第31話 絵馬を救い出せ。ラスティの本体!?
ラスティは、先に外へ飛び出していった。
窓の向こうから、まだ咳き込むような声が聞こえる。
あの悪魔にとって、さっきの臭気は相当効いたらしい。
割れた窓から、外気が流れ込んでくる。
ニンニクと唐辛子の残り香。
焦げた香草の苦味。
そこへ、夏の草の匂いが混ざった。
勇が低く言う。
「屋外ではスモークは効きにくい。次は、特製スタングレネードを使う」
「特製?」
嫌な予感がした。
「出力は調整済み。ただし至近距離だと危ない。合図したら、伏せて、目を閉じて、耳を塞いで、口を開ける姿勢を取って」
「ガチで鼓膜破るやつじゃねえか」
思わずツッコむ。
未来は表情を変えずに頷いた。
「OK。その後、私が仕掛ける」
普通に返すな。
勇、いつもこうなの?
白狼も、スケッチブックを書く余裕はないらしい。
胸をどん、と叩いて、了解の合図をした。
俺は息を吸う。
手のひらが、まだ震えている。
この先は、俺の出番だ。
逃げられない。
「いくぞ!」
俺たちは、割れた窓から外へ飛び出した。
芝生の上は、夜露を含んだように少し湿っていた。
靴底が沈む。
草の匂いが強くなる。
遠くでは、まだ魔物の叫びが聞こえていた。
ラスティは、芝生の中央で片手を口元に当て、肩を震わせている。
絵馬先輩の顔が、屈辱に歪んでいた。
「こんな……こんな下品な匂いで……!」
甘い香水の名残を必死に取り戻そうとするように、ラスティは息を整えようとしている。
けれど、そのたびに喉の奥へ臭気が絡み、咳が漏れた。
妖艶な笑みはもうない。
美を司る悪魔が、泥をかけられたみたいな顔でこちらを睨んでいる。
チャンスだ。
勇が腕を振る。
「皆、今だ!!」
銀色の筒が宙を舞った。
次の瞬間――。
カッ。
白く、視界の端が焼けるように弾ける。
ドンッ。
遅れて、腹の底を叩くような衝撃音。
耳を塞いでいても、骨の内側が震えた。
空気そのものが爆ぜたみたいだった。
「――ッ、あああああ!!」
ラスティが芝生の上でのたうち回る。
両目を押さえ、身体をよじる。
悪魔の余裕は完全に剥がれ落ちていた。
白い閃光に焼かれ、音に平衡感覚を奪われ、立ち上がることすらできない。
「クロエ、抑えるよ」
未来の声。
黒い犬のぬいぐるみが跳ねる。
次の瞬間、未来の姿が反転した。
金髪。
赤い瞳。
ゴスロリの衣装を纏ったクロエ憑依形態。
影が足元から溢れる。
「夢幻影手」
地面から、四本の影の手が伸びた。
黒い指が、ラスティの腕、足、胴を掴み、芝生へ縫い止める。
「離しなさい……!」
ラスティが暴れる。
絵馬先輩の喉から出ているはずなのに、その声は濁っていた。
甘さの裏に、焦りと怒りが滲む。
勇が牽制に回る。
ヒートロッドを構え、ラスティの視線を逸らすように前へ出た。
白狼は周囲を警戒している。
魔物が戻ってきても、すぐ反応できる位置だ。
俺は、ラスティの背後に回った。
心臓がうるさい。
どくん、どくん、と。
耳の奥で鳴っている。
手が震える。
失敗したら、絵馬先輩を傷つけるかもしれない。
ラスティを掴むつもりで、絵馬先輩の魂まで壊してしまうかもしれない。
でも。
ここで止まったら、何のためにこの力を取り戻したんだ。
女神様。
俺に、自信と勇気を。
息を吸う。
夏の草の匂い。
焦げた香草の残り香。
遠くの魔物の叫び。
目の前で苦しむ絵馬先輩の呼吸。
全部が、やけに鮮明だった。
――あなたに微笑んでほしい。
指先に、白い光が灯る。
――それだけが、俺を人にする。
光が手のひらへ広がる。
――だからこの手に、救いの力を。
俺は、ラスティの背へ手を伸ばした。
「魂を掴む力」
触れた瞬間、世界の輪郭が変わった。
肉体ではない。
もっと奥。
絵馬先輩の中に絡みついた、黒い影の輪郭が見える。
ぬるりとした感触。
冷たくて、甘くて、気持ちが悪い。
まるで腐った蜜を掴んだみたいだった。
(……その声は……鉄平?)
