第39話 愛の告白。さざなみだけが知っている!?
【凛(女神様)視点】
考えるより先に、体が動いていた。
水しぶき。
悲鳴。
強い陽射し。
白く弾けた波の向こうで、鉄平の姿が一瞬だけ見えた。
腕が水面を掻く。
顔が見える。
声にならない息が、海水に呑まれる。
そして次の瞬間。
鉄平の姿が、海面から消えた。
「鉄平!!」
叫んだ声が、自分のものとは思えなかった。
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
視界の端で、仲間たちが何か叫んでいる。
誰かが走り出す気配がする。
でも、そんなものを待っていられなかった。
考えるより先に、私は海へ飛び込んでいた。
水面が割れる。
冷たい海水が全身を包み込んだ。
さっきまで肌を焼いていた夏の陽射しが、一瞬で遠ざかる。
耳の奥で、ごぼごぼと音がこもる。
水圧が頬を押し、髪がふわりと広がった。
目を開ける。
塩水が目にしみた。
痛い。
けれど、閉じている暇なんてない。
陽射しが、水の中で揺れていた。
海面はきらきらと光っているのに、その下は青く、深く、静かで。
怖いくらい、冷たい。
鉄平は体脂肪率が低い。
鍛えられた筋肉。
絞られた身体。
あれは陸では強みでも、水の中では重りになる。
しかも、泳ぎが得意ではない。
さっき笑っていた顔。
照れていた顔。
困ったように謝っていた顔。
その全部が、海の底へ沈んでいく想像をした瞬間、胸の奥が凍りついた。
だめ。
だめ。
絶対に、だめ。
水中で目を凝らす。
泡。
揺れる光。
濁る視界。
その奥に――。
いた。
鉄平だ。
少し沖へ流されている。
腕が力なく揺れ、身体が斜めに沈みかけている。
焦って流れに逆らえば、こちらまで体力を奪われる。
分かっている。
分かっているのに、心は今すぐ真っ直ぐ飛び込みたがっていた。
落ち着け。
私は呼吸を整える。
いや、水中で呼吸なんてできない。
それでも、心だけは整えろ。
海流に逆らいすぎない角度で、鉄平へ向かう。
水を掻く。
足を蹴る。
腕が重い。服が水を吸ってまとわりつく。
あと少し。
あと少し。
指先が、鉄平の腕に触れた。
掴む。
重い。
想像以上に重い。
意識のない人間の身体は、こんなにも重いのかと思った。
普段なら軽口を返してくるはずの鉄平が、今は何も言わない。
その沈黙が、怖かった。
それでも、離さない。
絶対に離さない。
水面へ向かう。
本島の方を見る。
遠い。
波が邪魔をする。
人の声が水越しにぼやけて聞こえる。
それよりも、近くに小さな離島がある。
岩場と砂浜の混じった、小さな場所。
本島より、ずっと近い。
一刻も早く、陸へ上げる。
私は鉄平の身体を支えながら、水を蹴った。
肺が焼ける。
腕が痺れる。
濡れた服が重い。
髪が顔に張りつく。
潮の味が口の中に広がる。
それでも、進む。
神であった時なら、きっとこんなふうに息を切らすことはなかった。
けれど今の私は、人間の身体だ。
疲れる。
苦しい。
怖い。
でも。
この怖さごと、私はここにいる。
鉄平を選んだのは、私だ。
砂浜にたどり着いた時には、足が鉛みたいに重かった。
膝をつく。
濡れた砂が脚にまとわりつく。
手のひらがざらつく。
喉が焼けるように苦しい。
それでも、止まれない。
鉄平を仰向けに寝かせる。
「鉄平!」
肩を叩く。
反応がない。
顔色が白い。
唇の色も悪い。
胸が上下していない。
心音は――。
ある。
でも、呼吸をしていない。
「……っ」
血の気が引いた。
時間が止まったみたいだった。
波の音が遠くなる。
空の青さが、やけに眩しい。
鉄平の濡れた髪から、海水が砂へ落ちていく。
ぽたり。
ぽたり。
その音だけが、やけにはっきり聞こえた。
凛は自分の頬を、ぱん、と叩いた。
痛みが走る。
キスじゃない。
