第21話 鉄平の迷い。その奥に見つけた本当のエゴ!?
季節は、すっかり梅雨に入っていた。
放課後の美術室。
窓の外では、細い雨がずっと降り続いている。
ガラスを叩く雨音が、静かな部屋の奥で一定のリズムを刻んでいた。
湿った空気に、絵の具と紙の匂いが混じる。
少し重たいその空気の中で、今日も美術部はいつも通りだった。
「……あ、未来ちゃん、よろしくー」
「凛、今日は暴走しないでよー」
「暴走って何?」
俺が聞くと、凛はぎくりと肩を揺らした。
「な、なんでもないわ」
未来は意味深に笑う。
「まあ、色々あったのよ。ね、凛?」
「うっ……」
凛は小さく肩をすくめて、そそくさとイーゼルの方へ逃げていった。
……何があったんだ、この二人。
気になる。
気になるけど、深く聞いたら面倒なことになりそうな空気だった。
俺はというと、相変わらずデッサンに苦戦していた。
鉛筆の先が紙を擦る音。
消しゴムの白いカス。
何度描いても、何かが違う。
形はそこそこ取れている。
遠近感も、前よりはマシだ。
なのに――
“これだ”という感じがしない。
俺は、納得できないまま次に進むのが苦手だ。
引っかかったまま放っておくと、ずっとそこが気になってしまう。
だから、今日も止まっていた。
そんな俺の手元を覗き込みながら、絵馬先輩が静かに言った。
「……苦戦してるわね」
責めるような口調じゃない。
むしろ、雨音みたいに自然だった。
赤縁の眼鏡の奥の目が、まっすぐこちらを見る。
「鉄平」
その声に、なぜか背筋が伸びた。
「あなたは、何が好き?」
「……え?」
「誰が好き?
何のために、描きたいの?」
その瞬間。
胸の奥で、何かが揺れた。
言葉が、真っ直ぐすぎた。
何が好き。
誰が好き。
何のために。
頭の中で、今までの景色がばらばらと浮かぶ。
最初は、ハーレムを作りたかった。
そんな軽い動機だった。
でも。
女神様に褒められた時。
隣で笑ってくれた時。
「よく頑張ったわね」って、あの声で言われた時。
胸の奥が、どうしようもなく嬉しかった。
筋トレを続けたのも。
ダイエットを頑張ったのも。
誰かを幸せにしようと走り続けたのも。
全部。
全部――
女神様に、見ていてほしかったからだ。
ぱちり、と。
頭の中で、長い間バラバラだったパズルのピースが、ひとつに組み上がる音がした。
「俺は……」
喉が熱い。
気づいた時には、涙がこぼれていた。
ぽた、ぽた、と。
スケッチブックの上に、丸い染みが落ちる。
「ええっ!?」
未来が飛び上がった。
「ちょ、絵馬先輩!? ロジハラとか後輩いじめはよくないと思います!」
「え!? 違っ……!」
絵馬先輩まで珍しく慌てている。
「ご、ごめん、そんなつもりじゃなくて……!」
「いえ!!」
俺は慌てて手を振った。
「違うんです! そうじゃなくて!」
涙を拭いながら、深呼吸する。
恥ずかしい。
でも、今ならちゃんと口にできる気がした。
「……相談、いいですか」
♢
美術室の隣にある、小さな別室。
普段は画材や資料を置いている部屋らしく、棚にはクロッキー帳や額縁、古い美術雑誌が積まれていた。
窓は小さく、夕方の光が少しだけ差し込んでいる。
紙コップの紅茶から、ふわりと湯気が立つ。
柑橘っぽい香りが、少しだけ喉の奥の緊張をほどいてくれた。
向かいに座る絵馬先輩は、足を組み、いつものように落ち着いた顔をしている。
「それで、相談って?」
「あ、はい」
俺は紙コップを両手で持った。
少し熱い。
けれど、その熱がないと、言葉が逃げていきそうだった。
「絵馬先輩。例えばこれは……友達の話なんですけど」
絵馬先輩の眉が、ほんの少しだけ動いた。
(鉄平くんの話ね)
顔にそう書いてあった。
いや、まあ。
そうなんだけど。
俺は咳払いをひとつする。
「その友達が……手の届かない神様みたいな人に、恋してしまったら」
言ってから、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
「どうしたらいいでしょうか」
一瞬、沈黙が落ちた。
紙コップの湯気だけが、静かに揺れる。
絵馬先輩は、ふむ、と顎に手を当てた。
(なるほど。アイドルか、配信者か、二次元か……かなり本気の推し活ね)
たぶん、そういう顔だった。
「良いと思うわ」
あっさり返ってきた。
「……良いんですか?」
「ええ。神様みたいな存在に恋すること自体は、何も悪くないもの」
心臓が、どくんと鳴った。
「美術の世界だって、そうよ。神話の女神、聖母、偶像、理想化された誰か。人は昔から、手の届かないものに恋して、それを絵にしてきた」
絵馬先輩は、紅茶を一口飲む。
「届かないからこそ、描きたくなる。触れられないからこそ、形に残したくなる。そういう感情は、立派な創作の火種よ」
俺は、息を飲んだ。
女神様に触れられない。
けれど、想っている。
願いで結ばれたいなんて、そんな都合のいいことを考えている。
それでも、否定されなかった。
「でも……相手は、本当に遠い存在なんです」
「でしょうね。神様みたいな相手なんでしょう?」
「はい。住む世界が違うというか」
「分かるわ」
絵馬先輩は大きく頷いた。
「画面の向こうとか、ステージの上とか、作品の中とかね」
「……まあ、似たようなものです」
似ているのか?
