第19話 凛=異世界の女神。そのとき未来は!?
【未来視点】
私は、白狼の“観察眼”を昔から信頼している。
絵心のせいなのか。
話せなくなったことで、世界を見る力が鋭くなったのか。
それとも、もともとそういう子だったのか。
理由は、今でも分からない。
ただ、白狼は昔から、よく見ていた。
人の表情。
視線の動き。
呼吸の間。
歩き方。
手の癖。
言葉にならない違和感。
私が勢いで見落とすものを、白狼は拾う。
私が「敵だ」と決めつけそうになる相手の中にある迷いも、
私が「大丈夫」と流しそうになる空気の歪みも、
白狼は黙って見て、静かに見極める。
だからこそ。
私は、白狼の出した結論を無視できなかった。
退魔師連合の訓練施設。
冷たい床。
乾いた空気。
わずかに漂う消毒液の匂い。
壁際には訓練用の札や結界具が整然と並び、蛍光灯の白い光が無機質に床を照らしている。
美術室とは、まるで違う場所だった。
絵の具の匂いも、紙のやわらかさもない。
あるのは、戦うための空気。
見極めるための静寂。
その中央に、凛が立っている。
いつも通りの制服。
いつも通りの顔。
少し困ったように眉を寄せて、けれど逃げるわけでもなく、私たちの前に立っている。
バレー部で楽しそうに笑っていた凛。
美術部で鉄平をモデルにして、なぜかボディビルの掛け声を飛ばしていた凛。
鉄平のことになると、分かりやすく挙動が怪しくなる凛。
その全部が、目の前の彼女だった。
けれど、白狼は見抜いた。
この人は、ただの人間ではない。
「凛」
私は、息を吸う。
喉が乾いている。
舌が重い。
指先が冷たい。
それでも、声を出した。
「あなたは、人の姿を借りて降りてきた“名のある神”だと考えています」
凛の表情が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だった。
けれど、その一瞬で十分だった。
否定でもない。
驚きでもない。
ただ、核心に触れられた者の沈黙。
私の背中に、冷たいものが走る。
やっぱり。
白狼の見立ては、間違っていない。
「私たちに敵対の意思はありません」
私は続ける。
「ですが、その目的を教えてくれませんか」
これは交渉だ。
本来、リスク5――“神”との交渉には、退魔師連合トップである“三賢人”の承認が必要になる。
リスク5。
記録の中でしか見たことがない分類。
災害ではなく、存在そのものが国家規模の危機として扱われる領域。
怒らせれば終わる。
交渉を誤れば、街が消える。
敵対すれば、勝つ負ける以前に、人間の側が交渉対象として成立しない。
そういう相手。
私の母は、その三賢人の一人。
“赤の賢人”――堺杏里。
母には、あらかじめ相談していた。
白狼の見立て。
凛の周囲に感じた異常な圧。
悪鬼と遭遇した時の違和感。
訓練所で水霊を相手にした時、白狼が再び感じ取った同質の気配。
母はそれを聞き、いつものおっとりした顔のまま、しばらく黙った。
そして言った。
――未来、あなたが話しなさい。
私が、交渉役に選ばれた。
クラスメイトだから。
凛と近い位置にいるから。
彼女を「危険存在」としてだけではなく、「知り合い」として見られるから。
そんな理由もある。
でも、それだけじゃない。
母はきっと、私を試している。
父がかつて立っていた場所。
人と、人ならざるものの間に立つということ。
力だけではどうにもならない相手と向き合うということ。
その重みを、私に感じさせようとしている。
肩に、見えない重圧がのしかかる。
凛は黙っている。
怒っている様子はない。
敵意もない。
けれど、そこに立っているだけで、空気の密度が変わっている。
白狼が言っていた圧。
それが、今なら少し分かる気がした。
怖い。
正直に言えば、怖い。
目の前にいるのは、友達になりかけていた女の子だ。
でも同時に、私たちの理解を超えた存在かもしれない。
もし彼女が敵なら。
もし鉄平や白狼に近づいた目的が、私たちにとって最悪のものなら。
私は止めなければならない。
できるか?
