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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第01章 鉄輪の音
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九幕 約束

ヒキガエルは止まらなかった。太い前脚が枯れ草を押し分け、後脚が湿った土をえぐった。


ぬちゃり。


ぬちゃり。


身体を進めるたび、泥に腹の跡が残った。


さちは、その疣だらけの背中を見つめた。本当に水へ入り、あの手毬を取るつもりなのだろうか。


ヒキガエルが岸辺まであとわずかというところへ来たとき、急に、このまま行かせてよいのか分からなくなった。


「待って」


思わず声が出た。ヒキガエルは動きを止めた。老人も動かなかった。


さちは水底を見た。濁った水の下で、黄金色がかすかに光っている。それから、ヒキガエルを見た。


これが本当に取ってくれるのだろうか。老人の言葉を信じてよいのだろうか。何も分からなかった。


ただ、空はもう夕方の色になりかけていた。風は冷たくなり、沼の向こうにある家々の影も長く伸びている。迷っていられる時間は、もうあまりなかった。


「本当に」


さちは老人に訊いた。


「あれを取れるんですか」


老人は細い目で、さちを見た。


「御主人様なら」


それだけ答えた。


「取ってくれるんですか」


「御主人様がお望みになれば」


奇妙な言い方だった。それでは何も答えていないのと同じではないかと、さちは思った。


ヒキガエルは岸の手前で止まったまま、沼のほうを向いている。老人も動かない。風だけが葦の間を通り抜け、枯れた茎を鳴らしていた。


さちは水底の金色を見た。あれを置いたままでは帰れない。


「お願いします」


老人は黙っていた。


「取ってください」


返事はない。焦りが込み上げた。


「何でもしますから」


それでも、老人は何も言わなかった。


「何でもしますから、手毬を取ってください」


今度は、はっきりと言った。


老人の片方の眉が、ごくわずかに上がった。笑ったのではなかった。珍しい虫でも見つけたように、さちの顔を眺めていた。


「何でも」


老人が言った。


さちは頷いた。


「はい」


「何でも、でございますか」


「はい」


老人は錫杖へ両手を重ねた。三つの鉄輪が、かすかに触れた。


じゃらり。


「そのようなお約束をなさって、よろしいのですかな」


さちは少し怯んだ。その言い方が嫌だった。自分の知らないところに落とし穴があり、老人だけがそれを知っているような言い方だった。


けれど、水底へ目を戻すと、迷いはすぐに押し流された。黄金色の糸と、その中を横切る赤い一本。


「何でもします」


思ったより大きな声が出た。


「大切なものなんです」


老人は、さちの顔をじっと見ていた。やがて、口の両端がゆっくりと持ち上がった。


笑った。


今度は、はっきりと分かった。落ちくぼんだ頬へ幾筋もの深い皺が寄り、ひび割れた唇の間から、黄色く濁った歯が現れた。歯の根元には黒ずんだ隙間があり、いくつかは欠けていた。


