七幕 水底の珠
さちは来た道を急いだ。吉田橋を渡り、新田のほうへ戻ってゆく。先ほど三人で歩いたときには何とも思わなかった道が、今は妙に長く感じられた。
陽はまだ沈んでいない。けれど、光はもう昼のものではなかった。西から差す陽が家々の影を長く伸ばし、水田の水を白く光らせている。風も少し冷たくなっていた。
さちは何度か走り、息が苦しくなると歩いた。着物の裾が足にまとわりつき、草履の裏には湿った土がついた。そんなことは、もうどうでもよかった。
手毬。あの手毬さえ見つかればよかった。
道へ落としていれば、誰かに拾われているかもしれない。吉田橋の上で落としたのなら、転がって水へ落ちたかもしれない。そんな考えが浮かぶたび、胸の奥が冷たくなった。
やがて家並みが疎らになり、田と水路が見えてきた。さちは足を速めた。
三人でいた沼が見えた。風に葦が揺れている。傾いた陽が水面に細長く映り、波に合わせて砕けていた。
人はいなかった。太一も、みちもいない。当たり前のことなのに、先ほどまで三人で笑っていた場所に誰もいないことが、妙に寂しく感じられた。
さちは自分たちが座っていたところへ駆けていき、包みを置いたあたりに目をやった。
何もない。
「ない……」
土の上を探した。草の間を見た。葦の根元にも目を凝らしたが、見つからない。
さちはしゃがみ込み、両手で草を分けた。湿った土が指についた。それでも構わず、枯れ草の下まで探した。胸が早鐘を打ち始めた。
「どこ……」
さちは辺りを見回した。手毬を投げていたところ、太一が座っていたところ、みちが座っていたところを一つずつ目で追っていった。
少し離れた枯れ草のそばで、何かが光った。見慣れた黄金色だった。
「あった!」
さちは駆け寄った。
手毬は枯れ草の間に転がっていた。三人が立ち上がったとき、包みの上から転がり落ちたらしい。水には濡れておらず、泥もついていなかった。
さちは両手で拾い上げた。
「ああ、よかった……」
胸の奥に詰まっていたものが、一度にほどけた。
手毬を回して確かめた。黄金色の絹糸と、その中を横切る細い赤い一本。どこも傷んでいない。いつもの手毬だった。
さちは笑った。誰も見ていないのに、少し恥ずかしくなるほど嬉しかった。まつが知れば、きっと呆れるだろう。それでもよかった。見つかったのだから。
さちは手毬を持って立ち上がった。もう帰ろうと思った。
そのとき、両手がいつもの癖で動いた。長いあいだに身体が覚えてしまった遊びだった。見つかったことに安堵し、気が緩んでいた。
気づいたときには、手毬はもう掌を離れていた。ほんのわずかに上がっただけだった。いつもなら、目をつむっていても受け止められそうな高さだった。
黄金色の珠が、傾いた陽を受けて光った。
落ちてくる。
さちは両手を出した。しかし、手毬は片方の手の指先に当たった。
「あっ」
弾かれた手毬が地面へ落ち、一度跳ねた。さちは手を伸ばしたが、届かない。黄金色の珠は湿った土の上を転がっていった。
「待って」
もう一度、手を伸ばす。手毬は草を分け、そのまま低い岸を下った。
ぽちゃん。
小さな音を立てて、水へ落ちた。
さちは固まった。
「……嘘」
手毬は水面に浮いていた。黄金色の絹糸が濡れ、夕方の陽を照り返している。
さちはすぐに岸へ駆け寄った。
「こっちへ来て」
言っても仕方がないのに、そう言った。
岸へしゃがみ込み、手を伸ばしたが、届かない。指先と手毬との間に、わずかな水があるだけだった。
さちは腹這いになるように身を屈めた。湿った岸が肘の下でわずかに崩れた。これ以上身を乗り出せば、自分まで水へ落ちるかもしれない。
