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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第01章 鉄輪の音
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六幕 別れた後

そのあとは、近所の店のことや、手習所にいたころのことを話した。みちがこのあいだ母に叱られたこと。太一がここへ来る途中で見かけた、妙に胴の長い犬のこと。話には脈絡がなかった。一つの話が終わらないうちに別の話へ移り、誰かが笑えば、何がおかしかったのかも忘れたまま、三人で笑った。


さちは手毬を包みの上に置き、そんな話を聞いていた。何をしたのかと問われれば、何もしていない。何を話したのかと問われても、半分も思い出せないだろう。それでも、さちは三人で過ごすそんな時間が好きだった。


気づけば、陽が少し西へ傾いていた。白く光っていた沼は、いつの間にか淡い金色を帯びていた。田の畦には長い影が落ち、葦が風に揺れるたび、その影も細かく震えた。


「そろそろ帰ろう」


最初に言ったのは、みちだった。


「遅くなると叱られる」


「おみちも叱られるんじゃない」


さちが言うと、みちは笑った。


「私は誰かさんみたいに、お付きの人を振り切って来てないもの」


「振り切ってないよ」


「一緒に行くって言われたのに、断ったんでしょ」


「三人で来たかったんだから、仕方ないじゃない」


太一が立ち上がった。


「帰ろう。暗くなる前に」


三人は水辺を離れた。来たときと同じように、ぬかるんだところを避けながら歩いた。まだ水を含んでいる土を踏むと、草履の下で柔らかな感触がした。


さちは着物の裾を見た。裾には、小さな泥の跡がいくつかついていた。まつに見つかるだろうと思った。見つからないはずがない。帰ればきっと、「だから申し上げたでしょう」と言われる。眉を寄せたまつの顔まで浮かんできて、さちは一人で少し笑った。


「何?」


みちが訊いた。


「何でもない」


「変なの」


水田のあいだを抜けてゆくにつれ、人の気配が増えていった。遠くから子どもの声が聞こえた。どこかの家から夕餉の支度らしい煙が上がっている。道では、荷を担いだ男とすれ違った。


土と水の匂いは次第に薄れ、人の暮らす町の匂いが戻ってきた。三人は吉田橋のほうへ向かった。


橋へ近づくにつれて、道を行く者も多くなった。行商人が歩き、荷を運ぶ者が通る。昼ほどの賑わいではなかったが、町が静かになるにはまだ早かった。


橋を渡ったところで、さちは何となく振り返った。家々の屋根の向こうに、新田が広がっていた。けれど、さっきまでいた沼は、もう見えなかった。


「おさち」


みちに呼ばれた。


「何してるの?」


「何でもない」


さちは前を向いた。ほどなく、みちの家へ向かう道との分かれ道に来た。


「じゃあ、私はこっち」


みちが言った。


「うん」


「明日も来る?」


さちが訊いた。


「たぶん」


「たぶんって何よ」


「分からないもの。家の用があるかもしれないし」


「来てよ」


「分かった、分かった」


みちは笑った。それから太一を見た。


「もう変な怪談を仕入れてこないでね」


「別に、おみちに聞かせるために仕入れてるんじゃないよ」


「どうだか」


みちは二人に手を振った。


「じゃあね」


「またね、おみち」


さちが答えた。太一も短く声を返した。


みちは自分の家のあるほうへ歩いていった。振り返ることもなく、そのまま往来の人々の中へ紛れていった。


残ったのは、さちと太一だった。二人になったからといって、何かが変わったわけではない。太一はいつもの太一だったし、さちもいつものように話した。


けれど、みちがいなくなると、会話のあいだに静かな隙間ができた。三人なら、一人が黙っても、残る二人が話している。二人しかいなければ、一人が黙っただけで、足音ばかりが聞こえるようになる。


