序幕 夜明け前
明治五年の春。御一新からそれほど年月を経ない頃。
海に近い開港場の日本人町に、田原屋という大店があった。生糸を扱う売込商である。
港が開かれて以来、この町には上州や信州、甲州をはじめ、遠国から生糸が集まるようになった。田原屋にも毎日のように糸荷が届き、それを居留地の異国商人の商館へ売り込んでいた。港に異国船の帆柱や煙突が増えるにつれ、田原屋の店構えも大きくなっていった。
表には人と荷の絶えない店があり、その奥に帳場があった。さらにその奥、蔵と中庭を隔てた先に、一家の暮らす場所がつづいていた。日のあるうちは、奥にいても店の者たちがせわしなく働く音が聞こえた。荷を担ぐ男たちの掛け声。算盤の珠を弾く音。奉公人を呼ぶ声。ときには聞き慣れない異国の言葉まで、庭を渡って入り込んできた。
だが、夜も更け、あとわずかのうちに日が昇ろうとしている刻には、広い家も別の場所のように静かになった。
田原屋の末娘、さちは十三歳だった。父にも母にも、二人の姉にも可愛がられて育った。店の者や台所の女たち、古くから仕えている者たちも、さちには甘かった。
だからといって、素直でおとなしい娘だったわけではない。機嫌を損ねれば口をきかず、思いどおりにならなければ頬をふくらませた。悪戯をして叱られることもあった。姉たちとつまらないことで言い争い、いつまでも意地を張った。幼く、勝手で、わがままなところもあった。それでも、さちは愛されていた。
困ったことがあれば、誰かが助けてくれる。怖いことがあれば、父や母のところへ行けばよい。さちにとって、この家はずっとそういう場所だった。
昨夜、その当たり前のことが、初めて分からなくなった。
いま、さちは自分の寝間で、布団の上に座ったまま動けずにいた。枕元の行灯は芯を短くしてあり、細い火がかろうじて残っている。まだ夜は明けきっていなかったが、障子の向こうはわずかに青みはじめていた。夜と朝との境にだけ現れる、冷たい色だった。
春はもう深かった。庭の木々には若葉が満ち、夜気にも冬の硬さは残っていない。それでも夜明け前の部屋には、水の底に沈んだような冷たさがあった。遠くで海鳥が一声鳴き、それきり黙った。
さちは壁際を見ていた。そこに、一人の裸の男が倒れていた。
若い男だった。二十歳をそう幾つも越えてはいないように見えた。さちの知らない男である。顔立ちは整っていた。傷がなければ眠っているように見えたかもしれない。
だが、男は眠っていなかった。死んでいた。
男は壁の下に、身体を投げ出すように崩れていた。片腕は不自然な方向に折れ、もう一方の腕は畳の上に伸びている。両脚が関節ではないところで折れ曲がっていた。身体もひどく損なわれていた。
少なくとも、さちから見えるところには、刃物で斬られた傷も、刺された痕もなかった。そのかわり、身体のあちこちに、硬いものへ強く打ちつけられたような痕があった。一度転んだだけではあのようにはならない。誰かに拳で何度も殴られたのとも違って見えた。十三歳のさちには、それ以上のことは分からなかった。
鼻から流れた血が、頬に黒い筋を作っていた。唇の端にも赤黒いものがこびりついている。片方の耳から垂れた血は、首筋を伝って乾きかけていた。片目もひどく傷つき、もとの形が分からないほど腫れていた。
さちはその顔を長く見ていられなかった。畳へ目を落とし、自分の膝を見る。けれど、しばらくすると、また男へ目を戻してしまう。見たいのではない。見ていなければならない気がした。
目を離しているあいだに、何かが変わるかもしれない。男が動くかもしれない。あるいは、そこから消えてしまうかもしれない。けれど男は動かなかった。消えもしなかった。夜のあいだ、ずっとそこにいた。
さちは昨夜から一度も眠っていない。障子の外がまだ真っ暗だったころから、同じ場所に座っていた。どれほど時が過ぎたのか、自分でも分からない。脚は痺れ、腰は鈍く痛み、指先まで冷えていた。口の中は乾き、舌が上顎に張りつきそうだった。
それでも立てなかった。男のそばを通るのも怖いが、それだけではない。立ち上がって水を飲み、行灯の芯を直し、誰かを呼ぶ。そのうちの一つでもしてしまえば、昨夜の出来事が動きだし、家じゅうへ広がっていく。どうにか形を保っているものが、そこで一度に崩れてしまう。そんな気がした。
だから、さちは座っていた。男が壁際に現れたときから、ほとんど同じ姿勢のまま。
さちは自分の両手を見た。血はついていない。掌にも、指にも、爪のあいだにも、何もなかった。白い寝間着にも血の染みはない。昨夜、袖を通したときのままだった。
その手を伸ばせば届きそうなところで、一人の男が血を流して死んでいる。鼻から、口から、耳から。
さちは両手を膝の上へ戻した。
知らない人だった。少なくとも、さちには見覚えがない。町で見かけた記憶もなかった。田原屋へ出入りしていた者でもない。店の奉公人でもなかった。
それなのに、なぜこの男がここにいるのか、さちは知っていた。どうして死んでいるのかも知っている。そのはずだった。自分の目で見たのだから。
だが、一晩じゅう同じことを考えつづけているうちに、どこまでが本当に起きたことで、どこからが自分の頭の中だけにあることなのか、その境が少しずつ曖昧になっていた。
夢だったのではないかと、何度も思った。悪い夢を見ているだけで、自分はまだ布団の中で眠っている。朝になれば目を覚まし、壁際には何もない。そうなってくれないかと思った。
しかし、障子は少しずつ青くなっていった。庭のどこかで鳥が鳴きはじめた。男だけが変わらなかった。そこにいて、死んでいた。
もうすぐ田原屋の朝が始まる。竈に火が入り、奉公人たちが起きてくる。表の戸が開き、人が働きはじめる。昨日までなら、それは何でもない朝だった。今日は違う。
誰かがこの部屋に入れば、男は見つかる。そして、さちは訊かれる。この男は誰なのか。なぜここにいるのか。ここで何があったのか。答えなければならない。
けれど、何と答えればよいのだろう。
見たままを話せばよい。本当に起きたことなのだから。そう思う一方で、そんな話を誰が信じるのだろうとも思った。一晩考えつづけた自分でさえ、信じてよいのか分からなくなっている。
さちは膝の上で両手を握った。私は悪くない。そう思った。
悪くない。悪くない、はずだ。そう思おうとするたびに、その言葉は薄くなった。
本当にそうなのだろうか。自分は何も悪くなかったのだろうか。あのとき、違うことをしていれば。あんなふうにしなければ。この男は死ななかったのではないか。
「……違う」
声にしてみた。ひどく小さな声だった。誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。あれは、自分が望んだことではない。嫌だと言った。怖かった。だから――。
そこまで考えたときだった。
じゃらり。
さちは息を止めた。金属がぶつかり合うような音だった。部屋の中ではない。廊下でも、庭でもない。もっと近いところだった。耳のすぐ奥で、鉄の輪が揺れたように聞こえた。
さちは身じろぎもせず、部屋の中を見た。青白い障子。畳。布団。消えかけた行灯。壁際の死体。何も変わっていない。
じゃらり。
もう一度、今度ははっきりと鳴った。さちは両手で耳を塞いだ。それでも、音は遠ざからなかった。
男は動かない。朝は近づいている。
どこにもないはずの鉄輪の音だけが、まだ、さちの頭の奥に残っていた。




