第5話 鐘のない塔
街の中心には、古い時計塔があった。
ユウはこの街で生まれ育ったはずなのに、そんな塔の存在を覚えていなかった。再開発ビルの谷間にそびえる石造りの塔。尖塔の先は雲に溶け、四面の時計はどれも針を失っている。周囲だけが妙に広く、更地の上に立っているように見えた。
「見えなかっただけ」と凪は言った。「本当はずっとあった。境界に近すぎて、普通の人には意識されない」
「ここに何がある」
「街の核。最後に残った音の保管庫」
二人は重い扉を押して中へ入った。内部は円筒状の吹き抜けで、中央にらせん階段が巻きついている。壁には無数の小さな金属板が埋め込まれていた。名札のようにも、墓標のようにも見える。
ユウが一枚に触れると、そこから笑い声が漏れた。女性の明るい笑い声。数秒だけ響いて消える。
「これは」
「集められた音。街の人たちが失ったものの一部」
「なら、戻せばいいじゃないか」
「簡単じゃない。音は持ち主の記憶や感情と結びついてる。下手に戻すと、人が壊れる」
凪は上を見上げた。塔の最上部に、うっすらと白い光が見える。
「でも核が無事なら、街を繋ぎ止められる」
階段を上る途中、ユウは壁の金属板にいくつも触れた。赤ん坊の泣き声、電車のブレーキ音、居酒屋の笑い、誰かの「ただいま」。ありふれた音ばかりだった。だがそのどれもが途方もなく愛おしく感じられた。音とは、こんなにも生活そのものだったのかと初めて知る。
半ばほどまで上ったとき、凪が足を止めた。
「ユウ。ここから先は、思い出す覚悟がいる」
「何を」
「あなたの妹のこと。私のこと。街が壊れ始めた日のこと」
凪の目は揺れていた。ここまで案内人として整っていた彼女に、初めて迷いが見えた。
「君は……妹を知ってるのか」
しばらくして、凪は言った。
「私が、その妹だから」
ユウの世界が一瞬遅れて回転する。
凪。妹。病院。雨の商店街の少年が呼んだ“姉ちゃん”。そこまで繋がって、なお現実味がない。凪は続けた。
「私は一度、死にかけた。子どもの頃。事故で。あなたは私を助けようとして、境界に触れた。そこで街の核に選ばれて、私の音をここに繋ぎ止めた」
「待て……それじゃ君は」
「生きても死んでもいない。街の中で保留されてる」
「そんなの……」
「だからあなたは忘れさせられた。そうしないと、核が不安定になるから。家族も、街も、みんな少しずつ忘れた。私がいたことを」
ユウは壁に手をついた。吐き気がした。自分の人生のどこかが、ごっそり抜け落ちていたのだと今さら気づく。その抜けた場所に冷たい風が吹き込んでいる。
「なんで今、思い出させる」
「終わりが近いから」
そのとき塔の下から黒い波が這い上がってきた。階段の隙間を埋め、壁を溶かし、声にならない声を吐きながら迫ってくる。
凪は振り返り、静かに言った。
「核まで行って。私はここで足止めする」
「ふざけるな、そんなの」
「もともと私は、そのために残ってた」
「嫌だ」
ユウの拒絶は、自分でも驚くほど強かった。感情が戻ってくる。怒り、恐怖、喪失感。全部が一気に押し寄せる。今まで薄かった世界に色が戻り始める。
凪は少しだけ笑った。
「その顔、昔と同じ」
黒い波が目前まで来る。ユウは響片を握りしめた。欠片は熱を超えて痛いほどに脈打っていた。
塔の上では、まだ鳴っていない鐘が待っていた。