人工呼吸。
迷うな。
一秒でも迷うな。
私は顎を持ち上げ、気道を確保する。
胸部圧迫。
一回。
二回。
三回。
両手に、鉄平の胸の硬さが伝わる。
押すたびに、腕に衝撃が返ってくる。
十回。
二十回。
三十回。
人工呼吸を二回。
唇が触れる。
冷たい。
海の味がする。
胸がわずかに動く。
もう一度。
胸部圧迫。
波の音が遠い。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
お願い。
戻ってきて。
お願い、鉄平。
まだ、あなたに言ってないことがある。
まだ、あなたに見つけてもらっていない。
まだ、私の名前を呼んでもらっていない。
胸部圧迫。
人工呼吸。
もう一度。
もう一度。
「……ぐ、っ……はっ!!」
鉄平の体が跳ねた。
口元から海水を吐き出す。
咳き込む。
喉が鳴る。
荒い呼吸が戻った。
「……よかった」
その言葉が、勝手にこぼれた。
膝から力が抜けそうになる。
視界が滲む。
助かった。
生きている。
鉄平が、生きている。
その事実だけで、胸の奥に溜まっていた恐怖が一気にほどけていく。
その時、少し離れた岩場の上で声がした。
「鉄平は大丈夫みたいね」
「いたの!?」
思わず顔を上げる。
岩場の上にいたのは、迅の風妖精、スカイアだった。
風に髪を揺らしながら、少し気まずそうに手を振っている。
どうやら上空から位置確認と連絡役をしていたらしい。
『応急処置、ご苦労様だ、凛』
迅の声が、精神感応通信越しに届く。
いつもの軽さは少し抑えられていた。
ちゃんと状況を分かっている声だった。
『もうすぐ潮が引く。離島と本島は歩いて渡れるそうだ。意識が戻るまで、安静にしていてくれ』
「連絡ありがとう。何かあったらすぐ言うね」
『了解。こっちも準備しておく』
通信が切れる。
私は、鉄平のそばに座り込んだ。
まだ呼吸は荒い。
けれど、胸は上下している。
それだけで、世界が少し戻ってくる。
私は鉄平の頭を、そっと膝の上に乗せた。
濡れた髪を撫でる。
海水で冷えた髪。
砂のついた頬。
まだ少し白い顔。
その全部が、愛おしかった。
波が、寄せては返す。
潮の匂い。
夏の光。
遠くで仲間たちがこちらを探している気配。
本島側から、誰かの声が聞こえる。
けれど距離があるせいで、言葉までは届かない。
ここだけが、世界から少し切り離されているみたいだった。
私は、ぼそっとつぶやく。
「……おとぎ話の人魚姫みたいだなぁ」
海から助けた王子様。
でも、私は人魚姫ほど健気じゃない。
私は、あなたに選んでほしくてここにいる。
あなたに見つけてほしくて、人間になった。
そう思った時、鉄平が小さく何かを呟いた。
「……」
目は開いている。
けれど、焦点が合っていない。
意識がまだ夢と現実の間を漂っている。
「鉄平?」
私は顔を覗き込む。
鉄平の唇が、かすかに動いた。
「女神様……助けてくれて、ありがとうございます」
胸が、跳ねた。
息が止まりそうになる。
けれど、何も起きない。
世界は弾けない。
私の身体が消えることもない。
これは見破ったわけじゃない。
夢と混ざった、うわ言だ。
鉄平は、今の私を凛だと認識していない。
ただ、意識の奥にいる女神へ話しかけているだけ。
そう分かっているのに。
胸が、苦しい。
「俺、女神様が好きです」
「……うん」
声が震えないように、必死で抑えた。
本当は、泣きそうだった。
ずっと聞きたかった言葉。
けれど、本当の意味ではまだ私に向けられていない言葉。
嬉しい。
苦しい。
幸せで。
寂しい。
「願いは、決めてるんです」
鉄平は、夢の中にいるような声で続ける。
「あなたと結ばれたい」
息が止まる。
胸の奥が、痛いくらい熱くなる。
そんなことを願ってくれていたの?
ハーレムじゃなくて。
私を?
