第8話 選択の声
ユウは回収者の前に出た。
「お前は忘れたものは消えるべきだって言ったな」
『はい』
「じゃあ、消えないものは何だ」
回収者は答えない。ユウは続ける。
「忘れても残るものがある。ふとした匂いで思い出す帰り道とか、もういない人の口癖とか、何年経っても胸に引っかかる一言とか。人は全部は覚えられない。でも、なくなったわけじゃない」
彼は響片のはまった最上階を見上げた。
「街だってそうだ。記録があるから街になる。整理して空っぽにしたら、ただの箱だ」
回収者の白い面にひびが入る。そこから漏れる無数の声が不規則になる。存在の前提を揺らされているのだと分かった。
『過剰蓄積は歪みを生みます』
「なら、人が抱える矛盾ごと残せばいい」
ユウは凪の肩をそっと離し、階段を踏みしめた。
「悲しい記憶も、届かなかった言葉も、忘れたくて忘れたわけじゃない。持ちきれないから沈めただけだ。お前みたいに勝手に分類して回収される筋合いはない」
響片が再び呼応する。今度は塔全体の金属板が一斉に鳴った。朝の目覚まし、駅のアナウンス、教室のざわめき、台所の包丁の音、雨、笑い、泣き声。街が持っていた全部の音が、回収者へ向かって押し寄せる。
回収者はよろめいた。黒い外套が崩れ、中から無数の影が飛び散る。
『処理不能』
「当然だ。人間は処理しきれないものを抱えて生きてる」
ユウは最後の段を駆け上がり、最上階の核の前へ戻った。くぼみに嵌めた響片はまだ半分しか埋まっていない。完成させるには、もう一つ足りない。
そのとき凪が上を見上げて言った。
「私が残り」
ユウは振り返る。
「駄目だ」
「私も響片の一部なの。最初に保留された音。だから核が私を通して繋がってた」
「そんなこと最初から知ってたのか」
「なんとなく。思い出したのは途中」
凪は階段を一歩ずつ上ってくる。身体はほとんど透明になっているのに、その顔だけは驚くほど穏やかだった。
「嫌だ」
「うん」
「嫌だって言ってる」
「知ってる」
「やっと思い出したんだぞ」
「私も、やっと呼んでもらえた」
凪はユウの前に立つと、子どもの頃の声で言った。
「お兄ちゃん」
その一言で、ユウの中の何かが完全に戻った。喪失の重さ、守れなかったと思い続けていた無意識の痛み、ずっと名前を失っていた家族の輪郭。その全部が一気に胸へ落ちる。
泣きそうになったとき、凪は笑って彼の手を核に重ねた。
「今度は、忘れないで」
光が溢れた。