……分からない。
喉が渇く。
指先が冷たい。
呼吸が少し浅くなる。
(父さん……こんなプレッシャーと戦ってたのか)
父は、こんな相手たちと向き合ってきたのだろうか。
人間の都合だけでは測れない存在。
正しさも、善悪も、常識も違う相手。
その前に立って、言葉を選んで、必要なら戦う。
そんなことを。
けれど。
私は、ガキ大将で、脳筋だ。
難しい交渉だけでは、たぶん答えを出しきれない。
言葉だけで信じるほど大人でもない。
相手の力を知らずに、安心するほど鈍くもない。
だから結局、私はこんな方法でしか確かめられない。
「お手合わせをお願いします」
私は頭を下げた。
凛の気配が、ほんの少し揺れた気がした。
「私と白狼。神様の胸を借りるつもりで、挑ませていただきたい」
言ってから、自分でも思う。
無茶苦茶だ。
下手をすれば、死ぬかもしれない。
相手はリスク5かもしれないのだ。
私たちが全力で挑んだところで、稽古にすらならない可能性もある。
それでも。
胸の奥が、熱い。
怖い。
でも、知りたい。
知るためには、ぶつかるしかない。
私は退魔師連合のエースと呼ばれている。
母の娘として、父の背中を追う者として、そう呼ばれるだけの努力はしてきた。
けれど、私はまだ、本当の意味での敗北を知らなかった。
自分より格上の存在に、真正面から叩き潰される経験。
勝てないという現実を、身体で理解する経験。
それを知らないまま、強くなったつもりでいた。
だから。
(正直、ワクワクしてる)
怖さの奥で、戦意が燃える。
自分でも呆れる。
相手は神かもしれないのに。
国ひとつ滅ぼせる存在かもしれないのに。
それでも、挑みたいと思っている。
私はきっと、やっぱり父の娘で。
そして、母に言わせれば、どうしようもなく退魔師なのだ。
♢
凛は、しばらく黙っていた。
その沈黙が長く感じる。
訓練施設の空調音が、耳に残る。
蛍光灯がかすかに唸っている。
自分の鼓動が、やけに大きい。
白狼は隣で静かに立っている。
喋れない。
けれど、視線はまっすぐ凛を見ていた。
凛はやがて、静かに息を吐いた。
「……分かったわ」
その声は、いつもの凛の声だった。
けれど、どこか違った。
同じ声なのに、深さが違う。
学校で聞く声よりも、遠くから響いてくるような、不思議な重みがあった。
凛は髪に手を伸ばす。
いつものポニーテールをほどき、指先で髪をまとめ直していく。
その動作はゆっくりで、無駄がなく、妙に美しかった。
夜会巻きのように、髪がコンパクトにまとめ上げられる。
その仕草だけで、空気が変わった。
ただのクラスメイトだった少女が、別の何かへ切り替わっていく。
肌に触れる空気が重くなる。
床が少し遠く感じる。
蛍光灯の光でさえ、彼女の周囲だけ輪郭を失ったみたいに見えた。
白狼の言葉が、頭をよぎる。
――リスク5。
――神だ。
目の前の凛は、こちらを見ている。
敵意はない。
怒りもない。
それなのに、身体が勝手に警戒する。
本能が言っている。
これは、人間が不用意に触れていいものではない。
「私が立ち会います」
その時、別の声がした。
柔らかい声。
聞き慣れた声。
けれど、この場で聞くには少し意外な声。
視線を向けると、そこに神職のような装束をまとった女性が立っていた。
三十前後に見える。
糸目で、おっとりしていて、今にも「あらあら」と言いそうな雰囲気。
でも、その姿を見た瞬間、私は思わず声を上げた。
「母さん!?」
私の母、堺杏里。
退魔師連合、三賢人が一人。
“赤の賢人”。
ただし見た目は、どう考えても実年齢より一回り若い。
下手をすると、歳の離れた姉くらいに見える。
この場にいると分かっていた。
相談もしていた。
必要なら立ち会うと言われていた。
それでも、実際に現れると心臓に悪い。
「お初にお目にかかります」
母さんは、凛へ柔らかく一礼した。
いつもの母の顔。
でも、そこにいるのは間違いなく三賢人だった。
空気が、さらに引き締まる。
「退魔師連合、三賢人が一人。堺杏里と申します」
声は穏やか。
けれど、一言一言が静かに場を支配していく。
「この度は、娘に稽古をつけていただきたく存じます」
凛は母さんを見た。
そして、静かにうなずいた。
そのやり取りだけで、私は理解する。
母さんは、凛を“神格存在”として扱っている。
少なくとも、そう扱うだけの相手だと判断している。
つまり、白狼の見立てはほぼ確定したようなものだ。
背中に汗が滲む。
怖い。
でも、逃げない。
白狼が隣でスケッチブックを閉じる。
戦う時、彼はもう書かない。
私も、呼吸を整えた。
ルミナス。
クロエ。
心の中で、二人の名を呼ぶ。
持ち霊たちの気配が、胸の奥で応える。
凛は静かに立っている。
構えているようには見えない。
けれど、隙もない。
手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、果てしなく遠い。
母さんが片手を上げる。
その白い指先が、蛍光灯の光を受けて淡く光った。
「では――」
一瞬。
世界が静かになる。
空調音も、床の冷たさも、自分の鼓動も、全部が遠くなる。
「はじめ」
次回から毎日1本、5:50更新です。




