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恋愛請負人・鉄平完結編 ―最後の相手は女神様!? 異能バトル世界の恋愛ミッションに挑めー  作者: 強炭酸
三章 決戦の夏合宿

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第29話 堕ちた白狼。奪われたもの、取り戻せるのか!?

【鉄平視点】


 ――バンッ!!


 重い扉が、壁に叩きつけられるように開いた。


 鈍い衝撃音が、静まり返ったアトリエに響き渡る。


 真っ先に飛び込んだのは、白狼だった。


 窓越しに、絵馬先輩が倒れるのを見た瞬間から、あいつはもう走っていた。


 誰よりも速く。

 誰よりも迷わず。


 俺たちの中で、一番足が速いのは白狼だ。


 無駄な言葉なんてひとつもない。

 ただ一直線に、たったひとつの目的だけを見て駆ける。


 その背中が、やけに遠く見えた。


「白狼!!」


 呼んでも、振り返らない。


 廊下には、油絵の具と古い木材の匂いが重たく沈んでいた。


 鼻の奥にこびりつく、乾いた絵の具の粉っぽさ。

 磨かれた床板のワックスの匂い。


 その奥に混じる、ひどく甘ったるい香水の匂い。


 喉にまとわりつくような、不快な甘さ。

 まるで腐りかけた花みたいな匂いだった。


 嫌な予感が、肺の奥まで入り込んでくる。


 俺たちが追いつくより先に、白狼は倒れている絵馬先輩のもとへ膝をついていた。


 床には、クロッキー帳が落ちている。

 ページが開いたまま、紙の端が震えていた。


 新渡さん――鷹志さんは膝から崩れ落ち、魂が抜けたみたいに座り込んでいる。


 亜里沙さんも、糸が切れた人形みたいに床へ倒れていた。


 そして。


 絵馬先輩だけが。


 ゆっくりと、顔を上げた。


 その瞬間。


 背骨に氷を流し込まれたみたいな寒気が走った。


 違う。


 見た瞬間に分かった。


 顔は、絵馬先輩だった。


 長い髪も。

 白い肌も。

 整った輪郭も。

 いつも気だるそうに細める目元も。


 全部、絵馬先輩のままだ。


 なのに。


 そこに宿っている“何か”が、決定的に違った。


 瞳。


 その瞳だけが、ぬらりと濡れた光を宿していた。


 赤とも紫ともつかない。

 深い宝石の底に沈んだ血みたいな色。


 綺麗なのに、見てはいけないものを見ている気がした。


 ぞっとするほど、美しかった。


 白狼が、彼女を起こそうと手を伸ばす。


 その指先が、あと少しで触れる。


 その瞬間。


 二人の目が合った。


 時間が、止まったみたいだった。


「あなたは――」


 絵馬先輩の唇が、ゆっくりと開く。


 声は、甘かった。


 耳に届くというより、脳の奥に直接染み込んでくるみたいな声。


「私のモノ」


 ひやり、と。


 空気の温度が落ちた気がした。


「よろしくね」


 その微笑み。

 その口調。

 その仕草。


 全部、絵馬先輩じゃない。


 でも、絵馬先輩の顔でそれをやられるのが、最悪だった。


 白狼の肩が、びくりと揺れた。


 まるで、糸を引かれたみたいに。


 次の瞬間。


 白狼の目から、光が消えた。


 す、と。


 水底へ沈んでいくみたいに。


 意識だけが、深く、深く、暗いところへ引きずり込まれていく。


 焦点が消える。

 呼吸だけが残る。


 人形みたいに。


「白狼!!」


 未来の叫びが、アトリエを裂いた。


 俺たちが完全に飛び込んだ時には、もう遅かった。


 白狼は、ふらりと立ち上がっていた。


 いや。


 立たされている、という方が正しい。


 背筋はまっすぐだ。

 姿勢も崩れていない。


 けれど。


 あの目が、何も見ていない。


 普段なら誰よりも細かく世界を観察しているあの視線が。


 今は、ただ空っぽだった。


 胸がざわつく。


 嫌だ。


 これは嫌だ。


 こいつは、こういう顔をするやつじゃない。


 白狼はもっと、無言のくせにうるさい男だ。


 スケッチブックでツッコんで。

 肩を震わせて笑って。

 好きなものにだけ、まっすぐな目をするやつだ。


 こんなの、違う。


 その横で。


 絵馬先輩が、ふわりと立ち上がる。


 足音がしない。


 夕陽が床に長く伸びている。

 その赤い光の中を、影だけが滑るように動いた。


 白い指先が、さらりと髪を払う。


 その何気ない仕草ひとつが、ひどく艶っぽい。


 美しい。


 でも、それ以上に怖い。


 本能が、近づくなと叫んでいた。


