九幕 約束
ヒキガエルは止まらなかった。太い前脚が枯れ草を押し分け、後脚が湿った土をえぐった。
ぬちゃり。
ぬちゃり。
身体を進めるたび、泥に腹の跡が残った。
さちは、その疣だらけの背中を見つめた。本当に水へ入り、あの手毬を取るつもりなのだろうか。
ヒキガエルが岸辺まであとわずかというところへ来たとき、急に、このまま行かせてよいのか分からなくなった。
「待って」
思わず声が出た。ヒキガエルは動きを止めた。老人も動かなかった。
さちは水底を見た。濁った水の下で、黄金色がかすかに光っている。それから、ヒキガエルを見た。
これが本当に取ってくれるのだろうか。老人の言葉を信じてよいのだろうか。何も分からなかった。
ただ、空はもう夕方の色になりかけていた。風は冷たくなり、沼の向こうにある家々の影も長く伸びている。迷っていられる時間は、もうあまりなかった。
「本当に」
さちは老人に訊いた。
「あれを取れるんですか」
老人は細い目で、さちを見た。
「御主人様なら」
それだけ答えた。
「取ってくれるんですか」
「御主人様がお望みになれば」
奇妙な言い方だった。それでは何も答えていないのと同じではないかと、さちは思った。
ヒキガエルは岸の手前で止まったまま、沼のほうを向いている。老人も動かない。風だけが葦の間を通り抜け、枯れた茎を鳴らしていた。
さちは水底の金色を見た。あれを置いたままでは帰れない。
「お願いします」
老人は黙っていた。
「取ってください」
返事はない。焦りが込み上げた。
「何でもしますから」
それでも、老人は何も言わなかった。
「何でもしますから、手毬を取ってください」
今度は、はっきりと言った。
老人の片方の眉が、ごくわずかに上がった。笑ったのではなかった。珍しい虫でも見つけたように、さちの顔を眺めていた。
「何でも」
老人が言った。
さちは頷いた。
「はい」
「何でも、でございますか」
「はい」
老人は錫杖へ両手を重ねた。三つの鉄輪が、かすかに触れた。
じゃらり。
「そのようなお約束をなさって、よろしいのですかな」
さちは少し怯んだ。その言い方が嫌だった。自分の知らないところに落とし穴があり、老人だけがそれを知っているような言い方だった。
けれど、水底へ目を戻すと、迷いはすぐに押し流された。黄金色の糸と、その中を横切る赤い一本。
「何でもします」
思ったより大きな声が出た。
「大切なものなんです」
老人は、さちの顔をじっと見ていた。やがて、口の両端がゆっくりと持ち上がった。
笑った。
今度は、はっきりと分かった。落ちくぼんだ頬へ幾筋もの深い皺が寄り、ひび割れた唇の間から、黄色く濁った歯が現れた。歯の根元には黒ずんだ隙間があり、いくつかは欠けていた。
老人は声を立てなかった。ただ、ひどく嬉しそうだった。
長いあいだ待っていたものが、自分から罠の中へ入ってきた。そんな笑みだった。
さちは、その笑顔を見た途端、約束を取り消したくなった。
潮の匂いが濃くなった。濡れた綱や、腐りかけた海藻を閉じ込めたような匂い。その奥から、錆びた鉄の生臭さが立ち上ってくる。
「それでは」
老人が言った。
「お約束いただきましょう」
「お金なら――」
さちは言いかけた。田原屋へ戻って事情を話せば、相応の礼はできる。そう言おうとした。
しかし、老人はゆっくりと首を横へ振った。
「金など要りませぬ」
「じゃあ……」
老人はヒキガエルを見た。
「今日一日」
低い声で言った。
「御主人様がお望みになることには、何であれお応じください」
さちは、言葉の意味を呑み込むまで少しかかった。
「この蛙の?」
老人の顔から、笑みが消えた。
「御主人様でございます」
「あ……」
さちはヒキガエルを見た。
大ぶりで、ひどく気味が悪い。それでも、蛙だった。蛙が人間のように何かを望んだり、頼んだりできるのだろうか。
餌を欲しがるのかもしれない。水辺のどこかへ運べと言うのかもしれない。そもそも言葉も話さない。
老人が勝手に御主人様と呼んでいるだけで、目の前にいるのは、どう見てもただの蛙だった。
しかも、今日一日だけである。
陽はすでに西へ傾いている。手毬を受け取れば、すぐに家へ帰る。そうすれば、今日もじきに終わる。
さちの迷いは短かった。手毬のほうが大切だった。
「分かりました」
老人が訊いた。
「御主人様がお望みになることなら、何であれ?」
「はい」
「嫌だと仰らず?」
さちは一瞬、黙った。
ヒキガエルが身体の向きをわずかに変え、黒い目をさちへ向けた。その目には何の感情もなかった。まばたきもせず、ただこちらを見ている。
けれど、蛙である。
「言いません」
「御主人様のお望みには、すべてお応じになる」
「はい」
さちは頷いた。
「約束します」
老人は、また笑った。先ほどよりも小さく、静かな笑みだった。それなのに、今度のほうが気味悪く見えた。
「承りました」
老人は錫杖を持ち上げた。地面へ触れていた柄の先が離れ、三つの鉄輪が大きく揺れた。
じゃらり。
低く濁った音が、夕方の水辺に響いた。さちは肩を震わせた。
