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第6話 ナゲット割って父ちゃん


 

 続いて、自分の住む地域を管轄している警察署へと向かいました。

 そこはかなり年季の入った建物でした。掲示板を確認したところ、近々、新庁舎へ移転するそう。

 受付にて、しどろもどろながらも相談に来た訳を話し、叔母さんたちの映像も見せ、例の告発文も提出。

 ナガレボシちゃんへのファンレターを書いていた時は、文章を作るのがとても楽しかったです。

 時間も、寝ることも、わずらわしいことも……全て忘れてしまえるほどに。

 あそこまで物事に没頭できたのは、おそらく人生で初めて……。

 だけど、あの告発文──身内から受けた仕打ちの数々、それらを思い出しながら、その一つ一つを詳細に書き連ねていく作業は、冗談抜きで苦痛以外のなんでもありませんでした。

 ほんの少し書いただけでも、すぐに手が止まる。

 あの日々を回顧すること自体、脳が拒絶しているみたいで。

 普段、上手に喋れないのと同じように、上手く言葉が出てこない。

 本当はもっと言いたいことが沢山あるのに……。

 そして、ようやく出来上がったのは、ぐちゃぐちゃの要領を得ない乱文。ほとんど読めたモノではありません。 

 いや、でも……悩みを誰かに打ち明けることなんて、初めてだし……一応は、内容を詰め込みに詰め込んだし……あの支離滅裂な文章からでも、なんとか要点を掻い摘まみ、言わんとするところを汲み取って頂けたら、これ幸い……と、己に課したはずの心掛けさえ忘れ、またしても言い訳ばかりが頭に浮かんできます。

 いけませんよ、相手の良心につけこもうとする腹積もりなんて。

 もし、ちゃんと話が伝わらなかったら、自分の口でどうにか説明しないと……。

 担当者が来るまで待つように言われ、相談室へと案内されました。何故か、書類棚や備品の段ボールが密集しており、非情に窮屈です。

 それが私にとっては妙に落ち着く空間で、長居しているわけでもないのに眠くなってきました。

 警察の人が近くにいると、それだけで守られているかのような安心感もあります。

 だから、ホッとしたのでしょうか。

 そう呑気に構えつつ、ウトウトしていると──


「はいはい、これねぇ! ストーカーとかDVの被害とかじゃないとダメだからぁ!」


 なんの前触れもなく相談室に入ってきた若い警官さんが、手にしていた私の告発文を、机の上へぞんざいに放り投げ、それを乱暴にペンで叩きながら詰め寄ってきました。

 いきなりだったので、ギョッとして竦み上がります。


「あ、だから、それ……」


「バーっとしか読んでないから解んないんだけどさ、こんなことで来てもらっても困るわけ! 警察と家庭の問題を絡めないでほしいの!」

 

 トン、トン、トン、とペンに込める力が増すほどに語気も荒くなり、その高圧的な態度は、一切の口答えを許容しないといった姿勢も表していました。 

 仕事柄、畳み掛けるような迫り方は標準なのでしょうが、そのにべもない口調に、小心者の私はあたふたと狼狽えるしかありません。

 やはり、あの告発文が気に障ったのでしょうか。

 ただでさえ解りにくいし……せめて長文じゃなく、簡潔に短くまとめた方が良かったのでは……。

 そもそも、あんな稚拙で、幼稚で、目を通す価値もない駄文を他人に見せるなど、それだけで失礼に当たります。

 急いでいたのもありますが、こんなことなら、もっと丁寧に、理路整然とした形で仕上げるべきだった。

 昔を思い出すのもツラいだなんて、言い訳してないで……。

 いや、文章がどうのというよりも、告発の内容そのものに苛立っている様子ですね。 

 まるで「住民票の閲覧制限は、お前みたいなヤツのためにある救済措置じゃない」といった口ぶり。

 確かに私は、直接的な暴力など滅多に受けたことがありませんし、叔母さんたちが家まで押し掛けてきたのも、ごく最近の話ですから。


「ご、ごめんなさい」


「チッ……んとによぉ……」


 責め立てられ、すっかり萎縮してしまった私を見かねてか、年配の警官さんがまあまあと部下を宥め、こちらへ一部の冊子を差し出してきました。 


「リーガルエイドプログラムって知ってる? 無料で法律相談できるとこ。住民票がどうとかのヤツ……うん、そこで聞いてみたらいいよ。これ、そこのパンフレットね。あげるから」