いや、遠いという意味では似ている。
たぶん。
「それでも好きなら、まずは否定しないことね」
「否定しない……」
「好きになった自分を、恥ずかしがらないこと」
その言葉が、胸に落ちた。
俺はずっと、どこかで恥ずかしかったのかもしれない。
相手は女神様で、自分はただの人間で。
そんな恋を口にすること自体が、おこがましい気がしていた。
けれど。
絵馬先輩は、まっすぐ言った。
「恋って、まずエゴなのよ」
「エゴ……」
「その人を好きだと思う。見ていたいと思う。近づきたいと思う。選ばれたいと思う。全部、エゴ」
絵馬先輩は、軽く肩をすくめる。
「でも、そのエゴをどう扱うかで、人は醜くもなるし、美しくもなる」
部屋の空気が、少しだけ静かになった。
「だから、まずは描いてみたら?」
「……絵を?」
「ええ」
絵馬先輩は、当たり前みたいに言う。
「あなたが好きなものを。あなたが憧れて、焦がれて、手を伸ばしたいと思ったものを」
「でも、描いていいんでしょうか」
「どうして?」
「恐れ多いというか」
「ガチ恋勢はだいたい最初そう言うわ」
「ガチ恋勢」
絵馬先輩は真剣だった。
「でもね、鉄平くん。描くことは、相手を汚すことじゃない。自分の感情を外に出して、ちゃんと見つめることよ」
紙コップの紅茶が、少し冷めてきていた。
「感情を、エゴを、ちゃんと外に出すの。描くって、そういうことだから」
絵馬先輩の声は静かだった。
「好きな気持ちを、ただ胸の中で膨らませているだけだと、いつか苦しくなる。形にしなさい。絵でも、言葉でも、何でもいい」
「形に……」
「そう。あなたの中にある神様を、あなた自身の手で描くの」
俺の中にある、女神様。
いつも微笑んでくれた人。
試練を与えた人。
背中を押してくれた人。
俺がここまで変われた理由。
胸の奥が熱くなった。
「絵馬先輩」
「何?」
「俺、その人のこと……本当に好きなんだと思います」
言ってしまった。
声にした瞬間、喉の奥が震えた。
絵馬先輩は驚かず、ただ少しだけ優しく笑った。
「でしょうね」
「分かるんですか?」
「見れば分かるわ。さっき泣いたもの」
「うっ」
「大丈夫よ」
絵馬先輩は、紙コップを置く。
「神様みたいな人に恋をしてもいいの。届かない相手を好きになってもいい。問題は、その気持ちで自分を壊すか、自分を作るかよ」
自分を、作る。
その言葉が、強く残った。
「鉄平くんは、たぶん後者にできる人だと思う」
「……ありがとうございます」
絵馬先輩は満足そうに頷いた。
(アイドルだって、卒業したり引退したりして一般人になる可能性はゼロじゃないし。まあ、現実は厳しいけど、創作に昇華するなら健全ね)
たぶん、そんなことを考えている顔だった。
けれど俺には、その言葉が十分すぎるほど救いだった。
「……わかりました」
俺は、ゆっくり頷いた。
「描いてみます」
「ええ。まずはそこから」
「頑張ります」
絵馬先輩は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「ただし、本人に見せる時は慎重にね」
「本人に……」
「重すぎる絵を急に渡されると、相手もびっくりするから」
「肝に銘じます」
俺は真剣に頷いた。
女神様に、自分の描いた絵を見せる。
想像しただけで、胸が苦しくなる。
でも。
いつか、ちゃんと見てもらいたいと思った。
俺の中の感謝も、憧れも、恋も。
全部込めて。
絵馬先輩は紅茶を飲み干し、穏やかに言った。
「大丈夫。恋は創作の一番強い燃料よ」
その言葉に、俺は少しだけ笑えた。
「はい」
胸の奥にあった苦しさが、完全に消えたわけじゃない。
けれど、形にする道は見えた気がした。
俺は女神様が好きだ。
その気持ちを、まずは絵にする。
そこから、始めてみようと思った
♢
部屋を出ると、白狼がすぐに肩を叩いてきた。
『大丈夫!?』
スケッチブックに、大きな字。
未来も腕を組んで立っていた。
「そうそう。抱え込まないで吐き出しなさいよ」
「……心配かけてごめん」
俺は少し笑った。
「でも、むしろ自分の気持ちが分かったんだ」
白狼と未来が、同時に首を傾げる。
俺は、静かに息を吐いた。
俺は、女神様が好きだ。
好き、なんて言葉じゃ足りない。
ダイエットを続けたのも。
筋トレを頑張ったのも。
九人の主人公を幸せにできたのも。
全部。
全部、あの人に褒めてもらいたかったからだ。
隣で笑っていてほしかったからだ。
どうしよう。
好きどころじゃない。
――愛してる。
そう認めた瞬間、胸が苦しくなった。
雨の匂いが、少しだけ濃くなった気がした。
♢
その夜。
夢の中で、女神様はいつもの場所にいた。
柔らかな光の中で、こちらを見ている。
俺は、少し緊張しながら口を開く。
「女神様の絵を、描かせてください」
一瞬、女神様が目を丸くして。
それから、くすりと笑った。
「いいわよ」
その笑い方だけで、心臓が危ない。
すると、女神様が少し悪戯っぽく首を傾げた。
「……あ、でも。ヌードは……」
「いえいえいえいえ!!」
食い気味だった。
「恐れ多いです!!
いつもの、ありのままの女神様でお願いします!!」
女神様は、少しだけ残念そうに微笑んだ。
(鉄平が良いなら、OKしたんだけどなあ)




