八幕 海坊主と御主人様
さちは長い枝を握ったまま、動かなかった。今のは風の音でも、葦の擦れる音でもない。さっき太一が何度も口真似をしていた、錫杖の鉄輪が触れ合う音だった。
じゃらり。
二度目は、先ほどより近くで鳴った。
さちはゆっくり振り返った。
老人が立っていた。いつからそこにいたのか分からなかった。沼から少し離れた、枯れ草のまばらに生えているところに、ひとりで立っていた。
僧のような姿をしていた。ひどく痩せた老人だった。本来の背丈がどれほどなのか、一目では分からなかった。首を前へ突き出し、腰から上をわずかに折るようにして立っているためだった。
古びた墨染めの衣が、骨ばった身体に垂れ下がっていた。ところどころ色が褪せ、黒というより、濡れた灰のような色をしている。その上に掛けた袈裟も、長い年月、雨と潮風に晒されたようにくすんでいた。
頭には白い毛がまばらに残っていた。頬は深く落ちくぼみ、顎は細く尖っている。皮膚は日に焼けているというより、塩を吹いて乾いた古木のようだった。細かな皺の底に黒い汚れが入り込み、唇はひび割れていた。
けれど、さちが何より先に気づいたのは、姿ではなかった。匂いだった。
潮の匂いがした。
海から吹いてくる風にも潮は混じる。けれど、老人のまとっている匂いは、それよりはるかに濃かった。濡れた綱や、浜へ打ち上げられて腐りかけた海藻。そうしたものを狭い箱へ詰め、長いあいだ蓋をしておいたような匂いだった。
その奥には、雨ざらしになった古い釘や、赤く錆びた刃物を濡らしたときのような、鉄の臭いがあった。わずかに生臭さも混じっていた。
さちは息を浅くした。
老人は錫杖を持っていた。木の柄は黒ずみ、握られているところだけが妙に滑らかだった。その先には、錆びた鉄の錫杖頭がついている。
三つの大きな鉄輪が、そこから垂れ下がっていた。輪の縁には赤茶けた錆がこびりつき、ところどころ薄片になって剝がれかけている。
老人がほんの少し手を動かした。鉄輪が触れ合った。
じゃらり。
さちは枝を取り落としかけた。
海坊主。
その名が浮かんだ。太一から聞いた話と、あまりにもよく似ていた。太一の声で聞いたときには笑えたことが、目の前に形を持って現れると、一つも笑えなかった。
老人は、さちを見ていた。
目は小さかった。細い瞼の奥に黒い目があった。老いて濁っているようにも見える。それなのに、さちへ向けられた視線だけは、針の先のようにはっきりしていた。
睨んでいるわけでも、笑っているわけでも、怒っているわけでもない。ただ、何の感情も浮かんでいない顔で、さちがそこにいることだけを確かめるように見ていた。
そのことが、ひどく恐ろしかった。
逃げたほうがいい。そう思ったが、足は動かなかった。水底にはまだ黄金色の手毬が見えている。細い赤い筋も、揺れる水の下に残っている。あれを置いたまま逃げることはできなかった。
さちは老人と沼を交互に見た。
やがて、老人が口を開いた。
「どうなされました」
低い声だった。乾いて、少し掠れていた。けれど、化物じみた声ではない。年老いた人間の声だった。
言葉遣いまで穏やかだった。そのことが、かえってさちを戸惑わせた。
本当に、ただの僧なのかもしれない。太一から怪談を聞いたばかりだから、似ているところだけを拾い上げ、自分で勝手に怯えているのかもしれない。
潮の匂いなど、この土地では珍しくない。錆びた鉄の臭いも、あれほど古い錫杖を持っているのなら不思議ではない。痩せた僧がひとりで立っているだけなら、怪異でも何でもなかった。
そう考えると、ほんの少しだけ身体が動いた。
「あの……」
声が震えた。それを悟られたくなくて、さちは水のほうを向いた。
「手毬を落としてしまって」
老人も沼を見た。
「ほう」
それだけ言った。
さちは先ほど取り落としかけた枝を握り直した。
「そこに見えるんです。でも、届かなくて」
老人は返事をしなかった。助けてくれるのかと思ったが、水辺へ近づいてくる様子もない。錫杖を持ったまま、水の底を見ていた。
「もう少し長い枝があれば、取れると思うんですけど」
さちは言ったが、老人は黙っていた。
傾いた陽は、さらに弱くなっていた。それでも泥水の下では、黄金色の糸がかすかに光っている。一本の赤い筋が、水の揺らぎに合わせて曲がって見えた。
