六幕 別れた後
そのあとは、近所の店のことや、手習所にいたころのことを話した。みちがこのあいだ母に叱られたこと。太一がここへ来る途中で見かけた、妙に胴の長い犬のこと。話には脈絡がなかった。一つの話が終わらないうちに別の話へ移り、誰かが笑えば、何がおかしかったのかも忘れたまま、三人で笑った。
さちは手毬を包みの上に置き、そんな話を聞いていた。何をしたのかと問われれば、何もしていない。何を話したのかと問われても、半分も思い出せないだろう。それでも、さちは三人で過ごすそんな時間が好きだった。
気づけば、陽が少し西へ傾いていた。白く光っていた沼は、いつの間にか淡い金色を帯びていた。田の畦には長い影が落ち、葦が風に揺れるたび、その影も細かく震えた。
「そろそろ帰ろう」
最初に言ったのは、みちだった。
「遅くなると叱られる」
「おみちも叱られるんじゃない」
さちが言うと、みちは笑った。
「私は誰かさんみたいに、お付きの人を振り切って来てないもの」
「振り切ってないよ」
「一緒に行くって言われたのに、断ったんでしょ」
「三人で来たかったんだから、仕方ないじゃない」
太一が立ち上がった。
「帰ろう。暗くなる前に」
三人は水辺を離れた。来たときと同じように、ぬかるんだところを避けながら歩いた。まだ水を含んでいる土を踏むと、草履の下で柔らかな感触がした。
さちは着物の裾を見た。裾には、小さな泥の跡がいくつかついていた。まつに見つかるだろうと思った。見つからないはずがない。帰ればきっと、「だから申し上げたでしょう」と言われる。眉を寄せたまつの顔まで浮かんできて、さちは一人で少し笑った。
「何?」
みちが訊いた。
「何でもない」
「変なの」
水田のあいだを抜けてゆくにつれ、人の気配が増えていった。遠くから子どもの声が聞こえた。どこかの家から夕餉の支度らしい煙が上がっている。道では、荷を担いだ男とすれ違った。
土と水の匂いは次第に薄れ、人の暮らす町の匂いが戻ってきた。三人は吉田橋のほうへ向かった。
橋へ近づくにつれて、道を行く者も多くなった。行商人が歩き、荷を運ぶ者が通る。昼ほどの賑わいではなかったが、町が静かになるにはまだ早かった。
橋を渡ったところで、さちは何となく振り返った。家々の屋根の向こうに、新田が広がっていた。けれど、さっきまでいた沼は、もう見えなかった。
「おさち」
みちに呼ばれた。
「何してるの?」
「何でもない」
さちは前を向いた。ほどなく、みちの家へ向かう道との分かれ道に来た。
「じゃあ、私はこっち」
みちが言った。
「うん」
「明日も来る?」
さちが訊いた。
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「分からないもの。家の用があるかもしれないし」
「来てよ」
「分かった、分かった」
みちは笑った。それから太一を見た。
「もう変な怪談を仕入れてこないでね」
「別に、おみちに聞かせるために仕入れてるんじゃないよ」
「どうだか」
みちは二人に手を振った。
「じゃあね」
「またね、おみち」
さちが答えた。太一も短く声を返した。
みちは自分の家のあるほうへ歩いていった。振り返ることもなく、そのまま往来の人々の中へ紛れていった。
残ったのは、さちと太一だった。二人になったからといって、何かが変わったわけではない。太一はいつもの太一だったし、さちもいつものように話した。
けれど、みちがいなくなると、会話のあいだに静かな隙間ができた。三人なら、一人が黙っても、残る二人が話している。二人しかいなければ、一人が黙っただけで、足音ばかりが聞こえるようになる。
さちは、その静けさを嫌いではなかった。太一と並んで歩いた。道の端には午後の光が残っていた。二人の影は、来たときよりもずっと長くなっていた。
「海坊主、本当にいると思う?」
さちは訊いた。
太一が笑った。
