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epilogue.

 目の前には、少し冷えた朝食が並ぶ。いつもは一人分しか用意されていない食卓。けれど今日は、二人分の用意があった。エリオットは右手に持ったフォークを、皿の上に乗っていたベーコンに突き刺す。


「それで。結局お前はなんなんだ」


 幾分か時間が経ったおかげか。その声は平素の落ち着いた調子を取り戻していた。とどのつまり、いつものように若干の刺々しさも復活しているわけで。


「簡単に言えば、幽霊、みたいなものでしょうか」


 エリオットとは正反対に、目の前の皿に全く手をつけないまま少女が言った。行儀よく座っている少女の両手は、机の下。膝の上に乗っているその両手は僅かに、強く握り締められている。

 しかしそれはエリオットの声色を伺って、というよりも緊張を孕んだが故、というのが近いだろうか。


「その昔、ここがエインズワース家の本宅であった頃に、お勤めさせていただいておりました」

「ということは、元々は生きた人間だったわけか」

「はい。ですが……まあ、気がついたら、わたしを起こしてくださった方以外は見えないようになっておりまして」

「非科学的だな」


 つまらなさそうにあっさりとした声色で言うと「ですよね」と少女は笑う。悲観した様子はなく、どちらかというとエリオットに全面同意しているような笑みだ。

 ベーコンを突き刺したフォークから、手を離す。かわりに、湯気の消えた陶器のカップを手にして、紅茶を口に含む。


「とはいえ、困った事に目の前でその話がおおよそ本当だと証明されてしまった」


 落ちた声は、驚くほどに淡々としていて。その声が少女の話を真実だと、エリオットが素直に受け入れていることを告げている。


「まあ、お前が俺以外に見えないからといって今更何か変わるわけでもないしな。これ以上の話は、お前が知っていて、気が向いたときにでも話してくれたら構わん」

「よいのですか、それで」


 少女が唇を噛んだのが見えた。エリオットは少しだけ口角を上げて笑う。


「……お前は、俺と共にいるのだろう?」


 俯き気味だった少女が、弾かれたように顔を上げる。


「それが、俺が“あるじさま”だからだとしても。傍にいるなら、それでいい」


 何か言いたげに少女は視線を彷徨わせた。エリオットは一度少女に視線を寄せるも、すぐに逸らしては手にしていたカップをソーサーの上に戻す。それから、皿の上に置いたベーコンの刺さったフォークに手を伸ばそうとして。


「わたしは」


 その手を、引っ込める。かわりに顔を上げて、視線を少女に固定した。少女はかわらず視線を彷徨わせているが、その顔には決意のようなものが滲んでいるように見え。エリオットは、ただ黙って少女の言葉を待つ。


「たしかに、あるじさまが“あるじさま”だから一緒にいるものだと思っていました。今も、その気持ちは変わりありません」


 と、そこで少女は言葉を切った。少女の視線は、意図的にエリオットから逸らされている。声色もいつもの調子は鳴りを潜め、気まずそうなもの。

 何呼吸かおいた後。逸らされていた視線が、エリオットに向いた。その瞳はまだ揺れているが、どこか決意のようなものが滲む。


「それとは別に、わたしが、あるじさまと――エリオットさまと、一緒にいたいと思う気持ちも、あります」


 息を、呑んだ。それはこの屋敷に縛られる宿命を帯びたが故ではなく、まぎれもなく少女の本人の意思からきた言葉だと分かったから。

 いったい、どうして。驚いたように目を丸めて少女をまじまじと見つめる。


「もちろん、同情とか、そういう気持ちかもしれませんけれど……はじめて、“次”が来ることを、怖いと思いました」


 次――それは、エリオットが死した後を指すのだろう。少女の言葉を思い返すに、エリオットが死ねばまた、少女は眠りにつく。そうして、誰かが。“あるじさま”と呼ぶための誰かが、起こしてくれるのを、ただひたすらに待つ。

 少女がどれほどの時を生き、何度眠り、何度目覚め、何人をあるじさまと呼んだのかは分からない。けれど、生前を忘れてしまうほどの時を、ずっとそうして生きてきたことは、想像に容易かった。