「白狼……!?」


 未来の声には、怒りと焦りが混じっていた。


「遅かったか……」


 低く、噛み締めるように。


「白狼は魅了(チャーム)に掛かっているわ」


 その言葉で、胃の奥が冷たくなる。


 魅了。


 鉄平に効かなかったからって、軽く見ていい力じゃない。


 心の隙間に入り込み。

 好意や執着を利用して。

 じわじわと、逃げ道を塞いでいく。


 悪魔の毒。


 白狼にとって、絵馬先輩は。


 絵を認めてくれた人。


 師匠で。

 恩人で。

 憧れだった。


 そこを突かれた。


 最悪だ。


 未来は、絵馬先輩――いや、その中にいるモノを睨みつける。


「やってくれたわね、ラスティ」


 絵馬先輩の顔をした悪魔は、くすりと笑った。


 小さな笑い声。


 なのに。


 その音だけで、アトリエ全体の空気が支配された。


 壁に掛かった絵たちまで、笑っている気がする。


「似合うでしょう?」


 ラスティは、自分の身体を撫でるみたいに両腕を広げた。


「この身体」


 香水の匂いが、さらに濃くなる。


 甘い。


 気持ち悪いほど。


「美しいものは、使われてこそ価値があるのよ」


「ふざけるな……」


 気づけば、拳を握り締めていた。


 爪が掌に食い込む。

 血が出そうなくらい。


 その時。


 耳の奥に、迅先輩の声が響いた。


『未来、周辺に悪魔の手下、魔物が現れた』


 精神感応通信(チャットウィスプ)


 緊迫した、低い声。


『一般人の避難は凛と翠鳥に任せる。俺はこっちを片付けてから向かう。持たせてくれ』


 窓の外を、巨大な影が横切った。


 ばさり。


 空気を裂く、不快な羽音。


 コウモリに似ている。

 けれど、翼の形が歪だ。


 骨の位置が、人間の悪夢みたいにおかしい。


 黒い皮膜が夕焼けを裂き、窓ガラスに影を落とす。


 その向こうで。


 悲鳴が上がった。


 女の人の声。

 子どもの泣き声。

 遠くでガラスが割れる音。


 胸が冷える。


 このタイミングで魔物を放つ。


 俺たちを分断して。

 絵馬先輩を奪い。

 白狼を操る。


 全部、計画通りって顔だった。


 悔しいほど、綺麗にハマっている。


 その瞬間。


 俺の視界に、半透明のウィンドウが浮かび上がった。


【サブイベントミッション発生】


【超高難度:白狼を魅了(チャーム)から救い出せ】


【達成条件】

 ・白狼の行動を止める

 ・魅了のリンクを断ち切る

 ・白狼を戦線に復帰させる


 続けて、もう一つ。


【サブイベントミッション発生】


【超高難度:絵馬からラスティの憑依を引き剥がせ】


【達成条件】

 ・絵馬の肉体を保護する

 ・ラスティの本体を引きずり出す

 ・絵馬の魂を傷つけず救出する


「……二つ同時かよ」


 喉が、からからに乾いた。


 白狼を救う。


 絵馬先輩を救う。


 どちらか片方じゃない。


 どちらも失敗できない。


 しかも、どちらも超高難度。


 視界の端で、二つのミッション表示が重なる。

 まるで、逃げ道を塞ぐみたいに。


 でも。


 こっちにも、策はある。


 未来が、一瞬だけ俺を見る。


 その視線に込められた意味は、すぐ分かった。


 ――魂を掴む力(ソウルセイヴ)


 俺の役目は。


 ラスティを、絵馬先輩の中から引きずり出すこと。


 奪うためじゃない。

 救うために掴む力。


 女神様に誓った、この手の使い道。


 怖い。


 正直、めちゃくちゃ怖い。


 でも。


 やるしかない。


 未来が、静かに息を吸う。


「白狼は私が止める」


 その声に、迷いはなかった。


 痛いほど、まっすぐだった。


「勇、鉄平」


 呼ばれる。


 俺たちは同時に顔を上げる。


「絵馬先輩を頼んだわよ」


 勇が、拳を強く握る。


「ああ!!」


 俺も、喉の奥の震えを押し込んで頷いた。


「任せろ!!」


 白狼が、ゆっくりとこちらへ向き直る。


 その動きは静かで。

 だからこそ怖い。


 後ろで、絵馬先輩の顔をしたラスティが、満足そうに微笑んでいた。


 甘い匂い。


 重たい絵の具の匂い。


 外から響く魔物の羽音。


 悲鳴。


 そして。


 静かに張り詰めた殺気。


 夏の避暑地に似合わない悪夢が。


 アトリエの中で、静かに花開いていく。


 決戦の火蓋は。


 もう、とっくに切って落とされていた。

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