火を噴いた。重金属の弾丸がボンネットを撃ち抜き、タイヤを次々と破壊する。
制御を失った軽自動車は激しくスリップし、轟音とともにガードレールへ激突した。
(なんて銃撃だ……!)
樋口は思わず息をのんだ。
(だが、運転手はまだ生きている!)
大破した車から、一人の人影が転がり出てきた。
同級生の岡本健太だった。
岡本はドローンから逃れるように必死で駆け出すと、道路脇にある高さ三メートルほどの崖から飛び降りた。そのまま草むらの中へ転がり込み、姿を消す。
ドローンは崖下へ追撃することなく、しばらく上空を旋回したあと、何事もなかったかのように飛び去っていった。
樋口は、その一部始終を見届けてから、窓の外に目を凝らした。
(車は、あのドローンにとって格好の標的になる。移動するなら徒歩しかないか……)
車を使うという選択肢は、これで消えた。
しかし、すぐに動くわけにはいかない。ドローンが戻ってくる可能性もある。樋口は周囲を警戒しながら、しばらく民家に潜伏することにした。
そして午後六時を回った頃。
周囲に異常がないことを確かめた樋口は、詩織とともに民家を出た。目指すのは、ここから二百メートル先にあるチェックポイントだ。
二人は周囲に注意を払いながら移動し、ほどなく目的の民家にたどり着いた。
薄暗い室内に入り、スマホの画面を確認する。
チェックポイントの条件は、十秒間の待機だった。
二人は息を潜め、カウントダウンがゼロになるのを待った。
やがて、スマホの画面に「チェックポイント通過」の通知が表示された。
「……よし」
樋口が小さく息を吐く。
ひとまず、次のチェックポイントに進むことができた。
だが、安堵したのも束の間だった。
二人が民家の外へ出た瞬間、四人の女子生徒と鉢合わせしたのだ。
今井結衣、加藤涼香、栗原萌花、長峰葵。
互いに相手の姿を認めた途端、全員が身構えた。誰もが疑心暗鬼に陥っているこの状況では、同級生であっても簡単には信用できない。
しかし、四人は樋口の隣にいる詩織の姿を見ると、わずかに警戒を緩めた。
「もう……。私、チャットで何度も連絡したのに、どうして返信してくれなかったの?」
詩織が不満をぶつけると、四人は気まずそうに視線を交わした。
「ごめん……」
葵が申し訳なさそうに口を開いた。
「何を信用したらいいのか分からなくて。ゲームが始まる前から一緒に行動していた私たち四人だけで、なるべく固まって動くことにしたの」
「九条からもチャットが届いてたでしょ? 中川彩乃と高橋陸斗からも連絡があったけど、あの二人は信用できないと思って無視したの。……詩織のところには、誰から連絡が来たの?」
葵の問いに、詩織は少しだけ表情を曇らせた。
「私のところには、遠藤舞さんと藤田拓海くん、それから高橋くんから連絡が来てた。でも……」
そこで言葉を切り、詩織は周囲を警戒するように視線を巡らせた。
「高橋くんは、もう死んでたの」
「え……?」
四人が一斉に息をのむ。
「遠くからだけど、私も樋口くんも、高橋くんが死んでいるところを確認したの。それなのに、そのあとで高橋くん本人からチャットが届いて……。気味が悪くて、返信できなかった」
「――嘘でしょ?」
涼香が震える声でつぶやき、口元を覆った。
「高橋くんが死んだって……? でも、私たちのところにも連絡が来てたんだよ?」
結衣は言葉を失い、葵は目を見開いたまま立ち尽くしていた。萌花も顔色を失い、何かを言おうとしては口をつぐむ。
クラスメイトが、すでに命を落としている。
しかも、死んだはずの人間からメッセージが届いている。
それまで、どこか現実味のなかった殺し合いの恐怖が、彼女たちの目の前に突きつけられていた。
「冗談じゃないよ」
詩織は青ざめた顔で首を横に振った。
「遠藤さんと藤田くんからも連絡は来てたけど、もともとあまり親しくなかったから、返信しなかったの」
(――なんだと?)
