第3話 失われた名前
二人が落ちた先は、古びた図書館だった。
天井まで届く本棚。だが本の背表紙には題名がなく、文字が全部消えている。窓から差し込む光は夕方の色をしていたが、外の時間が本当に夕方なのかは分からない。時計の針は十二時を指したまま動いていない。
凪は本棚の間を迷いなく進んだ。ユウが呼びかけると、彼女は振り返らずに言う。
「ここなら少し安全。追跡が鈍る」
「安全って、あれは何なんだ」
「人が捨てた音から生まれるもの。言えなかった言葉、届かなかった声、忘れられた約束。そういうものが溜まって影になる」
「じゃあ、敵っていうより……残りカスみたいなものか」
「最初はね。でも溜まりすぎると、街そのものを食べる」
凪は一冊の本を抜いた。題名のない本を開くと、中には文字の代わりに波形のような線がびっしり描かれていた。彼女はそのページをユウに見せる。
「あなたは小さい頃、一度だけここに来たことがある」
「は?」
「正確には、境界に触れた。七歳のとき。病院で」
その瞬間、ユウの頭の奥に古い蛍光灯の光が閃いた。白い天井。消毒液の匂い。ベッド脇で泣いている女性。自分より少し年上の少女の横顔。
だが顔が見えそうなところで、記憶はざらついて途切れた。
「……妹だ」
口が勝手にそう言った。
ユウ自身、言ってから驚いた。自分に妹がいた記憶など、今まで一度も表面に浮いたことがなかった。
凪は静かにうなずく。
「いた。名前は——」
彼女がそこまで言った瞬間、図書館全体が揺れた。棚の影が濃くなり、床の継ぎ目から黒い手が這い出してくる。回収者の前触れだ。
「なんで今……!」
「名前は強い音だから。思い出しかけると、向こうが気づく」
凪は本を閉じ、ユウの胸に押しつけた。「持って。あなたの記録になる」
「君はどうする」
「案内する。最後まで」
棚と棚の間を黒い人影が満たしていく。耳には何も聞こえないのに、近づいてくる気配だけが脳に刺さる。ユウは響片を握りしめた。すると欠片がほのかに光り、その光に触れた影だけが一瞬薄くなる。
「それ、使えるのか」
「あなたなら」
「使い方は」
「今、強く思ったこと」
ユウは半信半疑のまま、目の前の影が“止まれ”と念じた。すると響片が震え、図書館のどこかでページをめくる音がした。初めて、外界の音が一つだけ戻る。
その微かな音を境に、黒い手が一斉に動きを止めた。
凪は目を見開いた。
「……やっぱり」
「何が」
「あなたは、ただ選ばれたんじゃない。最初から街の中に“鍵”として埋め込まれてる」
だが停止は数秒しかもたなかった。影たちが再び動き出す。凪はユウの腕を引き、図書館の奥の非常階段を駆け上がった。
その途中、ユウは自分の胸の内に奇妙な空白があることに気づいた。
妹がいた。今、確かにそう思い出した。
なのにその喪失に伴うはずの感情が、うまく形にならない。
まるで、悲しみだけが先に削られているようだった。




