第4話 雨の記憶
図書館を抜けた先は、商店街だった。
アーケードの下に人影はなく、店のシャッターは半分だけ開いている。八百屋の段ボールには空の果物箱、喫茶店のショーケースには蝋細工みたいなケーキが並び、どれも時間から切り離された標本に見えた。
そして商店街の中央だけ、雨が降っていた。
周囲は乾いているのに、そこだけ狭い範囲で細い雨が垂れている。だが音はない。傘も差さず、その雨の中に少年が立っていた。小学生くらいだ。制服姿のまま、じっと空を見上げている。
「近づかないで」と凪が低く言う。「記憶の残響かもしれない」
だが少年はこちらを見て、はっきりと口を開いた。
「ねえ、姉ちゃんまだ帰ってこないの?」
その声は聞こえた。
凪の表情が強ばる。ユウは少年と凪を交互に見た。
「知ってるのか」
「……知らない」
だが嘘だと分かる。凪は少年に近づき、震える指先で頬に触れようとした。触れる直前に手はすり抜ける。少年は何も気にせず雨の中で笑った。
「今日はね、傘なくても平気なんだ。音がないから」
ユウの背筋に冷たいものが走る。少年の言葉は意味不明なのに、どこかで繋がっている気がする。
「君、名前は?」
ユウが尋ねると、少年は少し首を傾げた。
「……わすれた」
雨が一瞬だけ強くなった。商店街の天井もない場所から真っすぐ落ちるその水は、少年の身体を少しずつ透かしていく。
凪が唇を噛む。
「残響じゃない。これは“置き去り”」
「置き去り?」
「誰かに忘れられた記憶が、ここに留まってる」
少年は今度はユウを見た。
「お兄ちゃんは、忘れない?」
問いかけというより、確認だった。
ユウは答えに詰まる。何を忘れたのかも分からない自分に、その約束ができるのか。すると胸の響片が熱を持った。ユウは反射的にそれを取り出し、少年へ差し出した。
欠片から、雨音がした。
最初は小さく、次第に商店街全体に広がる。ぱらぱら、ざあざあ、排水溝に吸い込まれる水の流れ、軒先を打つ細かな跳ね返り。世界はまだ無音のはずなのに、その雨音だけが鮮やかだった。
少年の輪郭が安定し、顔がはっきりする。
その瞬間、凪が息を呑んだ。
「……真琴」
少年が笑う。
「やっと呼んだ」
凪はその場に膝をついた。初めて感情が剥き出しになった顔だった。ユウには事情が分からない。だが理解できたことが一つある。凪はこの街に深く関わっている。そして、忘れている。
少年——真琴は、雨の中で徐々に薄れていく。
「姉ちゃん、早くしないと間に合わないよ」
「何に」
「鐘が鳴る前に」
その言葉と同時に、商店街の奥から巨大な黒い波が押し寄せた。影の群れではない。もっと一つの塊に近い、都市の夜を丸ごとちぎって固めたようなもの。
凪が立ち上がる。
「走るよ。今のは本体に近い」
「鐘って何だ!」
「街の最後の合図。あれが鳴ったら、本当に全部“向こう側”になる」
ユウは振り返る。雨の中の少年はもういない。
ただ地面に、水面の輪だけが残っていた。