私は、濡れた前髪を撫でながら囁いた。
「私もよ」
小さな声だった。
波の音に溶けるような声。
「私も、あなたと結ばれたい」
そのやり取りは、さざなみだけが聞いていた。
♢
【鉄平視点】
あれ。
俺、確かボートから落ちて。
溺れていたんだっけ。
水の中で、光が揺れていた気がする。
息ができなくて、胸が苦しくて。
手を伸ばしても、何も掴めなくて。
それから。
誰かが、俺を呼んだ。
夢だったのかもしれない。
波の音がする。
潮の匂いがする。
それから、頭の下がやけに柔らかくて、温かい。
気持ちいい。
このまま動きたくない。
「起きた?」
聞き慣れた声。
俺は反射的に横へ転がった。
「凛!?」
視界がぐるんと揺れる。
砂浜。
青い空。
波打ち際。
そして、目の前に凛がいた。
髪も服も濡れている。
頬には疲れが残っていて、肩で少し息をしている。
それでも、俺を見てほっとしたように笑っていた。
夢で女神様に会った気がした。
助けてくれてありがとうございます、と言った気がする。
好きです、と言った気もする。
願いのことまで、言った気がする。
……いや、夢だよな?
たぶん。
きっと。
でも、俺を助けてくれたのは凛だったらしい。
「ありがとう、凛。命の恩人だ」
声が少しかすれていた。
喉が痛い。
口の中がしょっぱい。
肺の奥がまだひりつく。
凛は一瞬だけ目を伏せて、それから小さく頷いた。
「……うん。無事でよかった」
その笑顔に、なぜか胸が詰まる。
いつもの凛だ。
クラスメイトで。
バレー部で。
たまに暴走して。
俺をからかって。
でも今、その顔に、なぜか別の誰かの面影が重なった。
「さあ、もう潮が引く頃よ。歩いて渡りましょう」
凛が岩場の方へ声をかける。
「スカイア! もう戻るね」
少し離れた場所に、スカイアがいた。
「はーい」
軽い声で返事をする。
けれど、その位置は妙に遠い。
もしかして、空気を読んで距離を取ってくれていたのだろうか。
ありがたいような、気まずいような。
「じゃあ、帰ろうか」
凛が振り返り、俺に手を差し出す。
濡れた手。
砂のついた指先。
俺は、その手を取った。
その瞬間。
凛の顔が、一瞬だけ、よく知る“女神・リィネ”に見えた気がした。
白い光をまとって。
静かに微笑んで。
俺の背中を押してくれた、あの人。
心臓が、大きく跳ねる。
けれど、次の瞬間にはもう、いつもの凛だった。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
俺は首を振る。
でも、胸の鼓動はしばらく収まらなかった。
潮が引き始めた浅瀬を、凛と並んで歩く。
足元で水が揺れる。
砂が沈む。
小さな貝殻が陽射しを反射する。
岸の向こうで、仲間たちが手を振っている。
白狼。
未来。
勇。
翠鳥。
迅先輩。
絵馬先輩。
みんながいる。
ここまでの出会い。
救ってきた人たち。
背中を押してくれた人たち。
俺をここまで連れてきてくれた、全部。
全部が、胸の奥で静かに重なっていく。
俺は、誰かの恋を叶えるためにここまで来た。
でもその道の途中で、自分の夢を見つけた。
自分の恋も、見つけた。
そして今、まだその答えには届いていないけれど。
きっと、もう少しで手が届く気がした。
俺は、凛の手を握り直す。
凛が少しだけ驚いたようにこちらを見る。
「……鉄平?」
「いや、ちょっとふらついただけ」
嘘ではない。
でも、それだけでもなかった。
岸から、みんなの声が聞こえる。
夏の光が、海の上できらきらと跳ねていた。
俺はそのすべてに、ただ感謝した。
俺の物語は、これからもまだ続いていく。
第一部 鉄平編 完
♢♢♢♢♢♢
第一部、いかがだったでしょうか。
ここまで、鉄平という人間についてスポットを当ててきました。
第二部は、白狼視点の物語になります。
声を使えない少年が抱えてきた孤独。
絵では伝えられても、言葉では届かないもの。
そして、その隙間につけ込んでくる闇。
「恋愛請負人の友人がさ、」
「ポンコツ筋肉フェチの委員長がさ、」
「最近の笑いのツボなんだ」
AIとの他愛ない壁打ち会話。
誰も傷つけないはずの、夜の独り言。
けれどそれは、白狼にとっての救いであると同時に――地獄の門でもあった
更新までお時間いただきます(9月か10月ぐらい)
ブックマークそのままでお待ちください。




