蜘蛛の巣
女の指は報告書をめくる。
王太子の寵姫である男爵令嬢に関するものだ。
密偵は男爵令嬢の傍にいさせるわけにはいかない。それがこの報告書に記されている。
王太子の行状に苦言を呈そうと男爵令嬢のいる離宮に向かった大臣の一人があっさりと男爵令嬢に対する対応を変えてしまった。
先日までは髪をつかんで離宮からたたき出すと息巻いていたが、遠目から見た限り男爵令嬢と目が合ったとたんに急激に態度が変わったという。
まるで崇め奉るように膝をつきその場に深々と頭を下げた。
周囲の侍女たちも男爵令嬢が相手であるにもかかわらずまるで高位貴族の令嬢に対するように恭しく扱っている。
すべて遠目からの観察記録だ。そしてそば仕えの侍女たちからの間接的な状況のみ。
このことで確信した。あの女に近づくのは危険だ。
すでにあの女への警戒をして近づかないようにしている高位貴族は多い。
あの女は近づいてきた人間だけを搦めとる。それは幸いといえよう。
だが搦めとられているのはこの国の王と王妃、そして王太子だ。
頭を掴まれている以上どうしようもない。
そしてあの女はいろいろと口出しを始めたようだ。
本来の王太子の婚約者すら受けたこともない贅沢な暮らしを要求してきた。
そして。気まぐれに口にする言葉にいろんなことが停滞していく。
様々な珍品が欲しい。ちょっとしたお茶会を開きたい。離宮でパーティを開きたい。新しいドレスが欲しい。ドレスの注文のために一緒に出掛けてほしい。とても遠く国でしか産出しない珍しい宝石を取り寄せてほしい。そうしたくだらないことばかりせがむ。
もちろん王太子は暇じゃない。今は戦時下なのだ。決裁書類一枚が遅れるだけで一部隊を形成するほどの人材が死ぬかもしれない。その貴重な時間をドレス一枚のためにどれほど空費させるつもりなのか。
王太子は唯々諾々とあの女の言うとおりにする。
本来ならばそうした王太子をどつき倒してでも止めなければいけない王と王妃も動かない。
あの女は他国からの侵略を受けている今この状況でその停滞がどれほど命取りになるか、そういうことすら考えられないのだろうか。
あるいは侵略されてもどうでもいいのかもしれない。
侵略した後、その侵略者たちを篭絡すればそれでいいと。
そして、王族だけが住まうことを許された離宮で蜘蛛のように獲物を待っているのだろう。
この状況は戦争どころではないのだがすでに開戦してしまった。
かわいそうなあの子はこと切れた兵士たちの姿に涙をこぼしているかもしれない。
それどころかあの子自身の実が危険だ。
砦の奥深くで黙々と働いているというが砦が落ちればあの子を守れるものはない。
書類を目無る手が小刻みに震えていた。




