第11話 名前を呼ぶ日
気づくと、ユウは病院の屋上にいた。
あの夜の病院だとすぐに分かった。だが建物は今より古く、空気も少し違う。これは過去の記憶の中なのだと理解するまでに数秒かかった。目の前には、七歳の自分がいる。非常階段の扉の前で泣きそうな顔をしていた。
その先には、小さな女の子が立っている。
凪だ。
事故の怪我は見えない。ただひどく薄い。向こう側へ引かれかけている。幼いユウはその手を必死に掴もうとしていた。
「いやだ、いかないで」
子どもの声が響く。はっきりと。
ユウは少し離れた場所から、その光景を見ることしかできない。介入はできない。ただ理解するだけだ。あの時、子どもの自分は世界の理屈を何も知らず、ただ妹を失いたくなかった。そして街の核は、そのまっすぐすぎる願いを拾ってしまった。
幼い凪が言う。
「お兄ちゃん、泣かないで」
「やだ」
「だいじょうぶ。ちゃんといるよ」
それは慰めでも嘘でもなく、予告だったのかもしれない。これまでずっと、彼女は確かにいたのだから。
記憶の風景が少しずつ白く霞んでいく。終わりだと分かる。去る前に、ユウは子どもの自分へ声をかけられないかと願った。すると不意に、幼いユウがこちらを振り向いた。見えているはずはない。それでも、確かに視線が合った気がした。
大人のユウは、心の中で言う。
——忘れてもいい。
——でも消えはしない。
子どものユウは何かを聞いたように、少しだけ表情を緩めた。
次の瞬間、景色は明るい朝へ塗り替わった。
ユウは自宅のベッドの上で目を覚ます。
スマートフォンのアラームが鳴っている。
耳障りなくらい、普通の電子音が。
彼はしばらくそれを止められなかった。うるさいはずなのに、泣きたくなるほど安心する音だったからだ。
窓の外では車が走り、近所の子どもが笑い、どこかで工事の音がしている。世界は戻った。
ニュースでは一夜の原因不明の通信障害や集団性の聴覚異常が話題になっていた。だが誰も“無音の都市”のことは正確に覚えていないらしい。夢のように薄れている。とはいえ完全ではない。街の人々はみな、今日は少しだけいつもより周囲の音に敏感だった。駅で流れる発車メロディに立ち止まる人。喫茶店のカップの触れ合う音を聞いて微笑む人。母親の「いってらっしゃい」に振り返る学生。
失ったからこそ、戻ったものの輪郭が見える。
ユウは机の上に銀の鈴を見つけた。夢ではなかった証拠だ。彼はそれを掌にのせ、静かに鳴らす。
澄んだ小さな音のあと、ごく微かに声が続いた。
『おはよう、お兄ちゃん』
ユウは目を閉じた。
「おはよう、凪」
今度はちゃんと名前を呼べた。