樋口は、隣に立つ詩織の横顔を見つめた。
(高橋のことは、二人で確かめた。だが、遠藤や藤田からも連絡が来ていたなんて……。どうして今まで俺に話さなかった?)
胸の奥に、小さな疑念が生まれた。
詩織が何かを隠しているのか。それとも、単に話す必要がないと思っていただけなのか。
今の段階では、判断できない。
しかし、ここで立ち止まっているわけにもいかなかった。
「立ち話は危険だ」
樋口は周囲に目を配りながら、低い声で告げた。
「高橋が殺されたのなら、近くに敵が潜んでいる可能性もある。ここから離れよう。今後、何かあれば電話かチャットで連絡を取り合うんだ」
そして、念を押すように続けた。
「それと、死んだ人間から連絡が来ても、絶対に返信するな。何が起きているのか分からない以上、慎重に行動したほうがいい」
四人は青ざめた顔でうなずいた。
互いに短く言葉を交わしたあと、それぞれ周囲を警戒しながら、その場を離れていった。
四人の姿が見えなくなると、樋口は詩織に向き直った。
「詩織。少し聞きたいことがある」
「……何?」
詩織は不安そうに顔を上げた。
「さっきの話だ。遠藤さんと藤田からも連絡が来ていたんだよな?」
「うん」
「いつ届いた?」
「いつって……ゲームが始まってから、しばらくしてだったと思う」
「しばらくして、というのは?」
樋口が重ねて尋ねると、詩織はわずかに眉を寄せた。
「どうして、そんなこと聞くの?」
「確認したいだけだ。高橋からの連絡も含めて、誰がいつ、何を送ってきたのか整理しておきたい」
樋口はできるだけ平静な声を保った。
死んだはずの高橋からメッセージが届いた。それが全員に共通する現象なのか、それとも一部の人間だけに起きていることなのか。そこには、ゲームの仕組みを解き明かす手掛かりがあるかもしれない。
だが、それだけではなかった。
詩織が遠藤と藤田からの連絡を、自分に一度も話していなかったことが気になっていた。
「メッセージの内容は?」
「普通の連絡だよ。今どこにいるのかとか、誰かと一緒にいるのかとか……」
「返信は?」
「してないって、さっき言ったでしょ」
少し強い口調だった。
樋口は詩織の顔を見つめた。
「なぜ返信しなかった?」
「だから、あまり親しくなかったから」
「親しくない相手から連絡が来たら、無視するのか?」
「……今は、誰を信用していいか分からないから」
詩織は視線をそらした。
その答え自体は、不自然ではない。実際、先ほどの四人も、信用できる相手を見極められず、行動を共にする仲間を限定していた。
それでも、樋口の胸には小さな引っ掛かりが残った。
「だったら、俺には話しておいてもよかったんじゃないか?」
詩織の肩が、ぴくりと揺れた。
「……どういう意味?」
「俺たちは相棒だろ。誰から連絡が来たのか、どんな内容だったのか。情報は共有しておくべきだと思うが」
「でも、返信してないんだよ? 何も起きてないし、わざわざ話すほどのことじゃないと思ったの」
「高橋からの連絡もか?」
「それは……」
詩織の言葉が途切れた。
ほんの一瞬だった。
しかし、樋口は見逃さなかった。
「高橋のことは、二人で確認した。あいつが死んでいるのを見たあとで、本人からメッセージが届いた。あれは俺たちにとって、見過ごせない異常事態だったはずだ」
「分かってるよ」
「なら、ほかの連絡についても、話してくれてよかったんじゃないか?」
詩織は唇を結んだ。
やがて、少し困ったような表情で答えた。
「……ごめん。そこまで考えてなかった」
その言葉に、嘘らしい響きはなかった。
だが、だからといって、すべてを信じていいとも思えなかった。
(本当に、ただ考えていなかっただけなのか……?)