 こんな私のために、わざわざ用意してくれたのでしょうか。

 ああ、なるほど……自己判断で手続きを進めるよりも、まずは専門家の意見を仰ぐべきだったのですね……。

 いきなりこっちへ訪ねてきて、大変ご迷惑だったことでしょう。本当に馬鹿で申し訳ない。

 その上で便宜を図ってくれるだなんて、もう世界警察には頭が上がりませんね。


「……ありがとうございます」


 それなのに、どこか不服そうな返事しかできずにいる自分がもどかしい。


「うん……じゃあ、とりあえず持ち物を全部見せて。あと、身分証明書とIDカード、コピーしてもいい?」


 言われたとおりに、ファイルケースと財布の中身を曝し、そこからIDカードと保険証を取られました。

 携帯端末と家の鍵、筆記用具、印鑑、ワイヤレスイヤホン、ポケットに入っていたお守りや占いの紙まで、机の上に晒され、少し恥ずかしい気分になります。


「エコーさん、ね。……ふーん、仕事は?」


「製薬会社と建設コンサルタントの会社で、データ入力のアルバイト、とかを……」


「ああ、そうなんだ。で、親御さんと上手くいってないの?」


「上手くいってないというか、その……」


 ね? ほら、なんだかんだで、警察は事情を訊いてくれているじゃないですか。

 さあ、今こそ、全てを話す時です。

 まどろっこしい告発文なんか要らなかったのですよ。

 求められているのは、口頭での供述、ただそれだけ。

 さあ、早く話しましょう。

 何もかも、ぶちまけちゃいましょう。


「えっと……」


 どうしたんですか?

 何故、言葉に詰まっているのでしょう。

 えっと、じゃないよ。ふざけんな。

 おかしいなぁ……どうして、何も言えないんだろう。

 私、ずっと悩んでいたよ?

 私、ずっと苦しんでいたよ?

 私、ずっと死ぬことばかり考えていたよ?

 その話をずっと誰かに聞いてほしかったんでしょ?

 言わなきゃ、解ってもらえないよ?

 口に出さなきゃ、声にならないよ?

 言葉にしなくちゃ、何も伝わらないよ?

 お願い。

 言ってよ。

 私。   


「怖くて……」


 そのたった一言しか、出てきませんでした。


 なんで……。


 どうして……。


 違うでしょ?


 もっと言いたいことが、伝えたいことが、たくさんあったはずでしょ?


 あんなにいっぱいあったでしょ!? 


「何かされたとかない? こう……殴られたとか」


「そういうのは……ないです」


「ん~」


 年配の警官さんは訝しげに眉を顰め、口先を尖らせ、頭をぼりぼりと搔いています。

 ごめんなさい。

 私のせいで困らせて、本当にごめんなさい。


「親御さんの連絡先は知ってる?」


「あ、はい」


「じゃあ、ここに自分の家の住所と、携帯の番号……それから親御さん二人の電話番号も書いてもらって……」


 言われるがまま、IDカードを写したコピー用紙の裏に、自分の個人情報と両親の携帯番号を記入していきます。

 もう、全部、どうでもいい。さっさと終わらせて帰りたかった。


「……お父さん、どこに住んでるの」


 先程の若い警官さんが、見下すような白々しい目を向け、そう尋ねてきた。

 ニブエリアの四番ブロックにある公営団地です、と答える。


「あとね、ちょっと写真も撮るから、こっち来て」


 相談室を出てすぐの生活安全課、そこの壁を背景に、マグショットなる三面写真を撮られました。

 まるで犯罪者みたいな扱い。笑える。全然、笑えてないけれど。

 なんで、私がこんな目に……。

 やっぱり、警察って、弱い者イジメが好きなだけなのでは……?

 実際、こうやって、弱っている人のことを何も助けてはくれないけれど、弱っている人に辱めを受けさせることに関しては、どこまでも徹底的でしたから。

 それで一連の人権侵害が済んだかと思いきや、一向に帰してくれる気配が無い。

 あーだこーだと言われ、結局、そのまま軽く三十分くらい待たされました。

 待たされるのだけは昔から慣れっこなので、そこは全然平気です。

 その分、思案に暮れればいいだけの話。

 年末年始のお休み、その間にどうやって死のう……とか、安いチンニングスタンドでも購入して、いよいよ定型の首吊りでも実行するか……とか、あえて莫大な借金でもこしらえてから死んでやろう……とか、そういった希死念慮ばかりが頭に浮かんできます。

 何か建設的な考えでも巡らせればいいのですが、あいにく、私の胸中は穏やかじゃありません。

 一刻も早く、こんな、幼稚で、醜い、悪意で満ち満ちた世界から消えて無くなりたい……という厭世的な衝動に駆られていた。

 でも、せっかく無料の法律相談所を紹介してもらいましたし、今日中にそこへ行ってみるのも有りかもしれませんね。

 単なる体のいい門前払いで、また徒労を重ねるだけでしょうが、可能な限りでやれることは全てやっておこう。

 いやいや……どうせ無駄だと解っているのなら、もう頑張る意味なんか無いじゃん。

 それより、一体どうやったら死ぬ覚悟が決まるのか、自殺を完遂できるのか、そこに注力すべき。

 それ以外の正しい選択肢なんか無いんだって……。

 この世には、弱い者に対して薄情な人間しかいないって、いちいちやらなくてもいい答え合わせもこれで済んだでしょ。

 解りきってたじゃん。ウチの母親みたいな悪い人しか甘やかさないんだよ。

 だから、もう、何もかも懲りたでしょ……いいから、早く死のうよ。

 そんな風にいつもの堂々巡りをしていると、年配の警官さんが、道端ですれ違いざまの挨拶でもするかのように軽い調子で、声をかけてきました。

 

