第18話 鉄平、モデルになる。女神様正体バレ!?
イーゼルの前に立つ凛は、やたらと熱を帯びていた。
「鉄平! 良い血管出てるよ!!」
「肩にちっちゃい重機のってんのかい!?」
「それだけ絞るのに、眠れない夜もあったでしょうね!?」
「やめて!? ここ美術部だよね!?」
美術室に、ボディビルダーコンテストみたいな掛け声が響いていた。
鉛筆が紙を走る音は鋭い。
カリカリ、シャッ、シャッ。
凛の視線は真剣そのものだ。
初心者のはずなのに、迷いがない。
というか、妙にノっている。
「凛、なんでそんな掛け声知ってるの?」
「雑誌と動画で予習したわ」
「予習の方向性!」
未来が額を押さえる。
白狼はというと、完全にツボに入っていた。
机に突っ伏し、肩をぷるぷる震わせている。
スケッチブックに、震える字が書かれた。
『鉄平と凛、おもろ』
筆跡まで笑っている。
腹筋が死んだらしく、起き上がれない。
「はいはい白狼、起きて。深呼吸」
未来が慣れた手つきで白狼の背中をさする。
すー。
はー。
白狼はどうにか呼吸を整える。
……いや、まだ肩が震えている。
一方、俺は凛の視線を真正面から浴び続けていた。
モデルって、こんなに見られるものなのか。
じっとしているだけなのに、肌の上を視線がなぞっていくようで落ち着かない。
凛は真剣だ。
真剣なはずだ。
だけど、なぜだろう。
妙に圧がある。
「……なんか、よく知ってる大恩人を思い出すな」
「え?」
凛がぴくっと反応した。
「いや、なんでもない」
胸の奥に、ほんの小さな違和感が引っかかる。
でも、その正体はまだ掴めない。
しばらくして、凛の下描きを見た絵馬先輩が、ぴたりと動きを止めた。
美術室の空気が、少し変わる。
「……上手い」
「え?」
凛が顔を上げる。
絵馬先輩は赤縁の眼鏡を外し、キャンバスをじっと見つめた。
「バランスの取れた構図。質感も明暗も悪くない。初心者とは思えないわ」
凛が、ほんの少しだけ胸を張る。
「そして何より――」
絵馬先輩の目が輝いた。
「“筋肉が好き”というエゴを感じる! これは凄いことよ!!」
「そこなんですか!?」
思わずツッコんだ。
絵馬先輩は大興奮だった。
「ええ、そこよ。技術は後からでも伸ばせる。でも、何を見たいのか、何に惹かれているのか。それが画面に乗っているのは大事な才能よ」
「筋肉が好き……」
凛が小さく呟く。
「違うわけじゃないけど、少し違うというか……」
「凛ちゃん、才能あるわよ」
「そうでしょうそうでしょう」
凛はふふんと得意げに笑った。
ドヤ顔である。
……うーん。
見たことあるんだよな、その顔。
気のせいか。多分。
「凄いな、凛」
俺が素直に褒めると、凛は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ頬を赤くして笑う。
「ま、まあね。私にかかればこんなものよ」
「照れてる」
「照れてない」
白狼がまた肩を震わせた。
『照れてる』
「白狼くん?」
凛がじろりと見る。
白狼はすぐにスケッチブックを伏せた。
そんな美術室の空気は、騒がしいのにどこか温かかった。
紙の匂い。鉛筆の音。西日の光。
そこに凛の得意げな声と、白狼の無音の笑いが混ざっている。
このまま、ただの放課後が続くような気がした。
けれども……。
♢
【放課後 凛(女神様)視点】
連れてこられたのは、退魔師連合の訓練施設だった。
美術室とは、空気がまるで違う。
絵の具の匂いも、紙の匂いもない。
あるのは、消毒液のような乾いた匂いと、磨かれた床の冷たさ。
蛍光灯の白い光が天井から落ち、影を薄く伸ばしている。
足音がやけに響いた。
こつ。
こつ。
その音のひとつひとつが、凛の胸を叩くようだった。
未来は、訓練施設の中央まで歩いてから足を止めた。
白狼は少し後ろに立ち、スケッチブックを閉じたまま凛を見ている。
書かない。
何も書かない。
その沈黙が、何より不穏だった。
「……それで?」
凛は、できるだけ普段通りの声を出した。
「急にこんな場所へ連れてきて。何の確認?」
未来はすぐには答えなかった。
一呼吸。
二呼吸。
その間に、空調の音だけが耳に残る。
未来はゆっくり姿勢を正した。
「率直に聞くわ」
一度そこで言葉を切る。
それから、少しだけ声を改めた。
「いえ――聞かせてください」
凛の背筋に、冷たいものが走った。
未来の口調が変わった。
同級生に向けるものではない。
友達に向けるものでもない。
退魔師として。
交渉役として。
危険な存在を前にした者の声だった。
「あなたは、名のある“神”ではありませんか」
世界が、止まった。
凛は息を忘れた。
蛍光灯の光が白い。
床が冷たい。
空調の音が遠い。
白狼の視線が、まっすぐこちらへ刺さっている。
何を言えばいい。
どう返せばいい。
違う、と言うべきか。
知らない、と笑うべきか。
そんなことあるわけない、と誤魔化すべきか。
けれど、言葉が出なかった。