太一が口で真似た音とは、まるで違っていた。長い年月、雨に濡れ、錆びついた鉄を、無理に引き剝がしたような重い音だった。
老人はヒキガエルを見下ろした。何も言わなかった。命じる様子も、許しを求める様子もない。ただ、細い目を向けただけだった。
ヒキガエルも老人を見上げなかった。老人とヒキガエルのあいだで、何かが交わされたようには見えなかった。
それなのに、ヒキガエルが動いた。
岸へ進み、湿った土の上まで来ると、ためらうことなく水の中へ身体を押し入れた。
ぼちゃん。
身体が水へ沈んだ。水面が大きく揺れ、濁った水が岸際の草を濡らした。
「沈んじゃった」
さちは目を見開いた。老人は答えなかった。
水の中では泥が舞い上がっていた。黄金色の手毬も、ヒキガエルの姿も見えない。濁った水面に、幾重もの波紋だけが広がってゆく。
老人は錫杖を持ったまま、じっと沼を見ていた。
しばらくして、水面の一部が膨らんだ。水の下から、黒い頭が押し上がってきた。
ヒキガエルだった。水面に出た両目のあいだから、泥水が流れ落ちている。その鼻先に押し上げられるように、黄金色の手毬も浮かび上がった。
「手毬!」
さちは岸へ寄った。
ヒキガエルは鼻先で手毬を押しながら、短い脚で水を掻いて近づいてきた。泳ぐというより、沼の底を這い、水を押し分けて進んでいるようだった。
岸へたどり着くと、太い前脚を土へ掛けた。身体が持ち上がり、水を吸った腹が岸へ擦れた。全身から濁った水が流れ、疣の間に溜まっていた水が一筋ずつ地面へ落ちていった。
ヒキガエルがさらに身体を進めると、鼻先に押された手毬が湿った草の上へ転がった。黄金色の糸はすっかり濡れていたが、赤い一本も見えた。
さちは飛びついた。
「よかった!」
両手で拾い上げた。濡れていて、少し泥もついている。そんなことは、どうでもよかった。
袖で表面を拭うと、泥の下から黄金色が現れた。その中には、一本だけの赤い筋がちゃんと残っている。
さちは手毬を胸へ抱きしめた。
「よかった……」
そのことしか考えられなかった。老人のことも、海坊主の噂も、たった今、自分がした約束も、一瞬、何もかも頭から消えた。
手毬が戻ってきた。それだけでよかった。
帰ろう。
そう思ったときだった。
「では、お前の家へ行こう」
男の声がした。
さちは顔を上げ、老人を見た。老人は口を閉じていた。笑ってもいない。さちを見ているだけだった。
ほかには誰もいなかった。
「……え?」
さちは辺りを見回した。田、水路、風に揺れる葦、夕方の空の下に並ぶ遠くの家々。人影はなかった。
「お前の家へ行こう」
また声がした。
低い男の声だった。老人の声ではない。もっと若いようにも聞こえたが、若者の声とも言い切れない。地面の下に空いた穴から響いてくるような、妙に底のある声だった。
さちは、ゆっくり視線を下げた。
ヒキガエルが黒い目で、さちを見ていた。
「……今」
さちは老人を見た。
「今、誰が――」
老人は答えなかった。
ヒキガエルの喉が膨らんだ。薄い皮膚の下で、灰色の肉がぬるりと持ち上がった。唇のない口が開いた。
「私も行く」
さちは息を呑んだ。
声は、その口から出ていた。
「お前の家へ」
さちは一歩下がった。
「……蛙が」
ヒキガエルは、じっとさちを見ていた。黒い目には何の表情もない。それなのに、口だけが人の言葉に合わせて開閉している。
「お前の食べるものを、私も食べたい」
口の奥が見えた。濡れた闇のようだった。男の声が出るたび、喉が大きく膨らみ、ゆっくりと萎んだ。
「お前が飲むものを、私も飲みたい」
さちの背中を、冷たいものが這い下りた。
「何……」
「そばに置いてほしい」
「何を言ってるの」
「約束した」
ヒキガエルが言った。
その瞬間、さちは思い出した。
今日一日、この蛙が望むことには何であれ応じる。嫌だと言わない。
はい。約束します。
自分の声まで、耳の奥に戻ってきた。
「嫌……」
ヒキガエルが身体を一つ前へ進めた。前脚が泥へ沈み、腹の下で水が潰れた。
ぬちゃり。
さちは同じだけ下がった。
「お前の家へ行く」
「来ないで」
「お前と同じものを食べる」
「嫌だ」
「同じものを飲む」
「やめて」
「お前のそばに――」
「何を言ってるの!」
さちは叫んだ。恐ろしかった。それ以上に、気持ちが悪かった。
先ほどまで一言も発しなかった蛙が、男の声で、自分と一緒に家へ行くと言っている。黒い目は瞬きもしなかった。口の両端が、またゆっくりと開き始めた。
「気持ち悪い!」
さちは手毬を強く胸へ抱き、走った。
老人の横を通ることさえ怖くて、大きく回り込んだ。草履が泥へ沈み、跳ねた泥水が裾を汚した。もう構わなかった。
振り返らず、田の間の細道を走った。着物が足へまとわりつき、草履が何度も脱げそうになった。それでも止まらなかった。
追ってくる足音はしない。ヒキガエルが泥を這う音も、老人の声も聞こえない。何も聞こえなかった。
さちは走り続けた。手毬だけは二度と落とさないよう、両腕でしっかりと抱えていた。
もうすぐ人のいる道へ出る。そこまで行けば大丈夫だ。
そう思ったとき、ずっと後ろから音がした。
じゃらり。
鉄の輪が擦れ合う音だった。