さちは、その静けさを嫌いではなかった。太一と並んで歩いた。道の端には午後の光が残っていた。二人の影は、来たときよりもずっと長くなっていた。


「海坊主、本当にいると思う?」


さちは訊いた。


太一が笑った。


「まだその話をしてるのか」


「太一が言い出したんでしょ」


「いるかもしれないし、いないかもしれない」


「何それ」


「見たことがないんだから、分からないよ」


「だったら、あんなに偉そうに話さなきゃいいのに」


「偉そうになんて話してないだろ」


「話してた」


「話してない」


そんなことを言い合っているうちに、太一とも別れる場所へ来た。太一の家へ向かう道と、田原屋へ戻る道が分かれている。


「じゃあな」


太一は言った。いつもと同じ言い方だった。


さちは「うん」と答えた。


太一は少し歩いてから振り返った。


「泥、ついてるぞ」


さちの裾を指さした。


「分かってる」


「おまつさんに叱られるな」


「太一には関係ない」


「そうだな」


太一は笑った。


「じゃあ」


「またね」


今度こそ、太一は自分の家のほうへ歩いていった。さちは、その背中を少しだけ見送った。


本当は、もう少し長く見ていたかった。けれど、太一がもう一度振り返ったら嫌だった。見送っていたことを知られるのが、なぜか恥ずかしかった。


だから、さちもすぐに歩きだした。道を一つ曲がるころには、太一の姿はもう家並みの向こうへ消えていた。


一人になった。田原屋までは、もう遠くない。見慣れた町だった。知っている道だった。日が暮れるまでには、十分に帰れる。


まつには、裾の泥を叱られるだろう。それから手や顔を洗わされ、夕餉になる。父がいれば顔を合わせるかもしれない。母や姉たちとも話すだろう。いつもと同じ夕方が待っている。


さちは歩いた。道にはまだ人がいた。店じまいには早く、軒先では商いが続いている。荷を担ぐ男の脇を通り過ぎた。向こうから来た女とすれ違った。


少し先では、二人の子どもが何かを追いかけながら走っていた。その姿を何となく目で追ったときだった。


さちは、ふと自分の手を見た。空だった。足が止まった。何かが足りない。そう思った次の瞬間には、もう分かっていた。


手毬。黄金色の手毬がない。


さちは両手を見た。もちろん、どちらにも持っていない。着物の袖や懐にも手をやった。ない。


一瞬、みちか太一に預けたのではないかと思った。けれど、そんな記憶はなかった。


「え……」


小さく声が漏れた。


いつまで持っていたのか。どこでなくしたのか。


さちは慌てて思い返した。沼のそばで、手毬を日の中へ何度も投げ上げた。太一が海坊主の話を始めてからは、手元へ戻していた。黄金色の中にある赤い糸を見たことも覚えている。そのあと、話をしながら、包みの上へ置いた。そこまでは思い出せた。


けれど、三人で立ち上がったときはどうだった。水田のあいだを歩いていたときは。吉田橋を渡ったときは。みちと別れたときは。太一と別れたときは。何も思い出せなかった。


持っていたような気もする。持っていなかったような気もする。


さちは振り返った。来た道が、夕方の光の中に伸びていた。沼から、それほど遠くまで来たわけではない。


このまま田原屋へ帰り、事情を話すこともできる。まつはきっと、一緒に探しに行くと言うだろう。奉公人の誰かをつけるかもしれない。もう夕方だから、探すのは明日にしなさいと言われるかもしれない。


それは嫌だった。あの手毬を、一晩でも外へ置いておきたくなかった。夜露に濡れるかもしれない。雨が降るかもしれない。誰かに拾われるかもしれない。何より、あの手毬だけは、ほかのものでは代えられなかった。


太一を追いかけようにも、もう姿は見えなかった。みちと別れた場所まで戻るより、自分で引き返したほうが早い。家へ戻って人を呼ぶよりも、そのほうが早い。


最後に置いたことを覚えているのは、沼のほとりだった。そこを見ればいい。見つけたら、すぐに帰ればいい。まだ明るい。遠くもない。


さちは一度、田原屋のあるほうを見た。それから身体の向きを変えた。


来た道を、今度は一人で引き返した。


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