樋口は、それ以上追及しなかった。
今ここで問い詰めても、詩織が隠し事をしているという証拠はない。むしろ、根拠もなく疑えば、二人の信頼関係を壊すだけかもしれない。
それに、彼女の言うとおり、返信していないのなら、現時点で直接的な問題は起きていない。
――本当に、返信していないのなら。
ふと浮かんだ考えに、樋口は自分自身で眉をひそめた。
(何を考えているんだ、俺は)
詩織は、ゲームが始まってからずっと行動を共にしてきた相棒だ。危険な場面を何度も切り抜け、互いに助け合ってきた。
そんな相手を、曖昧な違和感だけで疑うべきではない。
そう自分に言い聞かせた。
「……分かった。今後は、どんな些細な連絡でも共有してくれ。相手が誰であってもだ」
「うん。分かった」
詩織は小さくうなずいた。
それで話は終わったはずだった。
しかし、樋口の胸に生まれた疑念は、消えてくれなかった。
遠藤と藤田からの連絡を、詩織はなぜ話さなかったのか。
本当に、親しくない相手だったからというだけなのか。
それとも、彼女には彼女なりの、話せない理由があるのだろうか。
樋口は考えを切り替えるように、詩織に告げた。
「詩織、ここで待っていてくれ。俺は少し確かめたいことがある」
「確かめたいことって……まさか、事故現場?」
詩織の顔がこわばった。
樋口が何を考えているのか、彼女にも分かったのだろう。先ほどドローンに襲撃された岡本が飛び降りた崖は、ここからわずか百メートルほどしか離れていない。
「危ないよ。やめようよ」
「すぐに戻る。この家の中なら、ひとまず身を隠せるはずだ。何かあったらチャットで知らせてくれ」
「……本当に、一人で行くの?」
「ああ」
詩織は何かを言いかけたが、結局、口を閉じた。
樋口はその様子を一瞥し、民家の外へ出た。
物陰を伝って慎重に進み、事故現場へ向かう。
しかし、歩きながらも、先ほどの会話が頭から離れなかった。
(俺は、詩織を疑っているのか……?)
自分でも、答えは出せなかった。
ただ、今までなら気にも留めなかったはずの彼女の沈黙が、妙に気にかかる。
信頼しているからこそ、隠し事などないと思いたい。
だが、信頼していることと、何も疑わずにいることは違う。
樋口は胸の奥に残る違和感を振り払えないまま、ガードレールのある事故現場へとたどり着いた。
やがて、あのガードレールが見えてきた。
樋口は道路脇に身をかがめ、ガードレール越しに崖下をのぞき込んだ。
(……いた)
薄暗い草むらの中に、人影が倒れていた。
岡本健太だ。
樋口はガードレールに手をかけ、崖下を凝視した。岡本はうつ伏せに近い姿勢で倒れ、ぴくりとも動かない。
(おい……岡本。生きてるのか?)
声をかけたい衝動に駆られたが、すぐに思いとどまった。ここから呼びかければ、周囲に自分の居場所を知らせることになる。
そのとき、樋口は岡本の周囲に広がる異様な光景に気づいた。
草むらが、白く凍りついていた。
岡本の身体を中心に、地面を覆う草の葉が一面、霜に包まれている。季節は、こんなふうに草が凍るほど寒くない。それなのに、そこだけが真冬のような冷たさをまとっていた。
(なんだ、これは……)
樋口は思わず息をのんだ。
ドローンの機関砲が直撃したわけではない。岡本は銃撃を受けた車から脱出し、自分の足で崖下へ飛び降りていた。少なくとも、樋口が目撃した限りでは、そうだった。
それなのに、今は動かない。
銃撃で負傷したのか。落下の衝撃で意識を失ったのか。それとも、この異常な凍結現象が関係しているのか。
何一つ分からなかった。
(まさか……あの草むらに、何かあるのか?)