手毬は水の上でゆっくり回っていた。赤い筋が見えたかと思うと、次の瞬間には黄金色だけになり、さらに回ると、また赤い一本が現れた。
風が水面を撫で、手毬がほんの少し岸から離れた。
「ああ、もう」
さちは辺りを見回した。何か、手を伸ばす代わりになるものはないか。
すぐそばに細い枝が落ちていた。拾い上げて岸から差し出したが、届かない。もう少し長ければ届くのに。
さちは身を乗り出した。枝の先が水面に触れ、丸い波紋が広がった。その波に押され、手毬がまた少し向こうへ動いた。
「違う。そっちじゃない」
さちは慌てて枝を引いた。
手毬は水を吸い始めていた。初めは水面に高く浮いていた手毬が、少しずつ沈みはじめている。黄金色の下半分が水に隠れた。
「待って」
手毬に言ったのか、自分に言ったのか分からなかった。
もう一度、枝を伸ばしたが、届かない。黄金色が水面の下へ入り、揺れる水越しに見えていた手毬が、さらに沈んでいった。
沼は、岸近くではそれほど深くないように見えた。けれど、水は澄んでいなかった。底には柔らかな泥が溜まり、枯れた草の茎が沈んでいる。
手毬は濁った水の中をゆっくり落ちてゆき、やがて底にとどまった。完全に見えなくなったわけではない。水の底で、黄金色がぼんやり光っていた。
夕方の陽が斜めに差し込み、手毬の一部を照らしている。細い赤い一本も、水に揺らめきながら黄金色を横切っていた。
さちは黙って見つめた。
手を入れれば取れるだろうか。岸から伸ばしただけでは無理だった。水の中へ入らなければならない。
この辺りは、田と水路が続く低い土地だった。底の泥がどれほど深いのか、さちには分からない。浅く見えるところでも、草履のまま踏み込めば足を取られるかもしれない。着物のまま入れば、裾が泥水を吸って重くなる。
水の深いところへ近づいてはいけません。
出かける前に、まつから言われたばかりだった。一人で水へ入ってよいはずがない。
さちは別の枝を探した。先ほどより長いものを見つけ、岸から伸ばした。それでも届かなかった。
枝の先が水の中へ入り、底の泥を掻いた。水が濁った。
「あっ」
黄金色が消えた。さちは枝を止め、しばらく待った。
舞い上がった泥がゆっくりと沈んでゆく。やがて金色が再び現れた。赤い筋も、そこにあった。
見えている。すぐそこにある。それなのに、届かなかった。
さちは唇を噛んだ。自分で落としたのだ。せっかく見つけたのに、ほんの少し気をつけていればよかった。こんなところで投げなければよかった。
太一にも、沼へ落とすなと言われたばかりだった。
いったん帰ればいい。田原屋へ戻って、まつに話せばいい。奉公人を一人連れてくれば、手毬くらいすぐに取ってもらえるだろう。
それが一番よいことは、さちにも分かっていた。けれど、足が動かなかった。
水の底に黄金色が見えている。手を伸ばせば届きそうなところに、赤い一本が揺れている。
手毬なら、また作れる。田原屋には金がある。同じような黄金色の糸も求められる。今より立派な手毬を作ることだってできるだろう。
だから、今は帰ればいい。
さちは自分にそう言い聞かせた。けれど、水の底に赤い筋が見えるたび、その言葉は役に立たなくなった。
新しい手毬を作っても、あの赤い一本までは作り直せない。太一が直してくれたのは、あの一つだけだった。
それだけのことだった。それだけなのに、置いて帰ることができなかった。
あの手毬をここへ残して帰ったら、三人で何も考えずに笑っていた時間まで、水の底へ置き去りにするような気がした。
「嫌だ」
さちは呟いた。
自分で落としたのだ。自分で戻ってきたのだ。もう少しだけ試して、それでも駄目なら帰ればいい。
さちはもう一度、長い枝を握った。
そのときだった。背後で音がした。
じゃらり。




