第24話 知らない記憶。死神の見た夢!?
「なあ、あんた。“死神・撤兵”だろ?」
どこだ、ここは。
目を開けた瞬間、鼻の奥に煙草と安い酒の臭いがこびりついた。
薄暗いバー。
カウンターの上には、拭き残しの水滴と、古い酒の染み。
床は妙にべたついていて、一歩動かすたびに靴底がわずかに粘る。
グラスの縁には、洗い残した油膜みたいな光が浮いていた。
いかにも治安が悪く、
いかにも闇の取引が行われていそうな場所。
壁際の男たちは、誰もこちらを直視しない。
だが見ている。
グラス越しに。煙草の煙越しに。
目だけで、値踏みするように。
そんな場所に、場違いなくらい普通の青年が立っていた。
茶髪に眼鏡。
細い腕。
そこらの高校生と言われても通じそうな顔立ち。
「待って待って。あんたを売ろうとか、命を取ろうってわけじゃないんだ」
青年は両手を上げる。
手が震えている。
嘘をつく人間の震えじゃない。
恐怖を押し殺している震えだ。
「俺を、あんたの弟子にしてほしい」
――弟子。
その言葉を聞いた瞬間、記憶が沈んでいく。
♢
俺は孤児院で育った。
そこから、すぐ軍へ引き取られた。
“不気味な力”を持っていたからだ。
名前はなかった。
♯42。
それが、俺を呼ぶ記号だった。
施設の空気は、いつも冷たく湿っていた。
消毒液。血。鉄の錆びた臭い。
白い壁。白い床。白い服。
なのに、どこも清潔には見えなかった。
最初は動物だった。
檻の中で怯える犬。
暴れる猿。
鳴き声を上げることさえできなくなった実験体。
次に、死刑囚。
手足を縛られた男が、俺の前に転がされた。
命乞いをする声。
床を爪で引っ掻く音。
汗と尿の臭い。
俺は、それらと戦わされた。
俺の力は、魂を抜き取る力。
人の奥にあるものを掴む感覚。
肉ではない。骨でもない。
けれど確かに、そこにある何か。
抜き取った魂には、鎖がついていた。
それを千切れば、肉体は死ぬ。
放っておけば一時間ほどで戻る。
ただし、戻ったとしても、心まで無事とは限らない。
廃人になった者もいた。
最初は、吐いた。
手が震えた。
夜になると、抜き取った魂の重さが指先に残っている気がして眠れなかった。
けれど、人間は慣れる。
慣れてしまう。
それが一番、腹立たしかった。
この施設には、“異能”を持つ子どもたちが集められていた。
番号で呼ばれ、記録され、試され、壊されていく。
俺は、そいつらと裏で手を組んだ。
監視カメラの死角。
巡回時間のズレ。
記録係の癖。
武器庫の暗証番号。
全部、覚えた。
監視の目をすり抜け、記録を改ざんし、武器庫の鍵を盗み、逃走経路を作った。
暗躍の才能だけは、最初からあったのだと思う。
脱獄の夜。
警報が鳴った。
赤いランプが回る。
銃声が響く。
誰かが叫ぶ。
誰かが倒れる。
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、足が止まると思ったからだ。
脱獄は成功した。
だが、逃げ出しただけでは終われなかった。
俺たちを作った施設を、残しておくわけにはいかなかった。
敵国へ流れ着いた俺は、傭兵になった。
元いた国の施設を潰すために。
異能だけじゃない。
銃。爆弾。近接格闘。
諜報。斥候。暗殺。
学べるものは全部学んだ。
使えるものは全部使った。
施設が、俺を死神に変えた。
なら、これはその礼だ。
国境線を巡る戦争があった。
死の商人が金を稼ぐためだけに、だらだらと長引かせていた戦争だった。
俺は補給路を断った。
橋を落とした。
通信を潰した。
倉庫を燃やした。
司令部の首をすげ替えた。
一つ。
また一つ。
夜の戦場では、火薬の臭いより、焦げたゴムの臭いの方が鼻に残った。
血の臭いより、焼けた金属の臭いの方が、いつまでも喉に張りついた。
やがて、戦争は継続不能になった。