「まだその話をしてるのか」
「太一が言い出したんでしょ」
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
「何それ」
「見たことがないんだから、分からないよ」
「だったら、あんなに偉そうに話さなきゃいいのに」
「偉そうになんて話してないだろ」
「話してた」
「話してない」
そんなことを言い合っているうちに、太一とも別れる場所へ来た。太一の家へ向かう道と、田原屋へ戻る道が分かれている。
「じゃあな」
太一は言った。いつもと同じ言い方だった。
さちは「うん」と答えた。
太一は少し歩いてから振り返った。
「泥、ついてるぞ」
さちの裾を指さした。
「分かってる」
「おまつさんに叱られるな」
「太一には関係ない」
「そうだな」
太一は笑った。
「じゃあ」
「またね」
今度こそ、太一は自分の家のほうへ歩いていった。さちは、その背中を少しだけ見送った。
本当は、もう少し長く見ていたかった。けれど、太一がもう一度振り返ったら嫌だった。見送っていたことを知られるのが、なぜか恥ずかしかった。
だから、さちもすぐに歩きだした。道を一つ曲がるころには、太一の姿はもう家並みの向こうへ消えていた。
一人になった。田原屋までは、もう遠くない。見慣れた町だった。知っている道だった。日が暮れるまでには、十分に帰れる。
まつには、裾の泥を叱られるだろう。それから手や顔を洗わされ、夕餉になる。父がいれば顔を合わせるかもしれない。母や姉たちとも話すだろう。いつもと同じ夕方が待っている。
さちは歩いた。道にはまだ人がいた。店じまいには早く、軒先では商いが続いている。荷を担ぐ男の脇を通り過ぎた。向こうから来た女とすれ違った。
少し先では、二人の子どもが何かを追いかけながら走っていた。その姿を何となく目で追ったときだった。
さちは、ふと自分の手を見た。空だった。足が止まった。何かが足りない。そう思った次の瞬間には、もう分かっていた。
手毬。黄金色の手毬がない。
さちは両手を見た。もちろん、どちらにも持っていない。着物の袖や懐にも手をやった。ない。
一瞬、みちか太一に預けたのではないかと思った。けれど、そんな記憶はなかった。
「え……」
小さく声が漏れた。
いつまで持っていたのか。どこでなくしたのか。
さちは慌てて思い返した。沼のそばで、手毬を日の中へ何度も投げ上げた。太一が海坊主の話を始めてからは、手元へ戻していた。黄金色の中にある赤い糸を見たことも覚えている。そのあと、話をしながら、包みの上へ置いた。そこまでは思い出せた。
けれど、三人で立ち上がったときはどうだった。水田のあいだを歩いていたときは。吉田橋を渡ったときは。みちと別れたときは。太一と別れたときは。何も思い出せなかった。
持っていたような気もする。持っていなかったような気もする。
さちは振り返った。来た道が、夕方の光の中に伸びていた。沼から、それほど遠くまで来たわけではない。
このまま田原屋へ帰り、事情を話すこともできる。まつはきっと、一緒に探しに行くと言うだろう。奉公人の誰かをつけるかもしれない。もう夕方だから、探すのは明日にしなさいと言われるかもしれない。
それは嫌だった。あの手毬を、一晩でも外へ置いておきたくなかった。夜露に濡れるかもしれない。雨が降るかもしれない。誰かに拾われるかもしれない。何より、あの手毬だけは、ほかのものでは代えられなかった。
太一を追いかけようにも、もう姿は見えなかった。みちと別れた場所まで戻るより、自分で引き返したほうが早い。家へ戻って人を呼ぶよりも、そのほうが早い。
最後に置いたことを覚えているのは、沼のほとりだった。そこを見ればいい。見つけたら、すぐに帰ればいい。まだ明るい。遠くもない。
さちは一度、田原屋のあるほうを見た。それから身体の向きを変えた。
来た道を、今度は一人で引き返した。