老人は声を立てなかった。ただ、ひどく嬉しそうだった。


長いあいだ待っていたものが、自分から罠の中へ入ってきた。そんな笑みだった。


さちは、その笑顔を見た途端、約束を取り消したくなった。


潮の匂いが濃くなった。濡れた綱や、腐りかけた海藻を閉じ込めたような匂い。その奥から、錆びた鉄の生臭さが立ち上ってくる。


「それでは」


老人が言った。


「お約束いただきましょう」


「お金なら――」


さちは言いかけた。田原屋へ戻って事情を話せば、相応の礼はできる。そう言おうとした。


しかし、老人はゆっくりと首を横へ振った。


「金など要りませぬ」


「じゃあ……」


老人はヒキガエルを見た。


「今日一日」


低い声で言った。


「御主人様がお望みになることには、何であれお応じください」


さちは、言葉の意味を呑み込むまで少しかかった。


「この蛙の?」


老人の顔から、笑みが消えた。


「御主人様でございます」


「あ……」


さちはヒキガエルを見た。


大ぶりで、ひどく気味が悪い。それでも、蛙だった。蛙が人間のように何かを望んだり、頼んだりできるのだろうか。


餌を欲しがるのかもしれない。水辺のどこかへ運べと言うのかもしれない。そもそも言葉も話さない。


老人が勝手に御主人様と呼んでいるだけで、目の前にいるのは、どう見てもただの蛙だった。


しかも、今日一日だけである。


陽はすでに西へ傾いている。手毬を受け取れば、すぐに家へ帰る。そうすれば、今日もじきに終わる。


さちの迷いは短かった。手毬のほうが大切だった。


「分かりました」


老人が訊いた。


「御主人様がお望みになることなら、何であれ?」


「はい」


「嫌だと仰らず?」


さちは一瞬、黙った。


ヒキガエルが身体の向きをわずかに変え、黒い目をさちへ向けた。その目には何の感情もなかった。まばたきもせず、ただこちらを見ている。


けれど、蛙である。


「言いません」


「御主人様のお望みには、すべてお応じになる」


「はい」


さちは頷いた。


「約束します」


老人は、また笑った。先ほどよりも小さく、静かな笑みだった。それなのに、今度のほうが気味悪く見えた。


「承りました」


老人は錫杖を持ち上げた。地面へ触れていた柄の先が離れ、三つの鉄輪が大きく揺れた。


じゃらり。


低く濁った音が、夕方の水辺に響いた。さちは肩を震わせた。


太一が口で真似た音とは、まるで違っていた。長い年月、雨に濡れ、錆びついた鉄を、無理に引き剝がしたような重い音だった。


老人はヒキガエルを見下ろした。何も言わなかった。命じる様子も、許しを求める様子もない。ただ、細い目を向けただけだった。


ヒキガエルも老人を見上げなかった。老人とヒキガエルのあいだで、何かが交わされたようには見えなかった。


それなのに、ヒキガエルが動いた。


岸へ進み、湿った土の上まで来ると、ためらうことなく水の中へ身体を押し入れた。


ぼちゃん。


身体が水へ沈んだ。水面が大きく揺れ、濁った水が岸際の草を濡らした。


「沈んじゃった」


さちは目を見開いた。老人は答えなかった。


水の中では泥が舞い上がっていた。黄金色の手毬も、ヒキガエルの姿も見えない。濁った水面に、幾重もの波紋だけが広がってゆく。


老人は錫杖を持ったまま、じっと沼を見ていた。


しばらくして、水面の一部が膨らんだ。水の下から、黒い頭が押し上がってきた。


ヒキガエルだった。水面に出た両目のあいだから、泥水が流れ落ちている。その鼻先に押し上げられるように、黄金色の手毬も浮かび上がった。


「手毬!」


さちは岸へ寄った。


ヒキガエルは鼻先で手毬を押しながら、短い脚で水を掻いて近づいてきた。泳ぐというより、沼の底を這い、水を押し分けて進んでいるようだった。


岸へたどり着くと、太い前脚を土へ掛けた。身体が持ち上がり、水を吸った腹が岸へ擦れた。全身から濁った水が流れ、疣の間に溜まっていた水が一筋ずつ地面へ落ちていった。


ヒキガエルがさらに身体を進めると、鼻先に押された手毬が湿った草の上へ転がった。黄金色の糸はすっかり濡れていたが、赤い一本も見えた。


さちは飛びついた。


「よかった!」


両手で拾い上げた。濡れていて、少し泥もついている。そんなことは、どうでもよかった。


袖で表面を拭うと、泥の下から黄金色が現れた。その中には、一本だけの赤い筋がちゃんと残っている。


さちは手毬を胸へ抱きしめた。


「よかった……」


そのことしか考えられなかった。老人のことも、海坊主の噂も、たった今、自分がした約束も、一瞬、何もかも頭から消えた。


手毬が戻ってきた。それだけでよかった。


帰ろう。


そう思ったときだった。


「では、お前の家へ行こう」


男の声がした。


さちは顔を上げ、老人を見た。老人は口を閉じていた。笑ってもいない。さちを見ているだけだった。


ほかには誰もいなかった。


「……え?」


さちは辺りを見回した。田、水路、風に揺れる葦、夕方の空の下に並ぶ遠くの家々。人影はなかった。


「お前の家へ行こう」


また声がした。


低い男の声だった。老人の声ではない。もっと若いようにも聞こえたが、若者の声とも言い切れない。地面の下に空いた穴から響いてくるような、妙に底のある声だった。


さちは、ゆっくり視線を下げた。


ヒキガエルが黒い目で、さちを見ていた。


「……今」


さちは老人を見た。


「今、誰が――」


老人は答えなかった。


ヒキガエルの喉が膨らんだ。薄い皮膚の下で、灰色の肉がぬるりと持ち上がった。唇のない口が開いた。


「私も行く」


さちは息を呑んだ。


声は、その口から出ていた。


「お前の家へ」


さちは一歩下がった。


「……蛙が」


ヒキガエルは、じっとさちを見ていた。黒い目には何の表情もない。それなのに、口だけが人の言葉に合わせて開閉している。


「お前の食べるものを、私も食べたい」


口の奥が見えた。濡れた闇のようだった。男の声が出るたび、喉が大きく膨らみ、ゆっくりと萎んだ。


「お前が飲むものを、私も飲みたい」


さちの背中を、冷たいものが這い下りた。


「何……」


「そばに置いてほしい」


「何を言ってるの」


「約束した」


ヒキガエルが言った。


その瞬間、さちは思い出した。


今日一日、この蛙が望むことには何であれ応じる。嫌だと言わない。


はい。約束します。


自分の声まで、耳の奥に戻ってきた。


「嫌……」


ヒキガエルが身体を一つ前へ進めた。前脚が泥へ沈み、腹の下で水が潰れた。


ぬちゃり。


さちは同じだけ下がった。


「お前の家へ行く」


「来ないで」


「お前と同じものを食べる」


「嫌だ」


「同じものを飲む」


「やめて」


「お前のそばに――」


「何を言ってるの!」


さちは叫んだ。恐ろしかった。それ以上に、気持ちが悪かった。


先ほどまで一言も発しなかった蛙が、男の声で、自分と一緒に家へ行くと言っている。黒い目は瞬きもしなかった。口の両端が、またゆっくりと開き始めた。


「気持ち悪い!」


さちは手毬を強く胸へ抱き、走った。


老人の横を通ることさえ怖くて、大きく回り込んだ。草履が泥へ沈み、跳ねた泥水が裾を汚した。もう構わなかった。


振り返らず、田の間の細道を走った。着物が足へまとわりつき、草履が何度も脱げそうになった。それでも止まらなかった。


追ってくる足音はしない。ヒキガエルが泥を這う音も、老人の声も聞こえない。何も聞こえなかった。


さちは走り続けた。手毬だけは二度と落とさないよう、両腕でしっかりと抱えていた。


もうすぐ人のいる道へ出る。そこまで行けば大丈夫だ。


そう思ったとき、ずっと後ろから音がした。


じゃらり。


鉄の輪が擦れ合う音だった。


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