第103話:贖い
モーティマー・グレイヴは沈んでいった。
口から泡が、傷口から血が水の中に漂い広がるが、行先は違った。
泡は天へと血は共に落ちていく。
ああ、喋れない。
水中ゆえに喋ることが叶わず、口を動かせば空気が漏れていく。
死が近づく中、喋ることが出来ないことを悔やんだ。
だから、心の中で紡ぐ。
紡がれたのは神の祈りではなく、故人を悼む言葉と懺悔だった。
彼、モーティマー・グレイブは……
かつて、街の片隅にある教会に仕える一介の修道士だった。
子爵級魔法使い一族が治める小さな街で領主である魔法使いは優しく、領民であれば魔法使い・魔術師を差別することなく平等に受け入れた。
モーティマーの一族は、普通の世界で暮らしていたが教会の迫害からこの街に訪れ、街のために貢献してきた。モーティマーも教会で領民に教えを広める修道士として生きていた。
穏やかで目立たず、己に宿った魔法を使うことなく祈りと記録だけを淡々とこなす日々。
その中で、彼には一人だけ特別な存在が居た。
「モーティマー、今良いかしら?」
「良いよ、クラリス」
それは教会を訪れる女性、クラリスだった。
彼女もモーティマーと同じく魔法使いで幼少期は魔法使いが魔法を学ぶ魔法塾で机を並べて学んだ同級生だった。
そして、モーティマーの初恋相手だった。
モーティマーとクラリス、二人は誰の目から見ても正反対だった。
一人、机で聖書を読むモーティマーと皆んなから好かれ談笑するクラリス。
住む世界が違うからとモーティマーはその思いを告げることは無かった。
「あの……神父様ですか?」
だから大人になって、教会にクラリスが訪れた時は嬉しかった。
「私は修道士……です」
クラリスの薬指にはめられた婚約指輪を見るまでは……
彼女はすでに結婚していた。
クラリスは相手の事や夫婦仲について多くは語らなかったが、その指輪を見るだけでモーティマーの心は酷く傷ついた。
傷付きながらもモーティマーは初恋相手の他愛もない相談に乗った。
同級生であったことと同年代だった事から、いつからかモーティマーの中でクラリスと相談し話し合うのは日常茶飯事になっており、婚約指輪を見ても傷付くことは無くなった。
そうした日常を過ごしていた、ある日。
おでこにガーゼを付けた状態でクラリスが教会を訪れた。
怪我の原因を尋ねると。
「ちょっと転んで頭打っちゃって……私ってほんとドジよね」
彼女はそう笑顔で言ったが、モーティマーは気づいていた。
クラリスの表情と言葉からそれが嘘である事と彼女が悲しんでいる事に気づきながらも触れずにいた。
その日からクラリスの怪我は目に増えていった。
頬とおでこには大きなガーゼが貼られ、左目には眼帯を付けており、痣だらけになっていくクラリスにモーティマーは何も声を掛けることも何も出来なかった。いや、しなかったのだ。
モーティマーは「修道士にできることではない」と、自らを納得させ、何もしなかった。
そんなモーティマーにクラリスは幻滅したのだろう。
ある日、彼女はモーティマーに強く当たりこう言った。
「モーティマー、私もうこの教会に来ないから!」
驚き固まる彼を置いてクラリスは続ける。
「どれだけ神に祈っても何もしてくれなかった、そんな神に祈るなんて無駄よ! それに貴方、昔の友人に聞いて知ったけど私にこと好きだったんでしょ。今まで真摯に相談にのってくれたのも、私に近づくためだったんでしょ……貴方のことは信じてたのに、もう貴方には会わない」
彼女はモーティマーの言葉を聞かずに、教会から去っていた。
モーティマーもクラリスを追うことなく、その場で自身の行いを悔やんでいた。
何故、自分の思いを伝えておかなかったのだと。
後悔しても、もう遅い。
変わっていなかったのだ、端で一人、聖書を読み、神の教えを貪っていたあの頃から他人との接し方、喋り方、心のあり方何一つ変わっていなかったのだ。
そして、クラリスが教会から去って一週間後。
モーティマーは遺体となった状態のクラリスと再開する。
モーティマーは驚きを心に秘めながら神父の隣で葬儀を執り行い、教会から墓場へと遺体を運んだ。
そこでモーティマーは初めてクラリスの夫を見た。
