第35話 悪魔ラスティとの決着。そして……新たなる脅威!?
白狼が、激しく咳き込んだ。
「げほっ……!」
喉を押さえ、膝をつきかける。
その肩が大きく揺れていた。
未来がすぐに駆け寄る。
「白狼、大丈夫?」
白狼は片手を上げて応えた。
大丈夫。
そう言いたいのだろう。
けれど、その顔は青ざめている。
額には汗が滲み、呼吸は荒い。
大丈夫というより、ここが限界という顔だった。
今までの白狼の呪言攻撃は、一回ずつだった。
それを三連。
しかも、相手は巨大化した悪魔の本体。
魂の核を撃ち抜くような、明らかに普段とは違う一撃だった。
無理もない。
芝生には、ラスティの巨体が崩れた跡が残っている。
焦げた匂い。
腐った花のような臭気。
焼けた芝の苦い匂い。
そのすべてが、夜風に少しずつ薄れていく。
勇が、少し興奮したように呟いた。
「たぶんだけど……アートへの尊敬を感情に、指フレームを使った掌印を制約にしたんだね」
久々の解説役で、ちょっとウキウキしている。
「普通の呪言は、声にかなり負担がかかる。だけど今回は、対象を“構図”として切り取って、反動を抑えた。描くように狙いを定めて、言葉で撃ち抜いたんだ」
白狼が、咳き込みながらも薄く頷く。
勇は続ける。
「だから、通常なら連発できない呪言を、連射……いや、“連写”可能にした」
「連写……」
俺は思わず呟いた。
白狼らしい。
言葉を失った白狼が、絵で世界を切り取ってきた。
その白狼が、指フレームで悪魔を捉え、言葉で撃ち抜いた。
絵と呪言。
それが、ようやくひとつに繋がったのだ。
勇は少し考え、それから笑った。
「術式・言霊描写ってのはどう?」
白狼は息を整えながら、少しだけ考える。
そして、親指を立てた。
『採用』
未来が、ほっとしたように息を吐く。
けれど、すぐに表情を引き締めた。
「まだ終わってないわよ。気を引き締めて」
その声で、緩みかけた空気が一気に戻る。
ラスティは、まだ完全には消えていなかった。
小さくなった身体が、黒い霧の中で膝をついている。
もう巨大な悪魔ではない。
屋根ほどもあった身体は縮み、翼は折れ、鉤爪も崩れている。
美しい女の輪郭も、半分は溶けていた。
けれど、それでもなお、最後の意地のようにこちらを見上げている。
「体が……消えていく……」
その声は、さっきまでの妖艶さを失っていた。
湿った、かすれた声。
喉の奥に泥が詰まったみたいな声だった。
「無様な姿ね」
黒い霧が、指先からほどけていく。
ラスティは、自分の崩れていく手を見つめていた。
「私は、醜い自分が嫌いだった」
ぽつりと、彼女は言った。
「魔神をこの世に顕現して、見返りに完全な美を手に入れて……自己肯定したかった」
夜風が吹く。
甘ったるい腐臭が、かすかに揺れた。
誰も近づかない。
未来も。
勇も。
白狼も。
そして俺も。
俺は目を閉じた。
ほんの一瞬先までの未来予知を使用する。
暗闇の奥に、短い未来が映る。
――「じゃあね」と言葉を残して、黒い霧となり散っていく悪魔。
少なくとも、今この瞬間に反撃する力はない。
目を開ける。
でも、油断はしない。
言葉はかける。
けれど、近づきすぎない。
俺はいつでも動ける距離を保ったまま、ラスティを見据えた。
手のひらには、まだ魂を掴む力の白い感覚を残している。
「あなたがもし人間だったら」
ラスティの崩れかけた顔が、わずかにこちらを向いた。
「俺は、あなたの背中を押していたかもしれない」
本心だった。
美しくなりたい。
自分を好きになりたい。
誰かに認められたい。
その願いだけなら、たぶん否定しなかった。
俺は、そういう願いを知っている。
自分の見た目に自信がなくて、鏡を見るたびに少し俯いてしまう子がいた。
俺はその時、彼女に直接メイクをしてやれたわけじゃない。
むしろ、当時の俺はメイクの工程なんて全然覚えられなかった。
下地。
ファンデーション。
コンシーラー。
パウダー。
アイメイク。
チーク。
リップ。
横で見ていても、頭の中はほとんど追いついていなかった。
それでも、俺は彼女を変えてくれる人のところへ連れていった。
スタイリストで、美容師で、俺にとっては本物の魔法使いみたいな人だった。
扉を開けた瞬間の、シャンプーと香水が混ざったような清潔な香り。
ドライヤーの低い音。
鏡に反射する光。
ハサミの軽やかな音。
ブリーチ剤の少し刺激的な匂い。
温かいタオルが首元を包む安心感。
そして、少しずつ変わっていく鏡の中の顔。
――じゃあ、変身の魔法をかけましょうか。
その言葉を、俺は今でも覚えている。
メイクは“隠す”ものじゃなくて、“整える”もの。
服は、別人になるためじゃなくて、自分の背中を少し押すためのもの。
髪型も、化粧も、ファッションも、人の人生を根本から変えるわけじゃない。
けれど。
明日、少しだけ胸を張って歩けるようになる。
鏡を見るのが、ほんの少しだけ怖くなくなる。
誰かに会いに行く勇気が出る。
そういう、自信と勇気を後押ししてくれる。
解けない魔法みたいなものだと思った。
あの時、彼女は最後に笑っていた。
まだ戸惑っていて。
でも、ほんの少しだけ胸を張っていた。