樋口は崖下へ目を凝らした。
助けなければならない。
岡本は同級生だ。つい先ほどまで、自分と同じゲームに参加し、生き延びようとしていた人間である。目の前で倒れているのに、何もせず立ち去るなど、本来なら考えたくもなかった。
だが、救出するには、自分があの草むらまで降りなければならない。
足場の悪い崖を下り、正体不明の現象が起きている場所まで近づく。そのうえで、岡本が生きていれば身体を支え、三メートルの崖をどうにかして引き上げなければならない。
一人で、だ。
しかも、岡本が重傷を負っていた場合、すぐに運び出せる保証はない。意識のない人間を一人で運ぶのは容易ではなく、救出に手間取れば、それだけ長く現場にとどまることになる。
(その間に、ドローンが戻ってきたら……?)
樋口の脳裏に、先ほどの光景がよみがえった。
機関砲の連射。次々と破壊される車体。逃げ場を失い、道路脇へ追い詰められる岡本。
あの火力を相手に、崖下で身を隠しながら負傷者を運ぶことなどできるはずがない。
それに、ドローンだけが脅威とは限らない。銃撃の直後に岡本が動けなくなったことと、この異常な凍結現象が無関係だという保証もなかった。
仮に、岡本の周囲で起きている現象が何らかの攻撃や罠によるものなら、助けようと近づいた自分まで犠牲になる可能性がある。
(くそっ……何が起きてるんだ)
樋口はガードレールを強く握りしめた。
助けたい。だが、助けるために近づくことさえ危険なのだ。
岡本が生きているかどうかすら分からない。もし、すでに手遅れだったら。もし、助けようとして自分まで倒れたら。
その場合、岡本を救えないばかりか、自分も生きて戻れなくなる。
そして、樋口の胸にもう一つの不安が浮かんだ。
(詩織……)
彼女をチェックポイントの民家に一人で残してきている。
もし、敵が自分たちの居場所を突き止めていたら。もし、岡本を救出している最中に別の参加者が襲撃してきたら。
自分がここを離れている間、詩織は一人で身を守らなければならない。
彼女を危険にさらしてまで、救出に踏み切るべきなのか。
樋口は答えを見つけられなかった。
(俺がここで動けなくなったら、詩織まで危険にさらすことになる……)
目の前の一人を救うために、もう一人を危険にさらす。
そんな賭けに出る余裕は、今の自分にはなかった。
(……今、降りるのは無理だ)
その結論にたどり着いた瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
岡本を見捨てる。それは、今の状況では合理的な判断なのかもしれない。だが、目の前で倒れている同級生を置き去りにすることに、何のためらいもないわけではなかった。
せめて、生きているかどうかだけでも確かめたい。
樋口はもう一度、岡本の身体に目を凝らした。
しかし、距離があるため呼吸の有無すら分からない。声をかければ居場所を知られる危険があり、崖を下りれば、何が起こるか分からない。
どちらを選んでも、危険が伴う。
(……必ず、あとで確かめる)
自分に言い聞かせるように、樋口は心の中でつぶやいた。
本当に戻ってこられる保証などない。それでも、今はそう考えるしかなかった。
すぐに助けに行けないのなら、せめてこの場所と岡本の状態を記憶に刻み、次に戻ってくる機会を探る。
樋口は白く凍りついた草むらを最後に一度だけ見つめた。
岡本は、相変わらず動かなかった。
(……すまない、岡本)
声には出さず、心の中でそう告げる。
そして、樋口はガードレールから手を離した。
その判断が正しかったのかどうか、今の彼には分からない。
ただ一つ確かなのは、ここで自分まで倒れれば、誰も救えなくなるということだった。
樋口は唇を引き結び、岡本に背を向けた。
得体の知れない異常現象の謎と、同級生を見捨てたという苦い感情。そして、相棒に対して抱き始めた小さな疑念。
それらを胸に抱えたまま、樋口は詩織の待つチェックポイントの民家へと足早に引き返していった。




