二幕 初恋
さちは太一が好きだった。それだけは分かっていた。
けれど、いつから好きだったのかと訊かれたら、答えられなかった。ある日、突然そうなったわけではない。太一を見た途端、胸の中で何かが鳴ったわけでもなかった。
あまりにも昔から、太一がそばにいた。
手習所へ通う道で、どちらの字がうまいかと言い争った太一。道端で転び、膝を擦りむいたのに、痛くないと言い張った太一。みちと二人でさちを置いて走ってゆき、それを追いかけたさちが怒って、三人で喧嘩になった日のこと。夏の暑い日に木陰へ逃げ込み、三人で膝を並べて座ったこと。
何を話したのかは覚えていない。それなのに、そのとき太一が笑っていた顔だけは、妙にはっきりと残っていた。
太一のことを考えると、そうしたものが順序もなく浮かんできた。一つ思い出せば、その前の出来事が出てくる。さらに前を辿れば、もっと小さかったころの太一がいる。
どこまで遡っても、太一がいた。
だから、どこまでが幼馴染で、どこからが好きな相手なのか、さち自身にも分からなかった。
もっと幼いころには、好きか嫌いかなど考えもしなかった。みちがいて、太一がいて、自分がいる。三人でいることに理由などなかった。
外へ出れば、どちらかがいた。しばらくすれば三人になった。それだけのことだった。
けれど、いつのころからか、みちを待つのと太一を待つのとでは、少し違うようになった。
みちが来なければ、つまらないと思った。太一が来なければ、胸の内側が落ち着かなかった。何か用があるわけでもないのに、何度も往来のほうを見る。足音が聞こえるたびに顔を上げ、違う人だと分かると、また下を向いた。
三人で歩いているときにも、太一が何を見ているのか気になった。太一がみちとばかり話していると、胸のあたりが熱くなり、わけもなく腹が立った。
自分でもおかしいとは思った。みちは幼馴染なのだから、太一と話すのは当たり前だった。さちだって、太一を置いて、みちと話し込むことはいくらでもある。
それなのに、二人が楽しそうに笑っていると、黙っていられないことがあった。
「今日はずいぶん楽しそうね」
口に出した途端、意地の悪い言い方になったと分かった。
みちが不思議そうにさちを見た。
「何よ、おさち」
「何でもない」
さちは顔を背けた。何でもないと言ったくせに、自分だけ仲間外れにされたような気がして、ますます不機嫌になった。
そういうとき、みちには何もかも見抜かれているように思えた。みちはしばらくさちの顔を眺めたあと、何も言わずに笑うことがあった。その笑い方が恥ずかしくて、さちはいっそうむすっとした。
ただ、ときどき、太一にも似たようなところがあるのではないかと思うことがあった。
三人でいるのに、最初にさちの名を呼ぶことがある。みちと別れたあと、太一の家とは違う方角なのに、そのままさちと同じ道を歩いてくることもあった。
「太一は、こっちじゃないでしょう」
さちが言うと、太一は前を向いたまま答えた。
「まだいいだろ」
何がまだよいのかは言わなかった。さちも訊かなかった。
田原屋の近くで、さちが同じ年ごろの少年と話していたときには、あとから太一に呼び止められたことがあった。
「あれ、誰だ」
「知っている子だけど。どうして?」
「別に」
太一はそれきり黙ってしまった。
そういうことがあると、さちは少しだけ期待した。
もしかすると。
そこまで考えて、すぐにやめた。
太一が何を思っているのかなど、分からなかった。昔からの幼馴染だから気にかけているだけかもしれない。さちが勝手に意味をつけているだけかもしれなかった。
それに、もし本当に太一も同じ気持ちだったら、今までどおりではいられなくなるような気がした。
みちに知られるかもしれない。太一と顔を合わせるたびに、何を話せばよいのか分からなくなるかもしれない。三人で遊んでいても、それまでとは違うことを考えてしまうかもしれない。
それは嫌だった。
だから、さちは確かめなかった。
自分が太一を好きなのだと、いつ認めたのかも覚えていない。気づいたときには、もうそうなっていた。
そして、好きだからといって、太一と夫婦になれるわけではないことも、さちは知っていた。
さちには許嫁がいた。父が決めた相手だった。田原屋と釣り合う商家の息子である。
そのことを初めて母から聞かされたとき、さちはまだ十にもなっていなかった。おまえはいずれ、その家へ嫁ぐのだと言われた。
すぐに嫁へゆくわけではない。明日にでも婚礼を挙げるという話ではなかった。大人たちも、先のことだと言っていた。
だから普段は、考えずにいられた。
朝になれば起きて、飯を食べ、姉たちと話す。気に入らないことがあれば頬をふくらませる。みちや太一が来れば、すぐに外へ出た。
父も母も、急にさちを余所の家の娘のように扱ったりはしなかった。さちは今までどおり、田原屋の末娘だった。
けれど、ずっと先には、すでに決められたことが待っていた。
いつかは許嫁の妻になり、田原屋を出て、その家で暮らす。
さちには、嫁ぐということのすべては分からなかった。ただ、今までと同じではいられなくなることだけは分かった。
その先に、太一はいなかった。
今のように、何の用もなく顔を合わせることはなくなる。太一が田原屋の脇からやって来ても、すぐに外へ飛び出すことはできなくなる。みちを交えて三人で歩くことも、道端で何かを見つけ、どうでもよいことで言い争うこともなくなる。
いつか終わる。
その「いつか」がいつなのかは、まだ分からなかった。
考えたくなかった。
許嫁を嫌っているのかと訊かれても、それもよく分からなかった。相手の顔さえ、さちはよく覚えていなかった。嫌うほど、その少年のことを知らなかった。
父がさちを厄介払いするために決めた縁ではないことも分かっていた。父はさちを可愛がっていた。きっと、娘が大きくなってから困らないように、相手を選んだのだろう。
それが分かるから、なおさら困った。
父を嫌いにはなれない。許嫁の少年を嫌うこともできない。誰も、さちを泣かせようとしているわけではなかった。
それなのに、さちは少しも嬉しくなかった。
その理由だけは、はっきりしていた。
太一が好きだから。
ただ、それだけだった。
けれど、それを誰かに言ったところで、何が変わるのだろう。
太一が武家の子で、さちが町人の娘だったころから、二人の家は同じではなかった。将軍の世が終わってからは、その違いの形が変わった。太一の家からは物が減り、田原屋には人と荷が集まるようになった。
三人で歩く道は同じなのに、その先まで同じではないらしい。
それだけは、幼いさちにも分かった。
だから、考えないことにしていた。
今日すぐに、何かが終わるわけではない。明日も太一に会える。その次の日も、きっと会える。みちもいる。三人で遊べる。
それなら、それでよかった。
もし太一も、さちを少しだけ特別に思っているのだとしても、今は確かめなくてよかった。何も知らないままなら、三人で笑っていられる。
先のことなど、来なければよい。
今日と同じ日が、同じところをぐるぐる回っていればよい。
春が終わって夏になり、秋が来て、冬になって、また春が来ても、自分たちだけは今の背丈のままでいられたらよい。
そんなことができないことくらい、さちにも分かっていた。だから誰にも言わなかった。口にすれば、太一には笑われ、みちには馬鹿だと言われるだろう。
それでも、ずっと考えずに済めばよいと思った。
未来のことも。許嫁のことも。太一が自分をどう思っているのかも。
何も決めないまま、今日と同じ明日が来ればよい。
そう願いながら、さちは結局、太一のことばかり考えていた。