「えっとねぇ……今ねぇ、お父さんと連絡取れたから。二時間後、迎えに来てくれるって」


 一瞬、何を言っているのか、理解できませんでした。

 父親が、私を、迎えに来る。

 反芻してみたけれど、そのままの意味で受け取ってもよろしいのでしょうか。

 到底、受け入れがたいのですが。

 どうして、そんな話になっているの。


「なんで……」


「いや、だって。ここに居てもしょうがないでしょ?」


 いや、だから、普通に、一人で、自分の家に帰りますけど。

 訳の分からないことばかり言わないでよ。

 勝手に決めて、勝手に話を進めて……むちゃくちゃじゃん。

 助けてくれないどころか、私の意思は丸ごと全部無視か。

 机の上で見世物みたいに放置されたままの私物をまとめ、堪らず立ち上がりました。

 さすがに平常心ではいられない。


「か、帰ります」


「ああ、いやいや! 大丈夫、大丈夫! いいから、大人しく待ってて!」


「で、でも」


「一緒におウチ帰ったらいいじゃん」


 またあの横柄な態度の若い警官さんが、今度は自分のデスクから横槍を入れてきました。

 椅子にもたれ、伸ばした腕を後ろにかけ、足を組み、これでもかというほどふんぞり返っています。


「すっごい迷惑かけてるよ? わかってる? ほら、周り見て、周り! みんな、すげえ忙しく働いてるから。本当は非番の人もいるの。別に今日、仕事じゃないんでしょ? ……ああ、バイトだっけ? ゆっくり話し合ったらいいじゃん、親子水入らずで」


「あ……」


「あのさ、何回も言うけど、そっちの家庭の事情でしょ!? お願いだから、こっちを巻き込まないでほしいの! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!?」


 そうやって、わざとらしい大声で、私のことを叱責しました。

 明らかに恥辱を与える目的で、好奇の目に晒すつもりで、とびっきりの恥知らずがここにいるぞと言わんばかりに。

 こんなことをされたら、私じゃなくても気圧されて押し黙るしかないでしょう。


「聞いてんのかって!」


「は、はい!」


 恫喝され、思わずそう応えてしまった。本心としては承服しかねる。

 てか、こんなところで怯えて縮こまっている場合じゃないよ。

 早く帰らないと……。

 父親になんか会いたくない。そんなの全然、無理。

 これから先に起こり得ること──最悪のケースがいくらでも連想されます。

 このままだと、自分の大事な居場所に踏み入られ、ようやく手に入れた自由ごと奪われる。

 そして、父親の都合がいいように操られる。

 己の不甲斐なさを何一つとして認められないあの父親に。

 あの最低最悪なクズと、最低最悪の生活に逆戻り。

 あってはならないことです。

 残りたったの二時間で、それが現実のものとなってしまう。

 

「まあまあ、その辺でね。この子、まだ全然、子供なんだし。……ね? 警察も人間だからさ、疲れてるとイライラしちゃうわけ。このお兄さんなんて、昨日からずっと働き詰めなんだよ……凄いでしょ?」


 などという訳の分からない過重労働自慢でもってして、年配の警官さんに不当な要求を聞き入れるよう促され、また相談室へと強制的に戻されました。

 悄然とした私は、為す術も無く佇むだけ。

 相変わらずいいようにされるだけ……。

 少しくらい、何か文句の一つでも言い返してやればいいのにさ……。

 意気地無し、ここに極まれり。

 どうせこんなヒドい扱いをされるんだったら、センターで捕まったおじさんのように喚いて暴れた方が幾分かマシですね。

 いや……助けてくれないのは、百歩譲ってもいいんだけどさ、なんで犯罪者側に与するんだよ。

 あいつらが、今まで、一体どれだけ私に気持ちの悪い仕打ちをしてきたと思っているんだ。

 あなたたちって、犯罪者を捕まえるのが仕事なんですよね?

 だったら、どうして、犯罪者の所業に加担してるんだよ。

 さっさとあいつらを一人一人調べ上げて、全員、刑務所へ送れって。

 叩けばいくらでも埃が出てくるような連中だろ。

 仕事してますアピールをする前に、ちゃんと仕事してよ。

 全然、自分たちの役割を果たせてないじゃん。

 やっぱり、思っていた通りの汚い組織だったんだね、警察って。

 弱い者イジメしか取り柄がないくせに……よくもまあ、威張り散らして生きられるもんだね。

 お前ら、一体、何が偉いんだ。

 何を守れてるって言えるんだよ。

 ドアが開けっ放しの相談室で一人、うつむき不貞腐れる私のことなんかそっちのけで、談笑する警官さんたちの声が聞こえてきた。


「おつかれです。どうでした、当直ぅ?」


「最悪だよ……夜中に、まーたあいつが来てさ」


「あ~、例のじいさん?」


「ビールのかんかん! ベランダに投げ込まれてぇ! 何回言っても聞かなくてぇ!」


「あははは! すっげぇ似てる!」


「嫌がらせがどうとか、知らねぇよ。管理会社に頼むか、自分でどうにかしろって」


「つーか、絶対、あいつがトラブルの原因っすよね。お隣さんの気持ち、察します」


「あれ、たぶん認知症かなんかだよな……。病院に行け、病院」


「先週末もあったんですよ、クラブ生の被害届。半泣きで……んあ~、あのぉ、ぼくぅ、同じチームのヤツに財布を盗まれたんですぅ~」


「ははっ、いかにもイジメられてそうじゃん」


「えぇ、そうなのぉ? クラブのことはクラブの先生に言ってねぇ……。それとも、ママに言い付けるぅ~? って……言わないですよ? もちろん。言わないですけど……そいつ、もう十七歳ですよ? おいおい、勘弁してくれ……と思いましたよ、さすがにね」


