三幕 黄金色の手毬
太一を好きなのだと気づいたころ、さちには大切にしている手毬があった。
上等な絹糸でかがられた、黄金色の手毬だった。両の手に収まるほどの大きさで、日の下へ持ち出すと、細い絹糸の一本一本が光を拾った。転がせば光も一緒に転がり、投げ上げれば、一瞬だけ空に金の珠が浮かんだように見えた。
さちは、それが嬉しくて仕方がなかった。
港が開かれてから数年が過ぎ、町には遠国から人や品物が流れ込んでいた。田原屋でも生糸を扱う量が増え、父は朝から晩まで忙しく働いていた。黄金色の手毬は、そんな田原屋の末娘にふさわしい、贅沢な玩具だった。
誰にもらったものだったのか、さちは覚えていなかった。父だったような気もする。母だったかもしれない。
幼いさちにとって、誰が買い、どこから持ってきたのかは大したことではなかった。大切なのは、その美しい手毬が自分のものだということだった。
晴れた日には外へ持ち出した。座敷で転がして叱られたこともあった。姉たちに勝手に触られて怒ったこともある。みちにも貸したし、太一ともよく遊んだ。
互いの家の違いを、大人たちほどには気にしていなかった。太一が武家の子であることも、さちが商家の娘であることも、遊んでいるあいだは大したことではなかった。
三人の中で誰が偉いかといえば、足の速い者だった。高い枝まで登れる者だった。転んでも最後まで泣かなかった者だった。それくらいのものだった。
ある日、みちはいなかった。家の用でもあったのかもしれない。さちは理由を訊いたはずだが、覚えていなかった。
さちと太一は、二人で黄金色の手毬を投げ合っていた。
さちが投げ、太一が受ける。太一が投げ、さちが受ける。
最初は近くから投げていた。うまく受けられると、少しずつ距離を広げた。もっと遠くへ。もっと高く。二人とも、できると分かれば、すぐその先を試したくなった。
「もっと遠くから」
さちが言ったのか、太一が言ったのか、あとで思い返しても分からなかった。
太一が数歩下がった。
手毬を持つ腕を大きく振り、勢いよく投げた。
少し、力が入りすぎた。
黄金色の手毬はさちの頭上を越えた。
「あっ」
さちが振り返ったときには、もう遅かった。
手毬は竹垣へ飛び、竹垣の上から突き出ていた、裂けた竹の細い先へ引っ掛かった。金の珠が、竹垣の上でぶらぶらと揺れた。
さちは駆け寄った。太一も駆け寄った。
太一が手を伸ばしたが、届かなかった。さちも何度か跳ねてみた。指先は手毬の下を掠めるばかりだった。
二人は近くにあった細い棒を持ってきて、下から手毬を突いた。右から押し、左から押し、何度も竹垣を揺らした。
やがて手毬は竹の先から外れ、太一の伸ばした両手の中へ落ちた。
さちはすぐに受け取った。
手毬は、もう先ほどまでと同じではなかった。
表をかがっていた黄金色の絹糸が、一か所だけ切れていた。裂けた竹に引っ掛かったところから、細い糸がわずかに浮いていた。
ほんの小さな傷だった。大人なら、その程度のことだと思ったかもしれない。
けれど、さちにとっては大変なことだった。
自分の大切な金の珠が、壊れてしまった。
さちは泣いた。手毬を胸に抱え、声を上げて泣いた。太一が何を言っても、泣きやまなかった。
「直すから」
太一が言った。
さちは涙で濡れた顔を上げた。
「同じにして」
「する」
「絶対?」
「絶対」
太一は迷わず答えた。
子供同士の約束だった。それでも、そのときのさちには、どんな約束よりも大切なものだった。
太一は手毬を持って帰った。
田原屋へ戻ってからも、さちの機嫌は直らなかった。夕餉のときにも手毬のことを考えていた。
もう元には戻らないのではないか。あの艶のある黄金色の中に、傷が残ってしまうのではないか。
そう思うと、また涙が出そうになった。
翌日、太一が田原屋へやって来た。
両手で手毬を持っていた。
遠くから見れば、昨日までと同じだった。さちは太一のもとへ駆け寄り、手毬を受け取った。それから、傷のあったところを探した。
そこには、細い赤い筋が走っていた。
黄金色の絹糸の中を、一筋だけ赤い糸が横切っている。
さちは黙って、その赤い筋を見た。
「同じ色じゃなくなった」
太一が言った。
太一の家には、同じような黄金色の絹糸がなかった。もともと裕福な家ではない。子供の手毬を直すためだけに、似た色の上等な糸をわざわざ求められるような暮らしでもなかった。
「家の者に頼んだけど、これしかなかった」
太一は、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。
昨日、直すと言った。同じにすると約束した。けれど、同じにはできなかった。
赤い筋は、ほんの少しだった。遠くからでは分からない。けれど、一度見つけてしまえば、どこにあるのかすぐに分かった。
太一は、さちがまた泣き出すと思っているらしかった。
さちは指先で赤い糸を撫でた。
昨日まではなかった色だった。黄金色だけだった手毬に、一筋だけ別の色が入っている。
妙にきれいだと思った。
傷を隠しているのではなかった。そこが一度切れ、誰かの手で直されたことを、赤い糸は隠さずに残していた。
「これでいい」
さちが言うと、太一は顔を上げた。
「いいの?」
「うん」
さちは、もう一度赤い筋を撫でた。
「こっちのほうがいい」
太一はしばらくさちの顔を見ていた。それから、ようやく笑った。
太一の笑った顔を見た途端、さちの胸の中が温かくなった。
少し前までなら、そんなことは気にしなかったかもしれない。手毬が直ったことだけを喜び、すぐにまた遊びはじめていただろう。
けれど、今のさちは、自分が太一を好きなのだと知っていた。
だから、赤い筋まで特別なものに見えた。
だからといって、これは恋の証ではなかった。太一は、さちの気持ちを知らない。さちも何も話していない。
太一は、自分が壊した手毬を持ち帰り、家の者に頼んで直してもらった。昨日した約束を守った。ただ、それだけだった。
さちには許嫁がいた。いつか田原屋を出て、その家へ嫁ぐことも決まっていた。赤い糸が一本増えたからといって、その先のことが変わるわけではない。
それでも、さちは新しい手毬を欲しいとは思わなかった。
田原屋には、太一の家より多くの金があった。父に頼めば、もっと立派な手毬を買ってもらえたかもしれない。黄金色の糸を求め、赤いところをほどいて、もとの色に直すこともできただろう。
けれど、この一つでなければならなかった。
太一が持ち帰り、直して返してくれた手毬だった。黄金色の中に残った赤い筋まで含めて、さちの手毬になった。
どれほど田原屋に金があっても、どれほど高価な糸を求めることができても、太一が約束を守って残した、あの赤い一本だけは、金では買えなかった。




