第16話 凛、バレー部と美術部を兼部!?
【美術部 凛視点】
放課後の美術室には、絵の具と紙の匂いが薄く漂っていた。
窓から差し込む夕方の光が、石膏像の白い肌をやわらかく照らしている。
凛は、その中のひとつ――彫りの深い男性の胸像を、じっと見つめていた。
鼻筋。
頬骨。
首筋。
鎖骨。
そして、胸元へ落ちる陰影。
凛は真剣な顔で、ぽつりと呟いた。
「なかなか、良い筋肉ね」
隣で鉛筆を削っていた未来が、ぴたりと手を止める。
「評価、筋肉なんだ……」
「もちろんよ。光と影は筋肉に宿るもの」
「美術の話っぽく言ってるけど、たぶん違うよね?」
凛は答えなかった。
なぜなら、自分でも少し違う気がしていたからだ。
石膏像を見ている。
確かに見ている。
けれど、頭の中には別の姿がちらついていた。
鉄平の肩。
鉄平の腕。
鉄平の鎖骨。
鉄平の、最近やたら仕上がってきた上半身。
――描きたい。
凛の中で、何かが静かに燃え上がる。
これは芸術的衝動。
そう、芸術的衝動である。
決して、やましい気持ちではない。
たぶん。
おそらく。
きっと。
凛は、意を決して振り向いた。
「ところで、鉄平くん」
「ん?」
鉄平は、自分のデッサン用紙とにらめっこしていた。
鉛筆の芯で紙をこする音が、かりかりと小さく響いている。
凛は、胸の前でそっと両手を握った。
「私、今度デッサンするのにモデルを探してるんだ」
「モデル?」
鉄平が顔を上げる。
その目がこちらを向いた瞬間、凛の心臓が跳ねた。
落ち着け。
落ち着くのよ、私。
これは美術部の活動。
普通のお願い。
ごく自然な流れ。
不自然なところは何もない。
なのに、声が少しだけ上ずった。
「も、モデル……お願いできないかしら」
未来が横からじっと見ている。
白狼もスケッチブック越しに見ている。
絵馬先輩は少し離れた場所で、完全に面白がっている顔をしている。
凛は、なぜかもじもじした。
自分で分かるくらい、もじもじした。
「普通に座ってくれるだけでいいの。全身じゃなくてもいいし、上半身だけでも……」
そこまで言って、凛は言葉を止めた。
上半身だけでも。
自分で言った。
言ってしまった。
未来の視線が、すっと細くなる。
「凛?」
「ち、違うの。美術的な意味で」
「まだ何も言ってないけど」
「美術的な意味で!」
大事なことなので二回言った。
鉄平は、少し考えるように首を傾げたあと、あっさり頷いた。
「良いよ」
凛の中で、鐘が鳴った。
カーン。
いや、そんな可愛い音じゃない。
ゴォォォン!!
勝利の銅鑼である。
凛は表情を崩さないように必死で耐えた。
「そ、そう。助かるわ」
声は平静。
たぶん平静。
少なくとも表面上は。
だが内心は違った。
(よっしゃああああああああああ!!!)
勝った。
何に勝ったのかは分からない。
でも勝った。
女神、勝利。
ただし顔に出してはいけない。
ここで浮かれたら不自然だ。
自然に。
あくまで自然に。
「じゃあ、今度お願いね」
「うん。俺でよければ」
鉄平は普通に笑った。
その笑顔がまた、凛の胸を直撃する。
(俺でよければ、じゃないのよ……!)
(あなたがいいのよ……!)
言えない。
絶対に言えない。
凛は静かに視線を逸らした。
耳が熱い。
その時、机の方から、かすかな震えが聞こえた。
ぷるぷる。
白狼だった。
肩を震わせている。
声は出していない。
けれど、明らかに笑っている。
スケッチブックに、震えた字が浮かぶ。
『鉄平と凛、おもろ』
凛は目を細めた。
「白狼くん?」
白狼は慌ててスケッチブックを伏せた。
だが遅い。
未来がため息をつきながら白狼の背中をさする。
「はいはい、深呼吸。深呼吸」
白狼は机に突っ伏したまま、肩を震わせ続けている。
すー。
はー。
未来が介助する。
すー。
はー。
美術部で何をしているのだろう。
凛は少しだけ頬を膨らませた。
「別に、変なことは言ってないでしょう」
未来が腕を組む。
「まあ、変なことは言ってないわね」
「でしょう?」
「ただ、全身から“鉄平を描きたいです”って出てた」
「出てない」
「出てた」
「出てない」
絵馬先輩が遠くから楽しそうに言った。
「出てたわよ」
「絵馬先輩まで!?」
鉄平だけが、なぜか状況を分かっていない顔をしている。
「え、俺、そんなに描きやすそう?」
未来が小さく吹き出した。
白狼がまた机を叩いた。
笑いすぎて腹筋が死んでいる。
凛は思った。
この空間、危険だ。
特に白狼くん。
彼は喋らない分、観察が鋭い。
そして、見抜いたうえで笑ってくる。
かなり危険だ。
未来は白狼の様子を見ながら、ちらりと凛を見た。
(バレー部で学級委員とは聞いてたけど、変わった子だなぁ)
そんな顔だった。
凛は姿勢を正す。
「私は普通よ」
「今、何も言ってないけど」
「普通よ」
未来は少しだけ笑った。
「でも、悪い子じゃなさそうね」
その言葉に、凛は一瞬だけ目を瞬いた。
悪い子じゃなさそう。
ただの軽い一言のはずなのに、胸の奥に小さく響いた。
凛は人ではない。
この世界に来た目的も、普通とは言えない。
鉄平に選んでもらうために、人の姿を借りている。
それでも。
今ここで、未来にそう言われたことが、少し嬉しかった。
「……ありがとう」
凛は小さく答えた。
未来は肩をすくめる。
「褒めたつもりじゃないけどね」
「それでも」
白狼が、ふとスケッチブックを開いた。
『………』
そこには、何も書かれていなかった。
ただ、白狼の視線だけが、凛を静かに見ている。
笑っていない。
さっきまで肩を震わせていたのが嘘みたいに、真剣な目だった。
凛は、その視線にわずかに息を止める。
見られている。
表面ではなく、もっと奥。
言葉にしていない何かを、静かに観察されているような感覚。
白狼は何も書かない。
けれど、その沈黙は、さっきの笑いよりずっと鋭かった。
美術室の中で、鉛筆が転がる音がした。
ころん、と。
凛は、なぜか少しだけ背筋が冷えた。
未来はまだ気づいていない。
鉄平は当然、何も分かっていない。
けれど白狼だけが、凛の中にある“普通ではないもの”を見ている。
そんな気がした。
「……白狼くん?」
白狼はすぐに目を伏せ、スケッチブックに文字を書いた。
『なんでもない』
その筆跡は、いつもより少しだけ硬かった。
凛は笑ってみせる。
「そう」
美術室には、また紙と鉛筆の音が戻ってくる。
鉄平がデッサンに戻り、未来が白狼に姿勢を直すよう注意し、絵馬先輩が楽しそうに鉛筆を走らせる。
いつもの美術部。
少し賑やかで。
少し変で。
少しあたたかい場所。
でも凛の胸の奥には、白狼の沈黙だけが、小さな棘のように残っていた。