俺は、横で見ていただけだ。
その魔法を直接かけたのは、スタイリストさんだった。
だからこそ思った。
いつか俺も、そういう人になりたい。
誰かを魔法使いのところへ連れていくだけじゃなくて、
俺自身が、誰かにその魔法をかけられる人間になりたい。
美容師になりたい。
スタイリストになりたい。
それは、ただ格好いい仕事だからじゃない。
誰かが自分を好きになるための背中を、押せる仕事だと思ったからだ。
だから、俺はラスティの願いを笑えなかった。
美しくなりたい。
自分を好きになりたい。
醜い自分を変えたい。
その願いだけなら、俺はきっと否定しなかった。
髪型を整えようと言った。
服を選ぼうと言った。
姿勢を変えようと。
表情を変えようと。
自分を好きになる方法は、きっとあると言った。
でも。
人を踏みにじって叶える願いは、止めるしかない。
誰かの身体を奪って。
誰かの才能を利用して。
誰かの人生を儀式の道具にして。
そんなものは、魔法じゃない。
ただの呪いだ。
ラスティは、かすかに笑った。
「あなた、良い男だね」
黒い霧が、さらに薄くなる。
「誰にでも優しくすると、本命に嫌われるわよ」
「……肝に銘じます」
俺は視線を逸らさない。
その言葉は、妙に胸に刺さった。
嫌味なのか、忠告なのか、最後の悪あがきなのか。
たぶん、全部だ。
ラスティは俺の顔を見て、それから俺の手を見た。
まだ白い光の残る手。
奪うためではなく、救うために魂へ触れた手。
ラスティの口元が、最後に少しだけ歪んだ。
「あなたは、私を救えなかった」
黒い霧が、彼女の輪郭を削っていく。
「でも、人間だった私なら……もしかしたら、救えたのかもね」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
ラスティは、崩れかけた顔で笑う。
「じゃあね」
その声は、皮肉のようで。
ほんの少しだけ、祈りのようにも聞こえた。
「魔法使いさん」
その言葉を残して、ラスティは黒い霧となって散った。
夜風が吹く。
腐った花の臭いが、少しずつ薄れていく。
あとに残ったのは、焼けた芝の匂いと、戦いの余韻だけだった。
その瞬間。
視界の中央に、半透明のウィンドウが浮かび上がる。
【ストーリーミッション】
【ワーロックの魔の手から絵馬を救え】
【結果:コンプリート!】
胸の奥で、何かがほどけた。
白狼を魅了から救い出した。
絵馬先輩からラスティの憑依を引き剥がした。
そして、ラスティ本体を倒した。
絵馬先輩は、助けられた。
白狼も戻った。
鷹志さんも、亜里沙さんも生きている。
終わった。
そう、思っていいはずだった。
けれど。
悪魔の最後の言葉が、胸の奥に残っていた。
魔法使い。
それは、女神様がくれた言葉でもある。
でも、それより前から俺の中にあった言葉でもある。
誰かに自信と勇気を渡せる人。
鏡を見るのが怖かった誰かに、顔を上げるきっかけを作れる人。
背中を押して、明日へ歩かせる人。
俺は、そういう人間になりたかった。
そして今。
この手には、まだ魂を掴む力の感覚が残っている。
奪うためじゃない。
救うために掴む手。
その手は、まだ少し震えていた。
♢
だが。
ラスティは、まだ完全には消えていなかった。
本体は砕かれた。
けれど、悪魔の残滓だけが、黒い煙のように森の奥へ逃げ延びていた。
湿った土の匂い。
夜の木々が擦れる音。
遠くでは、まだ戦いの余韻がかすかに残っている。
黒い霧が、必死に人の形を作ろうと蠢く。
「……なんとか、逃げ帰って……立て直さないと……」
声は掠れていた。
妖艶さも、美しさもない。
ただ、生き延びたいという執着だけが、醜く残っていた。
その時。
「諦めの悪い子はダメよ」
涼しい声が落ちた。
ラスティの残滓が震える。
そこに、凛が立っていた。
避難誘導を終え、誰にも気づかれないまま森へ回り込んでいたのだ。
夜風が服の裾を揺らす。
凛は表情を変えず、指先を軽く鳴らした。
ぱち、ぱち、と。
小さな火花のような音。
次の瞬間、彼女の周囲に神々しい光が滲む。
「……あなたは、何者……!?」
ラスティが問いかける。
恐怖と驚きが混じった、か細い声だった。
凛は答えない。
ただ、静かに見下ろす。
「ここまでよ」
光が弾けた。
ラスティの残滓は、悲鳴を上げる間もなく消えた。
黒い霧は白い光に焼かれ、夜の森に溶けていく。
あとに残ったのは、濡れた葉の匂いと、静かな風だけだった。
♢
この世ではない空間。
深い闇の奥で、何かが嗤った。
「……面白い」
声は幾重にも重なり、形を持たない。
「この者、我々の世界の神とは異なる」
この世界における神とは、真理――あるいは曼荼羅と呼ばれる、無限の知識とエネルギーの集積へアクセスする者。
天国も、地獄も、死後の世界さえ、その内側に含まれている。
神とは、真理への接続権を持ち、それを行使できる存在。
だが。
あの女神は違う。
外から来た。
自らの内に、別種の理を抱えている。
「真理を内包する、異界の神」
闇の中で、魔神が不敵に嗤った。
「欲しい」
悪魔の目を通じて現世を見ていた存在が、静かに狙いを定める。
「次の標的は、異界の女神だ」