しばらくして、老人が言った。
「大切なものでございますか」
さちは頷いた。
「はい」
「新しいものでは、いけませんか」
さちは老人を見た。胸の内側へ、冷たいものが入り込んだ。
つい先ほど、自分にそう言い聞かせたばかりだった。同じことを老人の口から問われたのが、ひどく不気味だった。
「駄目です」
さちは答えた。今度は声が震えなかった。
「あれじゃないと、駄目なんです」
老人の口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったようにも見えた。けれど、乾いた皮膚の皺が一本ずれただけのようにも見えた。
「さようでございますか」
老人は言った。
そのとき、老人の足元で何かが動いた。
さちは、それまで泥の塊だと思っていた。枯れ草と湿った土に紛れ、黒ずんだものが低く蹲っていた。
それがゆっくりと瞼を閉じ、また開いた。
大きなヒキガエルだった。
さちは息を呑み、一歩下がった。
見たことのないほど大きかった。さちの両手にようやく収まりそうなほどで、胴は太く、腹を地面へ押しつけるようにして座っていた。
灰褐色の背には大小の疣が密集していた。一つ一つの疣が、皮膚の下から何かに押し上げられているように膨らみ、その間を黒ずんだ斑が這っていた。
乾いて白く粉を吹いたところもあれば、粘り気のある水で濡れ、ぬらぬらと光っているところもある。皮膚の色も艶も一様ではなく、腐りかけた果実の表面を思わせた。
目の後ろには、長く膨れた瘤があった。その表面にも小さな疣が並び、いくつかの先には乳白色のものが乾いてこびりついていた。
脚は太く、短かった。折り畳まれた脚の付け根では、柔らかそうな肉が皺になって重なっている。
生き物というより、沼の底から掘り出した泥の塊が、無理に蛙の形を取らされているようだった。
ヒキガエルは鳴かなかった。喉の皮だけがゆっくり膨らみ、萎んだ。呼吸するたび、湿った腹が土へ押しつけられた。
さちが一歩、横へ動いた。少し遅れて、ヒキガエルの黒い目がさちを追った。身体は微動だにせず、顔の向きもほとんど変わらないまま、目だけがついてくる。
さちは背筋が冷たくなるのを感じた。
「それ……」
何と訊けばよいのか分からなかった。飼っているのですか。連れて歩いているのですか。そんな言葉のどれもが、この場にはひどく不似合いに思えた。
老人はさちの視線を追い、足元を見た。それから、ごく当たり前のことを告げるように言った。
「御主人様でございます」
さちは返事ができなかった。
「……御主人様?」
「はい」
老人はそれ以上、何も説明しなかった。ヒキガエルも動かなかった。
さちは老人と、その足元に蹲るものを見比べた。どちらも、さちを見ているように思えた。
「御主人様……なんですか」
「さようでございます」
老人の声には、何の揺れもなかった。
さちは思わず訊いた。
「お坊様の?」
老人は答えなかった。細い目で、しばらくさちを見つめていた。否定もしなければ、肯定もしない。その沈黙が、どんな返事よりも気味悪かった。
やがて老人は、沼へ視線を移した。
「御主人様なら」
老人が言った。
「あの毬をお取りになれます」
さちは水底を見た。それから、ヒキガエルを見た。
「この蛙が?」
思わず言ってしまった。老人は咎めなかった。ヒキガエルも動かなかった。
「御主人様なら」
老人は同じ言葉を繰り返した。それだけだった。
頼んでみてはどうかとも言わない。ヒキガエルに許しを求める様子もない。老人はただ立っていた。足元には、御主人様と呼ばれたものがいた。
次の瞬間、老人がゆっくりと目を伏せた。ヒキガエルを見た。
声はかけなかった。命じもしなかった。錫杖も動かさなかった。ただ見た。
ヒキガエルの背中が、ゆっくり持ち上がった。疣だらけの皮膚が引き伸ばされ、その隙間から黒ずんだ地肌が覗いた。折り畳まれていた太い脚が開き、ぬかるんだ土を押した。
ぬちゃり。
水気を含んだ身体が、泥から剝がれるような音がした。
ヒキガエルは老人の足元を離れ、腹を地面へ擦りつけながら、重い身体を引きずるようにして進んだ。
そして、ゆっくりと沼のほうへ向きを変えた。