かすかに、絵馬先輩の声が聞こえた気がした。
胸が熱くなる。
「絵馬先輩、起きてください」
俺は黒い影を掴む。
ラスティが悲鳴を上げた。
「やめなさい……! 私に触れるな、この化け物……!」
「違う」
奥歯を噛みしめる。
「俺は、救うために掴むんだ」
腕に力を込める。
黒い影が、絵馬先輩の身体から引き剥がされていく。
髪の毛を無理やり剥がすような抵抗。
爪を立てて肉体にしがみつくような執着。
ラスティが暴れる。
影の手がきしむ。
未来が歯を食いしばる。
「鉄平、いける! そのまま!」
勇が叫ぶ。
白狼も頷く。
俺は、もう一度強く引いた。
ずるり、と。
黒い影が、絵馬先輩の背中から引きずり出された。
その瞬間、絵馬先輩の身体から力が抜ける。
「絵馬先輩!」
クロエを憑依した未来が影の手を伸ばし、彼女を受け止めた。
よかった……。
救えた……!!
その瞬間、視界の端に半透明のウィンドウが浮かび上がる。
【サブイベントミッション達成】
【超高難度:絵馬からラスティの憑依を引き剥がせ】
【達成条件】
・絵馬の肉体を保護する 達成
・ラスティの本体を引きずり出す 達成
・絵馬の魂を傷つけず救出する 達成
【結果:成功】
「……っ」
息が詰まった。
成功。
絵馬先輩は救えた。
白狼も戻った。
絵馬先輩も取り戻した。
これで、二つの超高難度ミッションは終わった。
――そのはずだった。
安堵が胸に広がるより早く、俺の手の中で黒い影がびくびくと脈打った。
それは一瞬、女の形を取ろうとして――すぐに崩れた。
「……ふ、ふふ」
地面に落ちた影が、芝生の上を這う。
まるで腐った蜜が広がるみたいに、ぬめりながら膨れ上がっていく。
甘い香水の匂いが、今度は腐臭に変わった。
花が腐る匂い。
熟れすぎた果実が潰れた匂い。
血と泥が混ざったような、嫌な湿り気。
「やってくれたわね」
黒い影が盛り上がる。
骨の軋むような音。
肉が内側から膨張するような、不快な湿った音。
影は、人の形を捨てた。
肩が割れる。
背中から膜のような翼が広がる。
腕は異様に長くなり、指先は黒い鉤爪へ変わる。
顔の半分は、美女の面影を残している。
けれど、もう半分は獣の顎に裂けていた。
「でも残念」
ラスティの声が、何重にも重なって響く。
女の声。
獣の唸り。
湿った羽音みたいな低音。
それらが混ざり合い、腹の底を震わせる。
「ここからが、本番よ」
俺たちの前に現れたのは、美しい女ではなかった。
屋根ほどもある巨体。
甘い匂いと腐った花の臭いを撒き散らす、悪魔の本体。
芝生が沈む。
地面が軋む。
翼が開くたび、生温い風が吹きつける。
美と色欲の悪魔――ラスティ。
絵馬先輩は救い出した。
けれど、戦いは終わっていない。
本当の戦いは、ここからだった。