出せなかった。
未来は続ける。
「白狼が気づいたの。最初に悪鬼と遭遇した時から、あなたの周囲には異常な圧があったって」
白狼が静かに頷く。
「それは、リスク2の悪鬼なんかじゃない。私の持ち霊であるルミナスやクロエ――リスク4相当の存在より、さらに上」
未来の声が少しだけ低くなる。
「リスク5。神格存在」
凛の喉が小さく鳴った。
終わった。
その言葉だけが、頭の中を真っ白に染める。
鉄平に見抜かれるなら、まだいい。
いや、よくはない。けれど、それが条件だった。
この世界で人間として残るための、たったひとつの道だった。
でも違う。
未来が気づいた。
白狼が見抜いた。
鉄平ではない。
凛の指先が震える。
「……私は」
声が掠れた。
自分から正体を明かしてはいけない。
それを破れば、この体はこの世界から弾き出される。
でも、沈黙すれば疑いは深まる。
否定すれば嘘になる。
肯定すれば、終わる。
どの道を選んでも、どこかが壊れる。
ついさっきまで、美術室で鉄平の筋肉を描いていた。
鉄平に褒められて、少し浮かれていた。
白狼に笑われて、未来にからかわれて。
それが、普通の放課後みたいで嬉しかった。
なのに今。
凛は退魔師の前に立っている。
人間としてではなく。
友達としてでもなく。
“神かもしれない何か”として。
「私たちは、敵対したいわけじゃない」
未来が言った。
「だけど、あなたが何者なのかを知らないまま、鉄平や白狼の近くにいることを見過ごすわけにはいかない」
その言葉に、凛は胸を刺されたような気がした。
鉄平の近くにいること。
それは、凛が一番望んだことだった。
そのために人の姿になった。
そのために、ここまで来た。
でも、未来から見れば、それは危険そのものなのだ。
「……あなたたちは」
凛はようやく声を絞り出した。
「私を、退治するつもり?」
未来の表情がわずかに揺れた。
「違う」
即答だった。
その速さに、凛の胸も少し揺れる。
「違うわ。少なくとも、今は」
「今は、なのね」
「ええ。私は退魔師だから」
未来は逃げなかった。
「でも、同時に……あなたを友達だと思い始めてる」
凛は言葉を失った。
未来は少しだけ視線を落とす。
「だからこそ、ちゃんと知りたい。あなたが私たちの敵なのか。それとも、信じてもいい相手なのか」
白狼がスケッチブックを開いた。
ゆっくり、文字を書く。
『敵意はないと思う』
凛は思わず白狼を見た。
白狼は続ける。
『でも、普通じゃない』
『だから、確かめたい』
その言葉は、冷たいようで優しかった。
見抜かれた。
けれど、拒絶されたわけではない。
それが余計に、胸を苦しくさせた。
凛は唇を噛む。
どうする。
何を話せる。
どこまでなら言える。
このままでは、何もかも壊れてしまう。
鉄平。
私は、まだあなたに見つけてもらっていない。
あなたに名前を呼んでもらっていない。
なのに。
終わった。
完全に終わった。
さっきまで美術室で筋肉を描いてドヤ顔していた女神は、今、退魔師の前で静かに詰んでいた。
♢
一方、その頃。
美術室には、絵馬先輩がひとり残っていた。
窓の外はもう夕暮れで、赤い光が机の上に長く伸びている。
誰もいない部屋は静かだった。
さっきまで笑い声があった場所に、今は鉛筆の粉と紙の匂いだけが残っている。
絵馬先輩は、凛をモデルにした絵の前に立っていた。
まだ下描きに近い。
けれど、輪郭はすでに見えている。
椅子に座る少女。
柔らかい髪。
穏やかな表情。
目元に宿る、どこか遠い光。
「聖母をイメージしてたんだけどなあ」
絵馬先輩は、ぽつりと呟いた。
描く前は、そのつもりだった。
包み込むような母性。
優しく見守るような存在。
凛の中にある不思議な落ち着きと、妙な包容力。
それを描こうとした。
けれど、紙の上に現れたものは違っていた。
頭上に、淡い光輪。
背後に滲む、翼にも後光にも見える白い光。
視線は優しいのに、どこか人間を超えた距離がある。
それは、聖母というより――女神だった。
絵馬先輩は、赤縁の眼鏡を押し上げる。
「……困ったわね」
口調は軽い。
でも、視線は真剣だった。
色から聞こえる音が、いつもと違う。
凛の絵から聞こえるのは、柔らかな子守歌ではなかった。
もっと遠く、もっと高い場所から響くような音。
鐘の音。
水面に落ちる光の音。
祈りが白くほどけていく音。
人間を描いているはずなのに、紙の上の彼女は、人間の枠に収まってくれない。
「見る目には自信あるんだけど……」
絵馬先輩は、もう一度絵を見る。
描き間違えたのか。
それとも、見えてしまったのか。
少し考えてから、彼女は小さく笑った。
「またモデルお願いして、描き直そうかしらね」
けれど。
描き直しても、きっと同じものが出る。
そんな予感があった。
夕陽が沈み、美術室の赤が少しずつ薄れていく。
キャンバスの中の女神だけが、暗くなる部屋の中で、静かに光っているように見えた。




