一幕 三人の幼馴染
すべてのはじまりは、太一だった。
さちには、二人の幼馴染がいた。太一と、みちである。三人は同じ年に生まれ、家もそう遠く離れていなかった。まだ十にもならないころから、朝になれば互いの家を行き来していた。
さちの家は田原屋という商家で、太一の家は武家だった。みちの家もまた、近所の商家である。
みちの家は茶を商っていた。各地から運ばれてくる茶を買い集め、品を見定め、海の向こうから来た商人たちの商館へ売り込んでいた。田原屋ほどの身代ではなかったが、蔵と奉公人を抱えた、近所では誰もが知る大店だった。
幼い三人にとって、そうした家の違いは、さほど大きな意味を持たなかった。
朝になれば、同じ手習所へ向かった。帰りも、いつの間にか三人一緒になっていた。字をうまく書けた者は紙を見せて自慢し、書き損じた者がいれば二人で笑った。師匠に叱られた帰りには、しばらく三人とも神妙な顔をしていたが、角を一つ曲がるころには、もう別の話をしていた。
道端に見たことのない虫がいれば立ち止まった。木に実がなっていれば、手が届くか試した。誰がいちばん速く走れるか。誰が高い枝まで登れるか。誰が遠くまで石を投げられるか。三人にとっては、そんなことのほうが家柄よりも大事だった。
いちばん負けず嫌いなのは太一だった。さちが先に木へ登れば、必ずあとから登ってきた。自分のほうが高いところまで行けると言い張り、本当に上まで行ってしまう。そうして今度は下りられなくなることもあった。
あるときも、太一は高い枝にしがみついたまま動けなくなった。
みちは木の下から見上げて笑った。
「太一、馬鹿じゃないの」
「笑ってないで、どうにかしろよ」
太一は幹に頬を押しつけたまま怒った。
「自分で登ったんでしょう」
「おみちがもっと行けって言ったんだろ」
「言ったけど、本当に行くとは思わなかった」
さちが声を立てて笑うと、太一は枝の上から睨んだ。
「おさちまで笑うなよ」
それがおかしくて、さちはますます笑った。
三人で遊んでいれば、そんなことばかりだった。喧嘩もよくした。
太一とさちが言い合いになれば、みちが止めに入った。だが、たいていは途中からどちらかの味方をして、かえって喧嘩を大きくした。さちとみちが喧嘩をすると、太一は面白そうに眺めていた。それで二人から同時に怒られた。三人まとめて大人に叱られたことも、一度や二度ではなかった。
それでも、翌日になればまた一緒にいた。
そのころの太一の家は、裕福ではなかった。江戸の世には武家で、父親は下級の役目に就いていた。港が開かれてからは、開港場を治める役所に関わる仕事をすることもあり、その縁で田原屋の主人とも以前から顔を合わせていた。
大人たちにとって、太一の家と田原屋は同じではなかった。太一は武家の子で、さちは町人の娘だった。
さちが太一の家へ行くときには、幼いなりの行儀を言い聞かされた。田原屋の者も、太一の父には相応の礼を尽くした。太一も家の中では、口の利き方や座り方について何かと教えられているらしかった。
けれど、三人だけになると、そんな違いはすぐに消えた。
「おさち、遅い」
先を走る太一が振り返って言った。
「太一が勝手に走ったんでしょう」
さちも負けずに言い返した。
その横を、みちが追い越していった。
「二人とも遅いよ」
太一とさちは顔を見合わせ、同時にみちを追いかけた。
三人のあいだでは、誰の父親が何者であるかより、昨日の喧嘩で誰が先に謝ったかのほうが重要だった。
三人が行き来する三つの家の様子も、それぞれ違っていた。
田原屋には生糸の荷が積まれ、人の出入りが絶えなかった。糸荷が届く日には、男たちの掛け声が朝から奥まで響いた。
みちの家には茶箱が並び、柱や畳にまで茶葉の乾いた香りが染みついていた。商いの忙しい日には、奥にいても茶を選り分ける者たちの声が聞こえた。
太一の家には、商家とは違う静けさがあった。置かれている物は少なかったが、どれも決まった場所にきちんと収まっていた。
三人が町を走り回っているあいだにも、大人たちの世の中は変わっていった。
将軍の世が終わった。太一の父が関わっていた役所も、名と仕組みを変えた。それまでの役目はなくなり、新しい仕事がいつまで続くのかも分からなかった。
もともと楽ではなかった太一の家の暮らしは、いっそう苦しくなった。家の中からは、少しずつ物が減っていった。
以前は床の間にあった物が、次に訪ねたときにはなくなっていた。しばらくすると、別の道具も見えなくなった。さちには、それがどこへ行ったのか分からなかった。ただ、前にあった物がなくなったことには気づいた。
田原屋では逆だった。
港が賑わうにつれ、生糸を扱う田原屋の商いも大きくなった。蔵が増えた。奉公人が増えた。出入りする荷も増えた。父の名を知る者も増え、近所の人々は以前にも増して田原屋を大店として扱うようになった。
みちの家も、茶の商いで賑わっていた。茶箱が運び込まれ、奉公人たちが忙しく働いている。田原屋のように急に大きくなったわけではないが、昔からの商いを、港の向こうにまで広げながら続けていた。
太一の家からは物が減っていった。田原屋には人と荷が集まってきた。みちの家には、変わらず茶の香りが満ちていた。
幼いさちにも、三つの家が同じではないことは見えていた。
太一は、田原屋が大きくなったからといって、さちに頭を下げたりはしなかった。さちも、太一の家から物が減っていくのを見て、可哀想だとは思わなかった。そんな目で見れば、太一はきっと怒る。それくらいのことは、さちにも分かっていた。
みちはもっと遠慮がなかった。自分も大店の娘であるくせに、ときどき妙に改まった顔をして、さちへ言った。
「田原屋のお嬢様」
さちはすぐに腹を立てた。
「やめてよ、おみち」
「どうしてです、お嬢様」
みちは両手を膝について、商家の女中のように頭を下げた。
「それ、やめてってば」
みちが笑った。太一も笑った。さちだけが怒っていたが、二人がいつまでも笑うので、やがて自分まで笑ってしまった。
三人はまだ、木に登り、往来を駆け、着物の裾を泥で汚して叱られるような子どもだった。
家の中にある物が増えようと、減ろうと、三人でいるときには関係がなかった。顔を合わせれば、昨日と同じように話し、昨日と同じように笑った。世の中で何が変わったのかなど、三人でいるあいだは忘れていられた。
少なくとも。
そのころのさちは、それが永遠に続くと思っていた。




