第6話 回収者
黒い波の中心から、人の形が浮かび上がった。
今までの影とは違う。輪郭が明瞭で、背が高く、黒い外套のようなものをまとっている。顔には何もない。のっぺりとした白い面だけがあり、そこに目も口も描かれていない。それなのに、そいつがこちらを見ていると分かる。
『返還の時刻です』
頭の中に、冷たい声が落ちた。
「お前が回収者か」
ユウが言うと、相手はわずかに首を傾けた。
『個体名は不要。役割のみ存在します』
「街から音を奪ったのはお前か」
『不要になった記録を整理しただけです。街は過剰に蓄積し、境界を圧迫していた』
「不要だと?」
ユウの胸の奥で何かが切れた。誰かの笑い、ただいま、雨音。そんなもののどこが不要なのか。だが回収者は平然と続ける。
『人は忘れます。忘れるものは本来、消えるべきです。残すから歪みが生じる』
凪が一歩前に出た。
「だからって、街ごと無音にしていい理由にはならない」
回収者は彼女へ顔を向ける。
『保留個体。まだ残っていましたか』
「その言い方やめて」
『あなたは既に終了した記録です。兄も同様。本来、当時に分離されるべきでした』
ユウは凪を見た。彼女は恐れていた。消されることではない。自分の存在を“記録”としか見ないものに、ずっと名前を奪われ続けてきたことを。
「凪」
呼ぶと、彼女は少し驚いた顔をした。
「君は記録なんかじゃない。妹だ」
その言葉に、塔の壁の金属板が一斉に鳴った。無数の生活音が小さく共鳴する。回収者が初めて一歩退いた。
『固着を確認。危険度上昇』
「ユウ、今なら行ける!」と凪が叫ぶ。
ユウは響片を掲げた。欠片はもう欠片ではなかった。見えない円環の一部が、彼の掌の上で完成しようとしている。彼は本能的に理解する。これは武器ではない。記録を繋ぐものだ。
回収者が腕を振るう。黒い帯が鞭のように飛び、階段を切り裂く。ユウは身をかわし、上へ走った。背後で凪が回収者と向き合う気配がする。音はないのに、それだけは確かに感じられる。
らせん階段を駆け上がりながら、ユウは思い出していた。
病院の夜。妹は事故で意識不明。母は泣き続け、父は何も言えず壁を見ていた。幼いユウは、妹の声を忘れたくないと思った。ただそれだけだった。だから病院の非常階段の踊り場で、見えてはいけない扉を見つけてしまった。そこから先が境界だった。
街の核は願いを聞いた。
妹の音を、失わないように。
代わりに、皆からその存在を薄く削った。
守るために、忘れさせた。
最上階へたどり着くと、そこには鐘ではなく、大きなガラスの球体が浮かんでいた。中には無数の光が渦巻き、都市の夜景を閉じ込めたように明滅している。これが核。
その表面に、ひびが入っていた。