「どいつもこいつも、しょうもないことで警察をアテにしやがって……お前らと違って、こっちは毎日毎日、忙しいんだよ! はぁぁぁ……今朝も……まあ、紙出さないようにはしたけどさ……あーあ、ようやく帰れると思ったのによぉ!」


 下卑た笑い声が、ここまで届いてくる。

 私も後で、彼らが開催する『馬鹿な相談者品評会』の俎上に載せられるのでしょうかね。

 どうぞ、心ゆくまでコケにしてくれたらいいと思います。

 よりにもよって年の瀬の慌ただしい時期に、余計な面倒をかけてしまった私が悪いのだから。

 「自分でどうにかしろ」という言葉が耳に痛かった。

 警察のことなんか端から信用していなかったくせに、警察を頼って、警察に逆恨みしている自分が、とてつもなく恥ずかしくなった。

 家族間の問題なんて、当人同士でちゃんと向き合って解決するべきなんだ。関係のない他人を巻き込んじゃいけないんだ。

 警察は、事故とか事件とか、もっと重大な問題の対応に追われているんだよ。

 それに、日頃から変な人たちの相手もしているだろうし……ああいう態度も仕方ないんだと思う。

 この程度の些事──()()()()()()()()()()に、構っている暇はないんだ。

 だから、こうやって雑に処理される。

 私には場違い。ここへ来るべきではなかった。

 あるいは、素直にあのホットラインにでも電話をかけていれば、自分で考えて行動するよりもずっといい方法を……適正な手続きの流れを教えてくれたかもしれない。

 これまでの人生だって、私が間違い続けただけで、もっと正しい選択肢が沢山あったのだろう。

 いや、まあ……いずれにせよ、私のことなんか、誰も見つけてくれなかっただろうな。

 ここから救い出してはくれなかっただろうな。

 どこへ行こうと、何を選ぼうと……。

 私みたいに、自分本位な奴……助ける価値もないから、ぞんざいな扱いをされるんだ。

 家庭内においても捌け口として利用され、公的機関からもたらい回しにされて……皆から、邪険にされて……。

 世界警察にも愚か者の烙印を押されてしまった。

 私に正しいところなんて、何一つも無いから。

 名実ともに、社会から排斥されるべき存在だと見做されたのなら、私は甘んじてそれを受け入れるべきではないのだろうか。


「こぉ……の……声……がぁ……枯れて……で……」


 誰にも聞こえないほどのか細い声で、呻くように歌います。

 この()()()()も、直面している問題から目を逸らし、被害妄想を冗長させているだけなのでは……?

 一人でブツブツと……気色悪いったらありゃしない。

 勘違いするなよ、無礼者。

 それは、お前のためにある唄じゃない。

 直向きな気持ちで生きている人達へ向けての──己の戦場で闘い抜いた戦士を──信念を貫いた者を讃える唄だ。

 間違ってもお前を励ますための言葉なぞ含まれてはいないし、ましてや……誰もお前の心を照らしてくれたりはしない。

 お前には、関係ない──

 そう自分に言い聞かせ、私は口ずさむことを止めました。


「……」


 ただ黙って、膝の上に握り拳を作って、パイプ椅子から足下を見下ろす。

 ……もういいじゃん。

 諦めよう。

 やるだけのことは、十分にやったよ。

 これ以上は、何も頑張りたくない……なんか、もう……ホント、疲れたし。

 警察でさえ、あいつらの味方をしている以上、どうしたって、逃げることはできないんだ。

 助かる見込みなんて……これっぽっちもない。

 こうなったら全部、終わらせるしかないよ。

 やっぱり、それしかなかったんだよ。

 さっさと終わらせよう。

 早く死のう。

 じゃないと苦しむだけだよ。

 ずっと苦しめられるだけなんだよ。

 自由になんか……なれないよ。

 これから先も、あいつらに……心も名誉も尊厳も傷付けられ、その上で、私が頑張って得られることの全てを搾取され続け、そうやって人生丸ごと『悪用』されるんだよ。

 私が生きていても……悪い奴らが喜ぶだけだよ。

 私が毎日、吐き気を催すようなツラい思いをしてでも、勇気とか希望やらに騙されたつもりになって、イヤなことは忘れたフリして、「他人(ヒト)のせいにするな」ってお母さんから刷り込まれたとおりに、あれもこれも()()()()()()なんだって必死に思い込むことで、なんとかこの地獄を生き抜いて、その結果として返ってくるのは……さらに胸糞悪い仕打ちだけ。

