五幕 最近現れた「海坊主」
「それ、沼に落とすなよ」
太一が言った。
「分かってる」
「落としたら取れないぞ」
「そんなところまで投げないもの」
さちは手毬を胸元へ戻した。
太一は何とはなしに沼のほうを眺め、それから言った。
「そういえばさ」
その言い方を、さちは知っていた。
太一が、どこかで妙な噂を仕入れてきたときの言い方だった。
「今度は何?」
みちが訊いた。
太一は二人の顔を見た。すぐには答えず、少し間を置いた。
「海坊主が出るんだってさ」
さちは沼を見た。
海坊主というものなら知っていた。海の荒れる夜、黒い入道のようなものが水の上へぬうっと現れ、舟を脅かす。ときには舟よりも大きく、顔があるのかどうかさえ分からないという。
「あの、海に出るっていう?」
思わず訊くと、太一は首を振った。
「いや。海に出るやつとは違う」
「だったら海坊主じゃないじゃない」
みちがすぐに言った。
「俺がつけた名前じゃないよ」
「どんなものなの?」
太一は少し声を落とした。
「爺さんなんだって」
みちは眉を寄せた。
「お爺さん?」
「痩せた坊主の爺さん」
「それだけ?」
「まだあるよ」
太一は沼の縁へ目を向けた。
葦が風に揺れていた。水面には白い雲が薄く映っている。少し離れた道を、人が一人歩いていった。
怪談をするには、あまりにも明るい昼だった。
「港のほうや、新田のあたりで見た者がいるんだって。古びた墨染めの衣を着て、ひどく痩せている。背を丸めて、ゆっくり歩いているらしい」
「普通のお坊さんじゃないの?」
さちが言った。
「普通じゃないんだって」
「何が?」
「近くへ来ると、海の匂いがする」
さちは鼻を鳴らした。
「ここなら海の匂いくらいするでしょう」
「だから、それだけじゃないんだよ」
太一は言った。
「錆びた鉄の臭いもするんだってさ」
「鉄?」
「古い釘を濡らしたときみたいな臭いだって」
みちは顔をしかめた。
「嗅ぎたくない」
「それから、錫杖を持っている」
太一は片手を前へ出し、杖を握る真似をした。
「頭のところに、鉄の輪が三つついている。けれど、普通の坊さんみたいに地面を突いて歩くんじゃない。先を少し引きずって歩くんだって」
太一の手が、土の上をゆっくり動いた。
「そうすると――」
少し間を置いた。
「じゃらり」
風が吹いた。
枯れた葦が、かさかさと擦れ合った。
「じゃらり」
太一がもう一度言った。
「歩くたびに、そんな音がするらしい」
さちは太一の手元を見た。
そこには何もなかった。ただ太一が指を曲げ、見えない錫杖を握っているだけだった。
「それで?」
みちが訊いた。
太一は肩をすくめた。
「何をするのかは知らない」
「ええ?」
みちは声を上げた。
「何それ」
「何それって、話はまだあるよ」
「人を食べるとかじゃないの?」
「知らない」
「海へ引きずり込むとか」
「そんな話は聞いてない」
「祟られるとか」
「それも知らない」
みちは呆れた顔をした。
「全然怖くないじゃない」
さちも笑った。
たしかに、今のところは怖くなかった。
痩せた老人が歩いている。潮と錆びた鉄の臭いがする。錫杖を引きずり、歩くたびに、じゃらりと鳴る。
それだけだった。
「それなら、ただのお坊さんじゃない」
さちが言うと、太一は少しむきになった。
「だから違うんだって。変なのは、誰にでも見えるわけじゃないところなんだよ」
みちの笑いが止まった。
「どういうこと?」
「同じ場所に二人でいたのに、一人には見えて、もう一人には見えなかったって話があるんだって」
「見えた人が嘘をついたんじゃなくて?」
「すぐそこを歩いていたらしい。見えたほうが、あそこに坊主がいるって言っても、隣にいた者には何も見えなかった」
「どこかへ隠れたんじゃないの?」
「目の前を歩いているのに?」
太一は少し身を乗り出した。
「姿は見えないのに、音だけ聞いた者もいるらしい」
「じゃらりって?」
「そう」
みちは沼の向こうを見た。
さちもつられて目をやった。
陽の光が水面で細かく揺れている。田の向こうには家並みがあり、道には人の姿もあった。遠くから荷車の軋む音が聞こえてくる。
どこにも、僧形の老人などいなかった。
これほど明るい昼の中にいると、太一がまた誰かに担がれたのではないかと思えてくる。
「誰が見たの?」
さちが訊いた。
「いろんな奴」
「だから、誰?」
「港で働いている奴が見たとか、新田の者が見たとか。俺も人から聞いたんだから、名前までは知らないよ」
「ほら」
みちが言った。
「やっぱり嘘だ」
「嘘とは限らないだろ」
「太一は見たの?」
「見てない」
「ほら」
「俺が見てないからって、いないとは限らないだろ」
みちは笑った。
太一は少し不満そうな顔をした。さちも笑った。
けれど、一つだけ気になった。
「海坊主なら、昔からいるんじゃないの?」
太一は首を振った。
「この爺さんの話が出てきたのは、最近なんだってさ」
「最近って?」
「ここ一年か二年くらい」
「昔からいる海坊主とは違うのね」
「だから、最初からそう言ってるだろ」
誰が最初に見たのかは分からない。
なぜ海坊主と呼ばれるようになったのかも分からない。海から現れたという話さえなかった。
潮の匂いをまとい、僧の姿をしている。
それだけのことで、いつの間にか誰かが海坊主と呼び始めたらしい。
「名前まで適当なのね」
みちが言った。
「たぶんな」
「ますます怖くない」
「出会っても平気なんだな」
「平気よ。ただのお爺さんなんでしょう?」
「見えても逃げるなよ」
「逃げないよ」
「音だけしても?」
太一が見えない錫杖を引いた。
「じゃらり」
みちは声を立てて笑った。
「それ、やめて。太一が言うと、ますます怖くなくなる」
「なんだよ」
さちも笑った。
太一は納得がいかないような顔をしていたが、やがて自分でも笑いだした。
葦の向こうでは、蛙が鳴いていた。
道のほうからは、荷車の車輪が軋む音が聞こえてくる。風が水の上を渡り、葦を揺らした。
三人の笑い声も、やがて春の昼の音の中へ紛れていった。