 エリオットは机の上に無造作に放り出していた手を、机の下に引っ込める。妙に乾いた唇を舌で湿らせてから、少しためらう様子を見せながらも、口を開く。


「お前の気持ちは、素直に嬉しい。だが、自分で言うのもあれなんだが……俺は、お前にそう思ってもらえる要因が、分からない。俺に合わせて、言っているなら――」

「違います」


 その否定の言葉は、驚くほどに力強かった。

 予想だにしていなかったせいか。エリオットの口は、間抜けにも閉じることを忘れたように、開かれたまま。

 目は見開かれ、少女を穴が開くほどに見つめている。


「たしかに、あるじさまは、たいがいひどかったと思います。わたしでなければ……いえ、わたしでも、生前ならいとまをいただいたでしょう」


 あまりにもはっきりとした少女の物言い。だからこそ、少し間をおいて、呆気にとられたように「……そうか」としかエリオットは返せなかった。少女は遠慮も気遣いもなく「そうです」と力強く頷く。

 これで、うちのめされるなという方がおかしいだろう。エリオットは机の下に放り込んだ手を取り出して、頭を抱えたくなった。けれど。


「あるじさまと過ごすうちに、なんとなく……ただ、不器用なだけなんだな、と思いまして」


 少女の言葉に、うちのめされた精神が僅かに回復する。しかし「まあ、不器用なというと、不器用な方に失礼かな、とも思いますが」と続いた言葉に、再度うちのめされてしまう。


「……お前、容赦ないな」

「あるじさまよりは幾分もましな方だと思います」


 あっさりと返されると、言い返せずに言葉が喉に詰まった。そんなエリオットを見てか。少女は、可愛らしく笑ってみせ。


「そういうところが、ちょっと可愛らしいな、と思ったりもしまして」

「嬉しくない」


 完全に不貞腐れた声。しかし少女はお構いなしだ。相変わらずその顔に、温度のある柔らかい笑みを乗せている。

 だから、思いもよらなかった。不意打ちを食らうだなんて。


「でも、一番の理由はこうやって――わたしという存在がどんなものであるか分かっても、拒絶なさるどころか、かわらずに接してくださったことで。……わたし、わたし。本当に、どうしようもなく……それが、嬉しくて、嬉しくて、仕方がないんです」


 だから、“次”を迎えることなく、エリオットさまとともに死にたいと思ったんですよ。

 と言った少女の笑みは、さらに柔らかくなった。全てを包み込むような、本当にエリオットを愛しいとでも思っているような――そんな風に、笑っている。

 心臓が、何かに鷲掴みにされたかのような感覚がエリオットを襲う。苦しくて、呼吸もままならない。

 少女のその笑みに、目線は釘付けされ。一生忘れないよう脳裏に焼き付けようとしているかのように、目が離せなかった。


「……お前は、俺が連れて行く」


 絞り出されたような声は、掠れていて聞き取りにくい。それでも――それでもその言葉は、エリオットの心からこぼれ落ちた声だった。たとえ誰かが笑おうとも、無謀だとわかっていても、変わることのないだろう、本心を表した声。

 少女には聞こえていたのだろう。途端、少女の両の瞳から真珠のような、それでいて透き通った大粒の涙が溢れてこぼれ落ちていく。

 一枚の絵画にも似たその美しさを前に、エリオットは掛ける言葉を見つけられなかった。ただただ、言葉を忘れたように、少女を眺め続ける。


「わたしの名前は……本当の、名前は。リーゼと言うのです」


 こぼれ落ちる涙をそのままに、嗚咽を押さえ付けたような声で少女が言った。お世辞にも可愛らしい、とは言えない声ではあったけれど。その声はエリオットの心に入り込んで、じんわりと広がっていく。

 

「どうしてこんなことになり、どうしてたらわたしは死ねるのか、分かりません。それでも」


 一度、少女は顔を俯かせる。机の下にあった両手を持ち上げ、胸の前で祈るように組む。

 それから、顔を上げて決意の篭った真っ直ぐな眼差しをエリオットに向けて。


「それでも、わたしを。“エインズワース”ではないリーゼを、連れて行ってくださいますか」


 と言った。

 心の奥底まで貫いて、離さないその視線はとても心地良い。迷う様子も見せずにエリオットは「……ああ」と、いつもより幾分か低い声で、言う。


「お前がどうしてこんなことになったのか、どうしたら死ねるのか。一緒に探そう」


 たとえそこにどんな理由があったとしても。少女は、エリオットを見捨てやしなかった。だから今度は、エリオットの番だ――とでも言いたげに、口角を持ち上げるように笑ってみせて。


「なに、時間だけはたっぷりある。そうだろう? ……なあ、リーゼ」


 一瞬少女は驚いたように目を瞬かせる。けれどすぐに「はい」と言ながら涙を拭い、少女は――リーゼは、幸せそうに笑った。

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