 取り返しのつかない傷が、どんどんどんどん増えていくだけ……。

 思い出す度、頭がおかしくなりそうになる……そんな記憶が積み重なるだけ。 

 せめて、これ以上、幼稚で気持ちの悪い悪意を向けてくるのは止めてほしいのだけれど……絶対に止めてくれない。

 父親も母親も母親の再婚相手も叔母さんたちも従兄弟たちも、まだまだまだまだ幼稚で気持ちの悪い悪意を向けてくる。

 だから、もう、あいつらと……向き合いたくなんかない。

 あれは人間じゃない。

 ヒトの言葉が通じないケダモノとは、口も利きたくない。

 会いたくもないのに……捌け口にするため、利用するため、ひたすら干渉してくる。

 異常なまでの粘着質。

 それでも、住民票閲覧制限ができないんだってさ。

 警察は、犯罪者を見て見ぬフリするってさ。

 警察は、犯罪者によって苦しめられている人を助けないってさ。

 警察は、苦しんでいる人たちを馬鹿にして笑うのが、大好きだってさ。

 だから、世の中には……悪い人が、いっぱいなんだってさ。

 だから、この苦しみも終わらない。 

 私が死なない限り……終わってくれない。

 だったら、死ぬしかないじゃん。

 そんなん死んだ方がいいに決まってるじゃん。

 死にたいよ……。

 生きていたくないよ……。

 もう死ぬしかないって、解ってたでしょ。

 ずっと前から、ずっと解っていたでしょ。

 いっぱい耐えたよ、いっぱい苦しんだよ。

 もう沢山だよ。

 死にたくて、死にたくて、死にたくて、しょうがないよ。

 死にたいよ、お母さん。

 死にたい。

 死にたいのに。

 なのに──


(──助けて)


 この期に及んで、助けを求めている。

 だからぁ……誰も助けてなんかくれないんだって、そう言ってるじゃんかよ……。

 自ら一つの拠り所を手放した途端にこれです。

 独り言のようにボソボソと歌うのを止めたら、今度は、誰かに、何処かに、救いを乞う……我ながら、ほとほと呆れる。

 そんなに助かりたいんだったら、早く死ねばいいのにね。

 それしかないのに、いつまで経っても死ねない。

 こんなことを考えるのも……何度目ですか。

 ウンザリなんだよ。

 逡巡も大概にしろ。


(助けて)


 あのね……言っておくけれど、他の人達はお前なんかとは違うよ?

 もう死んじゃおうと、そう心に決めた人の多くは、お前みたいにダラダラと延命なんかしない。

 みんな、ちゃんと死んでる。

 死にたいと思ったら、すぐに死んでいるよ。

 私と同い年──私よりも、うんと小さい子供でさえ、しっかり自殺を完遂できている。

 ……凄いよね。

 あんまり言っちゃダメなのかもしれないけど、本気で尊敬している。

 そういうニュースを見る度、痛ましいとか気の毒だと思うよりも先に、死ぬことができて、羨ましいなぁ……立派だなぁ……と感じてしまう。

 この世界に、彼らほど、勇敢な人達はいない。

 生きる勇気と死ぬ勇気はよく比べられますが、圧倒的に、後者を手に入れる方が難しいと思っています。

 自殺ができてしまえる人ほど、本当は優秀な人間だったのでしょう。

 苦しむだけの人生にすぐ見切りをつけられる判断力まで兼ね備えていたのですから。

 その点、私ときたら……このおめでたい頭と、ヘタレっぷりが、全てを物語っております。


(助けて)


 誰も私を見つけてくれない──

 誰も私を助けてくれない──

 そんな言葉ばかり自己暗示のように心の中で唱えているけれど……奥底では違う。

 あのね、本当はね。

 私ね。

 いつかきっと、誰かが、自分のことを助けに来てくれるんだって、そう信じていたの……。

 私は大丈夫、私は報われるって……。

 ピンチの時に都合良く駆け付けてくれるヒーローみたいに、誰かが私をここから解放してくれるんだって……。

 今は苦しくても、必ず、その日がやってくるって……。

 だけど──そんな日は、絶対にやってこない。

 本当の本当は気付いてる。

 世界中の誰もが知っての通り、実際のところ、ヒーローなんていないのだから。

 当然、神さまも存在しなくて、全ての物事があるべき結果に収まる因果律など定められてはいない。

 正しい行いをしていれば祝福があるとか、悪いことをしたら天罰が下るとか、そういうのは──無い。

 ここに有るのは、悪意によって仕組まれた不条理だけ。

 そんなこと、誰でも知っている。

 ふと視線を下から右の方へ移すと、壁に貼られている交通安全の啓発ポスターが目に留まりました。

 そこにはイメージキャラクターとして、ハートマンの姿が描かれていて、彼はポリスキャップを被り、ウインクをしながら敬礼のポーズを決めています。


(助けてよ……ハートマン)


