四幕 吉田新田の沼
三人が十三になった年の春。朝から空はよく晴れていた。
海のほうから吹いてくる風には、まだ冷たさが残っていた。それでも日の当たる場所は暖かく、家の中にいるのが惜しくなるような陽気だった。
昼餉を済ませたころ、太一が田原屋へやって来た。少し遅れて、みちも来た。
三人でどこかへ行こうということになった。
太一が西のほうへ行こうと言い、みちが賛成した。さちも行くと言った。行き先を決めたのは、それだけのことだった。
「お嬢様、どちらへいらっしゃるのです」
裏口から出ようとしたところで、まつに見つかった。
「ちょっと行ってくるだけ」
「ちょっととは、どちらまででございますか」
「吉田橋の向こう」
さちが答えると、まつの顔が曇った。
「新田のほうでございますか」
「そう」
「おやめになったほうがよろしゅうございますよ」
「どうして」
「昨日までの雨で、あちらはまだぬかっておりましょう。お履物も裾も、泥だらけになってしまいます」
田原屋のあるあたりでは、道はもう乾きはじめていた。けれど、低い新田へ出れば、水の引かない場所もあるだろう。
「汚さないから」
「そうおっしゃって、汚さずにお戻りになったためしがございません」
「今日は大丈夫」
「では、私も参ります」
まつは当然のように言った。
さちはすぐに首を振った。
「来なくていい」
「ですが――」
「遠くまで行くわけじゃないよ」
「遠い近いのことを申しているのではございません。水のあるところへいらっしゃるのでしょう」
「入ったりしないもの」
「お嬢様はそうおっしゃってから――」
「三人だけで行きたいの」
さちは少し声を低くした。
まつは困ったように、さちの後ろへ目をやった。
みちは何も知らないような顔で、往来のほうを眺めていた。太一も黙っている。二人が口を挟めば、かえって話が長くなるだけだった。
まつはため息をついた。
「遠くへいらしてはいけませんよ」
「行かない」
「水の深いところへ近づいてもいけません」
「分かってる」
「お嬢様はいつも分かっているとおっしゃって――」
「分かったってば」
まつの言葉が終わらないうちに、さちは外へ出た。
みちが口元を押さえていた。
「おまつさんに叱られてる」
「叱られてない」
「叱られてたじゃない」
太一が先に歩きだした。
「早く行こう。あまり遅いと、本当におまつさんが追ってくるぞ」
「追ってこないよ。来なくていいって言ったもの」
「おまつさんも苦労ばかりね」
みちが笑った。
「おみちまで何よ」
三人は西へ向かった。
開港場の西の端に架かる吉田橋を渡ると、町の姿が変わった。
軒を連ねる店も、荷車の音も、行き交う人々の声も、歩くほどに遠ざかっていった。家々の間が広くなり、新しい家の普請が始まった土地の隣には、水を張った田が残っている。道に沿って流れる水路は途中で幾筋にも分かれ、低い土地を縫うように延びていた。
新しい町と、昔からの田と、水の淀む場所とが、まだ入り交じっていた。
昨日までの雨は、あちこちに残っていた。土は黒く湿り、葦の根元には濁った水が溜まっている。
三人は畦に沿う細道を歩いた。
「ほら」
太一が足元を示した。
「まだ乾いてない」
畦の脇を踏むと、湿った土が柔らかく沈んだ。
「おまつさんの言ったとおりじゃない」
みちが笑った。
「平気だもの」
さちは乾いたところを選びながら歩いた。
「転んだら、おまつさんに言いつけてやろう」
「どうしておみちが言いつけるのよ」
「叱られるところを見たいから」
「おみちだって泥だらけになれば、家で叱られるでしょう」
「私は転ばないもの」
「今に転ぶよ」
太一が振り返った。
「二人とも、そこは柔らかいぞ」
そう言った直後、みちの足が泥へ沈んだ。
「あっ」
さちは声を上げて笑った。
「ほら」
「転んでないから」
「でも沈んだ」
「転んでない」
「おまつに言おう」
「どうして田原屋のおまつさんに、私が叱られなきゃならないのよ」
太一が笑った。
その笑いにつられて、さちも笑った。
三人が足を止めたのは、田の間を通る水路が途中で曲がり、その先で不格好に広がっている場所だった。
池というには形が崩れすぎていた。
沼と呼ぶほうが近かった。
岸は低く、黒い土が緩やかに水へ沈んでいる。水際には葦が生え、去年の枯れ草が、半ば泥に埋もれたまま倒れていた。
雨のあとだからか、水は薄く濁っていた。それでも表面だけは明るい空を映し、白みを帯びた春の色をしていた。
風が渡ると、水面に細かな皺が走った。葦の茎が擦れ合った。どこかで蛙が一つ鳴き、少し間を置いて、別の蛙が応えた。
遠くには家の屋根が見え、人の呼び交わす声も聞こえていた。
それなのに、そこだけは人の暮らしから取り残されているようだった。
三人は沼のそばに腰を下ろした。
さちは持ってきた包みを膝の上に置いた。
「それ、持ってきたのか」
太一が言った。
包みの形だけで分かったらしい。
「うん」
さちは包みを解き、黄金色の手毬を取り出した。
午後の陽が絹糸に触れた。黄金色の中に入った細い赤が、光を受けて一瞬だけ浮かび上がった。
「まだ持ってるんだな」
さちは太一を見た。
「当たり前でしょう」
「いや、別に」
太一は水のほうへ顔を向けた。
さちは両手で手毬を持ち、軽く上へ放った。
金色の珠が、淡い春の空へ昇った。
落ちてくる。
両手で受け止める。
もう一度、投げた。
今度は少し高く。
光を受けた手毬が、空の中でゆっくりと回った。黄金色に紛れていた赤い一本が現れ、すぐにまた見えなくなった。
手毬が落ちてくる。
さちは受け止めた。
太一が見ていた。
みちも見ていた。
水辺を渡る風が、さちの髪を揺らした。少し離れた沼では、薄く濁った水が小さく波打っていた。
金色の珠が上がる。
落ちる。
さちの手へ戻る。
そのたびに、赤い一本の糸が、春の光の中をひらめいた。