相手は、“撤兵”した。
それが、俺の名の由来になった。
死神・撤兵。
例の施設は、その混乱に乗じて破壊した。
目的は果たした。
それから俺は、戦争から身を引いた。
……身を引いたところで、俺の中身は何も戻らなかったが。
闇の世界で、掃除屋を始めた。
悪人を始末する仕事だ。
人を売る者。
子どもを使い潰す者。
戦争を長引かせる者。
他人の命を、数字としてしか見ない者。
そういう連中を消した。
正義感ではない。
怒りでもない。
たぶん、癖だった。
どこの国からも暗殺対象になった。
そのたびに返り討ちにした。
殺しても、何も感じなかった。
助けても、何も満たされなかった。
俺には、何もなかった。
そして、これからもないのだと思っていた。
♢
記憶は、再びあのバーに戻る。
「……マスター、ポテトチップを」
「あいよ」
注文に見せかけた、報酬の隠語。
くだらない。
こんな安い酒場で、安い隠語を使って、人の命の値段が動く。
カウンターの木目に染みた酒の臭いが、やけに鼻についた。
奥の席で、男が二人立ち上がる。
視線がこちらへ向いた。
敵か。
指先に意識を落とす。
魂の輪郭を掴む準備をする。
片方の男が懐に手を入れた。
遅い。
俺はグラスを持ち上げるふりをして、カウンターの下で短く足を払った。
男の膝が崩れる。
もう一人がナイフを抜くより早く、俺は椅子を蹴った。
木製の椅子が男の胸に当たり、息を詰まらせる。
その一瞬。
俺は手を伸ばした。
肉体には触れない。
もっと奥を掴む。
男の目が白く揺れる。
魂の鎖が、指先に絡んだ。
抜かない。
少しだけ引く。
それだけで、男は糸が切れたように床へ崩れた。
バーの中が静かになる。
誰も騒がない。
誰も助けない。
ここでは、そういうものだ。
「……床、汚すなよ」
マスターがぼそりと言う。
「あんたの店だろ」
「だから言ってる」
俺は椅子に座り直した。
その時だった。
「おい、あんた。“死神・撤兵”か?」
面倒なやつが話しかけてきた。
消すか。
そう思った瞬間、青年が慌てて両手を上げた。
「いや、違う! 俺は敵じゃない!」
声が震えている。
だが、目だけは逸らさない。
「あんたのファンだ!」
「……ファン?」
意味が分からなかった。
俺の何を見て、そんな言葉が出てくる。
命を奪う手際か。
人を壊す技術か。
死神と呼ばれる悪名か。
どれに憧れたとしても、ろくなものじゃない。
「むしろ、弟子にしてほしい。伝説の“死神・撤兵”」
青年は、場違いなほど真っ直ぐにそう言った。
煙草の煙が、薄暗い天井へゆっくり溶けていく。
グラスの中の氷が、からん、と鳴った。
俺は、その音を聞きながら、目の前の青年を見る。
普通の顔。
普通の手。
普通の声。
さっき床に倒れた連中とは違う。
この酒場にいる連中とも違う。
ここにあるものの中で、それだけがひどく浮いていた。
だからこそ、苛立った。
普通の人間が、こんな場所に来るな。
普通の手で、死神に触れようとするな。
その普通さが。
ほんの少しだけ、眩しかった。
「帰れ」
俺は短く言った。
青年は怯まなかった。
「嫌だ」
「死ぬぞ」
「それでもいい」
「よくない」
自分で言ってから、少しだけ驚いた。
よくない?
俺が?
人が死ぬことを、よくないと思ったのか。
青年は、そこにつけ込むように笑った。
「ほら、やっぱり」
「あ?」
「あんた、死神って呼ばれてるけど、普通に優しいじゃん」
カウンターの空気が、少しだけ止まった。
俺は青年を見た。
殺してやろうかと思った。
本気で。
けれど、その言葉が喉の奥に刺さって、抜けなかった。
優しい。
そんな言葉は、俺に一番似合わない。
「……お前、名前は」
「え?」
「名前だ」
青年は、ぱっと顔を明るくした。
その表情が、本当に普通で。
俺は、なぜだか目を逸らしたくなった。