 無意識に救いを乞う。

 助けてほしいという切実な願い……その念を送るように、ハートマンの顔を見つめていました。

 しばらくして、はたと我に返り、再び項垂れる。

 わかってるよ。

 ──ハートマンは、現実にいないんだ。

 本当は、ヒーローなんて、どこにもいないんだもんね……。

 英雄崇拝の言っていることは、なにもかも、全部、嘘なんだ。

 ていうか、仮にヒーローがいたとしても、私のことなんか、助けてくれなかっただろうな……。 

 私が悪い子だから……。

 何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなにも苦しめられるんだって……己の不幸を嘆いてばかりいる被害者面バカ娘だから、ハートマンも、サンタさんも、私のところへ来てくれなかったんだ……。

 お父さんからの逃げ道を与えてくれたおばあちゃんにも、お母さんにも感謝できない……。

 叔母さんたちにも、小さい頃は色々とお世話になったのに……みんな、嫌な人にしか見えない……。

 みんな、みんな、悪い人にしか思えない……。

 そんな自分勝手で、逃げることばかり考えている──恩知らずの人間だから、バチが当たったんだ……。

 ましてや、あの人達を悪者扱いする理由に、ヒーローのことを利用していた。

 ヒーローを──()()()()()()()()()()()()()()()()()()がないから、お前らは平気で汚いマネができるんだろ……って……。


 ──じゃあ、そういう私は、一体何ができるの?──


 偉そうに我が物顔で掲げている正義の行いとやら──誰かを助けられたことが、これまでに一度でもあったっけ?

 自発的に、ちょっとした親切……気配りの一つでもさ……。

 そんな人として当たり前のことだって、全然できてないじゃん。

 良いことも悪いことも、全部、受け身だったでしょ。

 ホント、今まで何をやってたんだよ。

 ヒーローの正義に、憧れを抱いていたんじゃないのかよ。

 少しでもヒーローの正義に近づけるよう、ちゃんと努力とかしてた?

 してないよね。

 つけ込まれるのがイヤだからって、相手を思いやることすら放棄していたよね。

 だったら──自分が正しい人間だと胸を張れないのは、お前自身のせいだ。

 お前なんかが正義側を気取る資格無いだろ。

 ホントは解ってんだろ、しらばっくれてんじゃねぇよ。

 私には、ヒーローに憧れるため、最も重要なモノが欠けている。


 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()


 それは、ヒーローであるための絶対条件でもある。

 たった一つ、それだけあれば、誰でもヒーローになれる。

 それさえあれば、才能や特別な力も要らない。

 たとえ、結果は伴っていなくても、困っている人を助けたいと思えるその気持ちが一番大事なんだ。

 行動に起こす前から、そう思えた瞬間から、その人はもうすでにヒーローなんだから。

 それを確固たる信念として持ち続けることが、何よりも大切なんだ。

 その最も重要で、一番大事で、大切なモノが──私には無い。

 目の前で困っている人がいても……助けたい、とは微塵も思えなかった。

 そう思えたことなんて、人生で一度も無い。

 思えるようになりたいとは……思ったけど……。

 やっぱり、私にはダメだった。

 心の底から、誰かを助けたいと思えるようには……どうしても、なれなかった。

 むしろ、面倒なことに巻き込まれたくないという気持ちの方が大きい。

 首を突っ込んで、事態が悪化して、私のせいにされたらどうしよう……とか、自己保身を最優先に考えてしまう。

 道端で急に人が倒れたりしても、立ち竦んで何もできない。

 そこへ、すぐさま駆け寄っていく人達を見ると、己の不甲斐なさをより痛感させられる。

 私はどうして、あんな風に生きられないんだろう……って。

 助けるどころか、助けたいとすら、思えなかったから。

 誰かが誰かを助けようとする場面──それを目の当たりにする度、思い知らされる。

 私は正しい人なんかじゃないんだって。

 なりふり構わず、飛び出せるような主人公(ヒーロー)とは違う。

 決して、行動には移さない。

 私が熱心だったのは、その在り方に心酔することだけ──

 正しさとは一体何なのか、それを知っている自分に酔っていただけ──

   

 ──私はヒーローが好きなんじゃなくて、ヒーローを尊敬している自分のことが好きだったんだ──


(助けて)


 表には出さなかったけれど、内心では正しさを振りかざし、悪人を見下げるための道具にしていた。

 まるで自分の所有物であるかのように、ヒーローの正義を利用した。

 それでいて、いざとなったら損得勘定ばかりで、自分では誰も助けようとしない。

 誰かを助けたこともない奴が、誰かに救われる権利は無い。

 だからハートマンは、私のことを助けに来てくれないんだ。


(助けて)


 ヒーローに大切なことを教わっておきながら、他人に優しくすることもできず、どこまでも利己的な思惑しか抱けない。

 そして未だ……弱いことを理由に、自分を正当化し続けている。

 そんな奴の前に、ヒーローは現れない。

 至極当然の話。   

 頭では、その道理をよく理解している。

 それでも……恐慌状態に陥っているためか、胸中では祈るように救済を求め続けている。

 助けて、助けて、とそれだけが思考の大半を占める。

 臆病で身勝手な私という人間の本能は、どうやら自分にあてがわれる運命を受け入れられずにいるようだ。


(誰か……誰か、助けてよ……)