その男は大層整った顔をしており、喪服を纏っていたが隣に侍らせた女性とずっと喋っていた。
「ねぇ、ドロレス。この後、一緒に食事しないか?」
「いいわよ。はぁ、早く終わらないかしら」
周囲の親族の雰囲気は嫌悪感いっぱいで、女性が男の浮気相手だとモーティマーでさえ分かった。
モーティマーはその態度に怒りを覚えたが、心を鎮め丁寧に彼女を埋葬した。
葬儀が一通り終わると、クラリスの夫と女性は足早に墓場から去った。
モーティマーは神父から休むように言われたが、夫とその女性の関係が気になり、バレないように追った。
二人は昔、クラリスが美味しいと教えてくれたレストランに入った。
モーティマーは二人の背後の席に座り、二人の会話に耳を立てる。
「ねぇ、あの女死んで良かったわね。保険金入るんでしょ」
「ああ、問題解決室の連中に金も積ませたし、捕まることはないさ。勿論、あの女を殺した証拠も処分してるからバレることはない」
「私たち二人の最高の人生の幕開けね」
「ああ、そうだな」
モーティマーは二人の会話を聞く事に耐えられず、レストランを出て教会に足早に戻った。
教会に戻ると、クラリスと魔法塾時代よく話していた女性が居た。
「貴方がモーティマーね。クラリスから手紙を預かっているわ」
その女性から手紙を受け取り、内容を見るとそこにはモーティマーに対する謝罪が書き置いてあった。
自分が夫とその浮気相手に殺されるかもしれないこと、その事でモーティマーに危害が及ばないようにするためあのような発言と行動をした事とその行為と発言の謝罪がびっしり一枚の紙に書いてあった。
そして最後の文には……
あなたを守るために、ひどい言葉を投げてしまってごめんなさい。祈ってくれた時間も、話を聞いてくれた日々も、私にとっては確かな救いでした。
モーティマーは崩れ落ちる。
彼女への感謝が来る前にモーティマーは自己嫌悪に陥った。
自分は彼女のために何も出来なかったのに、彼女は自分のために行動してくれていたのに……自分は……
今から行動しても遅いのだろうが、今の自分が彼女のために出来ることなど一つだけだった。
修道士は殺意を持って、教会から出た。
そしてクラリスの元夫とその浮気相手が住む家を襲撃し、沈黙魔法で黙らせ、シャベルで気絶させ、墓場まで運んだ。
そして生きたまま、木棺に入れ、埋葬した。
目覚め、二人が叫び声を上げさせないために沈黙魔法で完全に喋れなくしてから、モーティマーは墓場を去った。
一週間後、モーティマーはクラリスの墓の前に居た。
「クラリス、好きだったよ」
その言葉を告げてからモーティマーは出頭した。
〜〜〜
過去を振り返り終えたモーティマーは踠いた。
踠いて。
踠いて。
河川から上がり、壁をよじ登り、柵を掴んだ。
***
濡羽とミアは目撃する。
河川に落ちても上がってきたモーティマーの姿を。
二人はすぐに動く。
「黒水、『黒渦槍』」
「狂舞踏」
濡羽は手元に黒色の槍を出現させ、投げる。
ミアは短剣を生成し、捉えられないステップで距離を詰める。
だが、それよりも速く。
モーティマーは行使した。
「魔奥『語られぬものは、最初から存在しなかった』」
異常な執念が、詠唱無しの魔奥を可能にした。
濡羽とミアは身構えるが、この魔奥の対象は術者自身、モーティマーだった。
それは敵を倒す技ではなく、「語られる可能性」そのものを自ら抹消する処刑だった。
光も、音も、存在の痕跡も。
修道士、モーティマー・グレイヴという名は、その場から完全に失われた。
理由は、最後まで誰にも語られない。
だが、濡羽はモーティマーという存在が記憶から消える前に理解する。
彼は神の沈黙に救いを求めなかった。
告解も、赦しも、奇跡も選ばなかった。
——修道士は、己の罪を、己の沈黙で償ったのだ。
そしてその沈黙は、誰にも破れることも語られることなく、愛する女性の名前と共に世界の底へと埋葬された。
執念で消えた詠唱
魔女は心奥にして最奥を覗く。言葉は記録となり、記録は存在となる。ならば語られぬものは、生まれず、残らず、思い出されない。声を持たぬ名よ、沈黙のまま還れ。ここには、最初から何も無かった。