 一方で、何故だか、顕在意識の方は妙に落ち着いていました。

 感情は止め処なく溢れ続けているのに、どこか他人事のように冷静な側面があり、別視点から己の惨めな姿を俯瞰している感じ……と、でもいいますか。

 実際、傍目にはこの上なく滑稽に思われることでしょう。

 ここまでくると情けないを通り越して、無様ですね。

 救いの手が差し伸べられる時を待っていても、虚しいだけだというのに。

 馬鹿の一つ覚えみたく、何度も何度も、助けを呼んだところで、誰も応えてくれないというのに。

 お前には、それを乞い願う権利も無いというのに。


(……)


 ……ごめんなさい。

 ごめんなさい……もうしません……。

 もう、助けてくれとは言いませんので……せめて……殺して下さい……。

 お願いだから──

 誰か私を殺してください──

 自らで命を絶つことが叶わない以上、この呪縛を解く方法は、もう、それしかありません……。

 他人を恨むのも、自分を憐れむのも……正直、疲れました。

 どうしたって──どう考えたって──私は死ぬべきなんです。

 殺してください──

 でなければ、延々と苦悩し続けるだけ。

 そのことは自分がよく解っています。

 あいつらと関わっていない時ですら、毎日のように、寝ても覚めても、過去の記憶にうなされる。

 この程度の傷ですら、痛みに耐えられないほど、私の心は弱く脆い。

 生きていたら──その傷が──これからも増えていくという──

 それも、赤の他人からではなく、家族たちの手によって。

 今まで私に、散々、気持ちの悪い仕打ちをしてきた奴らから。

 同じ奴らから、同じように。

 いたずらに、明確な悪意をもって。

 傷付けられる──

 束縛される──

 いままでどおり──

 ずっと──

 死ぬまで──

 吐き気。

 だから──

 コロシテクダサイ──

 それとも、私には、死ぬ権利すら無いのでしょうか……。

 お前なんか、いつまでも、捌け口として『悪用』されていろと……。

 まあ……それが身の程に相応しい処遇なのでしょうね。

 今回の件で自由を奪われた暁には、いよいよ失うモノは何も無くなるわけです。

 密かに心の中で思い描いていた将来への展望まで消え去り、一抹の希望すら持てなくなる……。

 そしたらさ……もう、諦めようよ。

 できる限りのことはやった。

 他人から見て、これで頑張ったとは言えないのかもしれないけれど……私なりに手は尽くした。

 ここが私の限界です。

 だから……。


(……)


 ……だから?

 『だから』って、なんだよ。

 『だから』って……もう、止めてよ。

 さっきも同じような事を考えてたじゃん。

 諦めようって。

 早く死のうって。

 じゃないと苦しむだけだってさ。

 でも、死ねないって……。

 ホント、これ、何回繰り返すつもりなの。

 いい加減にしてよ。

 もう止めてよ。

 お願いだから……もう、止めて……。

 もうイヤだよ。

 これ以上、何も考えたくないよ。

 結局、考えても考えても考えても、同じ結論になるんだもん。

 出来の悪い頭を働かせるだけ無駄だってば。

 どう足掻いたって、私が辿る道は一つに決められていたんだ。

 私は、()()()()()()()()()を何も許されない。 

 助かることも、死ぬことも。

 なら、どっちも諦めよう──

 再考の余地なんて無い。

 余計なことを考えるから苦しむんだ。

 考えることを止めよう。

 考えることでさえ、諦めよう。

 ──完全なる思考停止。

 ──自意識の放棄。

 この二つができるようになれば、きっと、苦しくなくなる。

 決して正気を取り戻してはいけない。

 そうでなければ……これより現実となる悪夢の続きを直視することとなる。

 私は、ただ一人の個人ではなく、集団の一部となるのです。

 あいつらを生かすため。

 腐り切った社会(システム)を存続させるため。

 悪意の集合体──群の巨人を動かすための部位と同化する。

 その中で、滅私に徹する。

 心を殺す。

 何も考えず、何も感じなくなるまで──生きる屍となるまで。

 仕方が無いことだと、割り切れなくても、受け入れられるように……。

 そして、気付いたら……全て終わっているはず……。

 自らの意思で死ねないといっても、人間、否応無しに、死ぬ時は必ずやってくる。

 あるいは、その時を待たずして……私なんかでも、終わらせる勇気を持てる日がやってくるのでしょうか。

 ……うん。

 いつか、きっと、そうなれるよ。

 今は無理かもしれないけれど、大人になったら……きっと死んじゃえる。

 この命が終われば──なにもかも──忘れることができる──

 嫌いな思い出も、全部、なかったことにできる。

 傷は消える。痛みは治まる。

 だから……たぶん、大丈夫だよ。

 それまで、頑張ろう。

 頑張ろう……。

 そう自分に言い聞かせながら、俯いていると──手の甲に水滴が落ちてきました。


「……ッ」 

 

 肩を震わせ、失笑しちゃいます。

 あはは──泣けたんだね、私。

 結構、驚きました。泣くことなんて、本当に久しぶりだったので。

 笑ったつもりでしたから、これが嗚咽だと気付くのにも少し遅れた。 

 泣き方を忘れていたので、呼吸もままならず、ちょっと息が苦しい。

 それにしても──自己憐憫にどっぷりと浸って、悲しくて涙を流すだなんて、みっともないですね……。

 自分が可哀想で泣けるんだ。

 気持ち悪い……あの母親みたい。

 多くの場合、泣くというのは、被害者ヅラを前面に出す行為です。

 しょっちゅう泣いてばかりいる人は、明らかにその傾向が強い。

 隠れて卑怯なマネをすることの次くらいには──最低だと思っている。

 そう考えたら、あんまり泣かないことは、私の唯一の取り柄だったかもしれない。

 私が泣いていても、周りに笑われるだけだったから──あの母親に睨まれるだけだったから。

 ……でも、今だけは、どうか赦してほしい。

 これより、悪夢が現実となる。

 誰にも、私の言葉が届かなくて──声も出せなくなる──あの夢が、本当になる──

 為す術も無く、底無しの絶望へと落ちていく。

 その先に安らぎなどない。

 なればこそ、全ての自我(エゴ)を手放すしかない。

 恐怖も、苦しみも、悲しみも、痛みも……感じなくなるように。

 砕け散った心が、その欠片が、二度と(かたち)を取り戻さないように。

 だから、感情を表に出すのは──これっきり──最後にします。

 最低な行いだと断じておきながら、舌の根も乾かぬうちに、なんですが……泣くのって、意外と悪くないものですね。

 胸のつかえが取れるといいますか、スッキリするというか……蟠りが解けていくような心地です。

 なんだか嬉しいな……。

 生まれたくはなかったけれど、そう思えるようになれて良かった。

 こんなことでも……最後に……幸せだと感じられるようになれて良かった。

 そうして、ようやく人生の総括を終え、再び現実へ立ち返ると──いつの間にか、嘘みたいな量の涙が、瞳に溢れていました。

 ニット帽をハンカチ代わりにして、込み上げてくる嗚咽が漏れないよう、口元を押さえる。

 ごめんなさい……。

 何も……誰のためにもなれないのに、誰かのせいにして……。

 自分のためなんかに……泣いたりして……。

 恥ずかしい奴で……恥知らずで、ごめんなさい……。

 でも……これで、最後だから……。

 これで……運命に逆らうのは、もう止めるから……。

 こんな痛みなんて、全部、忘れるから……。

 今だけ……。

 あと、ほんの少しだけ……。

 この心と、一緒にいさせて──

 もう空っぽだけど……。

 そこにあった想いは、借り物で、偽物だったのかもしれないけれど……。

 それでも、私にとっては……大切なモノだったから……。

 凍えるように身を震わせつつ、声を押し殺して泣き──まさしく感傷に浸り、確かな胸の痛みを感じながら、残された少ない時間をこの心と共に過ごすと決めました。

 潤んだ瞳を閉じると、そこに溜まっていた涙が弾ける。

 目尻の端から一粒だけ流れ、頬を伝い、零れ、ポトリと床に落ち──


 ──そこから、黒い何かが盛り上がってきました。


「へ」


 一瞬、幻覚かと思われたのも束の間、それは立ち上がるように、むくむくと明確な形を成して現れる。

 猫耳でした──二つの大きな猫耳が生えています。

 さらに大きな目……鼻と、ヒゲと、口は無し。

 子供のラクガキみたいな黒猫の顔が、そこにはありました。


「ぃよいっしょ、と!」


 キュッポン、と小気味良い音を鳴らし、床からついに飛び出してきました。

 身を翻して降り立ったその姿は、人一人ほどの大きさで、全身が真っ黒。

 手袋を嵌め、ブーツを履き、マントを羽織っております。

 あと……よく見たら、お尻に生えた長い尻尾が折れ曲がっていますね。

 そして──懐から取り出した金ぴかの王冠を頭に被りました。

 はたして、その全貌……ぱっと見、着ぐるみかと思いましたが、生地や毛並みのような質感は全くありません。

 どちらかといえば、かなり出来の良いホログラムにも見えます。

 まるでアニメーションの世界からそのまま踊り出てきたかのような2.5頭身。

 すると、その……少し不気味な猫さんは、私の方を見て、三日月目でに~んまりと笑い、泣きじゃくる赤ん坊をあやすように手をヒラヒラと振ってきました。


「はーい、どうも~。キミが宗教団体の駐車場で置き去りにされているのを黙って見ていた神さまだよ~ん。……なんつってね!」


 ありえない言葉──に、瞠目します。

 目の前の少女が呆気に取られていることなんてお構いなしに、その猫さんは不敵に笑い、人差し指で天を突く珍妙なポーズを取って、高らかに宣いました。


「ハロー、ファッキン☆ワールド! 最カワなるぅっ! 全能なるぅっ! 偉大なるぅっ! ボクサマことぉ! ヘブンリー・マスター・セブン……でぇえええええす!」



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