十幕 大店の門
その夜、田原屋では、一日の商いを仕舞う支度が始まっていた。
表では糸荷が片づけられ、帳場から算盤の音が消えていた。奉公人たちは大戸を閉め、蔵の錠と火の始末を確かめている。昼の賑わいが退いたあとの広い家には、戸板をはめる音や廊下を行き来する足音、台所で器を重ねる音がよく響いた。
表口では、奉公人の喜衛門と乙吉が戸締まりをしていた。
乙吉は、田原屋が今ほど大きくなる前から勤めている。喜衛門よりも年長で、表口の戸締まりや店先の片付けは、たいてい彼が取り仕切っていた。
「これで仕舞いにするぞ」
乙吉が錠を確かめながら言った。
喜衛門は通りを見た。軒を閉じ始めた店があり、提灯を提げた者が歩いている。遠くで荷車の車輪が軋み、その音は宵の町へ次第に小さくなっていった。
喜衛門が大戸へ手をかけた。
そのとき、敷居の向こうに何かがいた。
「乙吉さん」
声が低くなった。
戸口のすぐ外に、ひときわ大ぶりなヒキガエルが蹲っていた。
いつからそこにいたのか分からなかった。先ほどまでは何もいなかったはずだが、這ってきたところを見た者はいない。
腹の縁には泥と枯れ草が貼りついていた。黒い目だけが戸口の奥へ向けられ、行灯の火を小さく映している。瞬きもしなかった。
「何だ、こいつは」
乙吉は顔をしかめ、一歩退いた。
ヒキガエルは鳴かなかった。喉の薄い皮だけが、ゆっくりと膨らみ、萎んだ。
喜衛門は近くに立てかけてあった箒を取った。
「追い払います」
「手で触るなよ。道の端へ寄せればいい」
「分かっています」
喜衛門は柄の端を持ち、できるだけ身体を離したまま穂先を差し出した。
「ほら。あっちへ行け」
ヒキガエルは動かない。
喜衛門は唾を呑み込んだ。箒越しであっても、濡れた疣だらけの背には触れたくなかった。
それでも、このまま敷居際に居座らせては、大戸を閉められない。
喜衛門がもう一歩近づき、箒の先を背へ押し当てようとした。
じゃらり。
手が止まった。
錆びた鉄の輪を擦り合わせたような音だった。
喜衛門と乙吉は同時に通りを見た。まだ人影はあったが、錫杖を持つ僧などどこにもいない。
「今のは……」
喜衛門が言った。
「ああ。聞こえた」
乙吉は店の中も見た。金物を落とした者はいない。戸板をはめていた奉公人たちも、音に気づいた様子はなかった。
潮と錆びた鉄の臭いがした。海から届く夜風よりも濃く、わずかな生臭さを含んでいた。
喜衛門は鼻を覆いたくなったが、箒を持ったまま動けなかった。
ヒキガエルは、先ほどと変わらぬ姿で戸口にいる。その黒い目を見ているうちに、喜衛門の胸へ一つの考えが浮かんだ。
おさち様のお客なら、取り次がなくてはならない。
それは思いついたというより、思い出したことのようだった。
目の前にいるものが蛙だということは分かっている。人の言葉も話さず、名乗ってもいない。さちを訪ねてきたという証しなど、どこにもなかった。
それでも、これはおさちの客だった。
なぜ今まで気づかなかったのだろうと、喜衛門は思った。
箒を下ろし、ヒキガエルへ頭を下げた。
「失礼いたしました」
乙吉が、気味の悪いものを見る目で喜衛門を見た。
「おい。何をしている」
「おさち様のお客です」
「何だと」
「おさち様を訪ねてこられたのです」
乙吉は喜衛門の顔を見つめた。それから戸口へ目をやり、すぐに顔を背けた。
「蛙だぞ」
「はい」
「はい、ではない。お前、俺をからかっているのか」
「いいえ」
「ならば、どうかしたのか。熱でもあるんじゃないか」
乙吉は喜衛門の額へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。喜衛門の様子がおかしいと分かっても、目の前のヒキガエルから長く目を離す気にはなれないらしかった。
「これは、おさち様のお客です」
喜衛門はもう一度言った。
「何を馬鹿なことを申している」
乙吉は通りへ出て、辺りを確かめた。誰かが悪戯で蛙を置き、こちらを窺っているのではないかと思ったのだろう。左右の店先や軒下に目を凝らしたが、それらしい者はいなかった。
戻ってくると、喜衛門の手から箒を取った。
「妙な真似はよせ。こんなものを店へ入れられるか」
乙吉が穂先をヒキガエルへ向けた。
「追い払えないなら、俺がやる」
じゃらり。
今度は、二人のすぐ後ろで鳴った。
乙吉が振り返った。喜衛門も見る。
そこには誰もいなかった。行灯の届かない暗がりと、閉じかけた店の内があるだけだった。
乙吉は箒を持ったまま動かなかった。やがて肩から力が抜け、顔に浮かんでいた嫌悪も警戒も、少しずつ薄れていった。
箒の穂先が下がった。
「そうか」
乙吉は呟いた。
もう一度、ヒキガエルを見る。その目には、先ほどまでとは違うものがあった。さっきまで嫌悪していた姿も、もう目に入っていないようだった。
「おさち様のお客なら、俺たちだけでお通しするわけにはいかんな」
喜衛門は頷いた。
「はい」
「番頭さんを呼んでこい」
喜衛門は箒を壁へ戻した。
ヒキガエルは二人が話しているあいだも、身じろぎ一つしなかった。黒い目には行灯の火が小さく映り、その光だけが目の表面で揺れていた。
ほどなく番頭がやって来た。
「こんな時分に何の騒ぎだ」
表へ出てきた番頭は、戸口のものを見た途端に足を止めた。喉の奥で息を詰まらせ、顔を引いた。
「……何だ、これは」
「おさち様のお客様です」
乙吉が答えた。
番頭は、しばらく何も言わなかった。
「今、何と申した」
「おさち様のお客様です」
「これがか」
「はい」
「二人して、俺を担ぐつもりか」
番頭の声が低くなった。
乙吉も喜衛門も真顔だった。
番頭は二人を見比べた。酒の匂いがしないか確かめるように鼻を動かし、それからヒキガエルへ目を戻した。
「こいつは蛙だ。見れば分かるだろう」
「分かっております」
「分かっていて、なぜ客になる」
乙吉は答えなかった。
番頭の眉間に深い皺が寄った。
「喜衛門だけなら、気でも違えたかと思うところだ。乙吉、お前まで何をしている。悪ふざけなら――」
じゃらり。
番頭の言葉が途切れた。
音は遠くから響いたようでもあり、耳のすぐ後ろで鳴ったようでもあった。
番頭は激しく振り返った。表にも通りにも、錫杖を持つ者はいない。
潮と鉄錆の臭いが、急に濃くなった。
番頭の口がわずかに開いた。眉間に刻まれていた皺がほどけていく。ヒキガエルへ向き直ったときには、驚きも嫌悪も顔から消えていた。
「おさち様を訪ねてこられたのだな」
確かめるように言った。
「はい」
乙吉が答えた。
番頭は頷いた。
「お名前は伺ったか」
「いいえ」
「そうか」
それ以上は追及しなかった。名も告げない客を夜分に通すことが、ひどく不作法なことだと知っているはずだった。それでも今は、客を戸口で待たせていることのほうが、取り返しのつかない無礼に思えるらしかった。
「ならば、お取り次ぎしなくてはならん」
喜衛門と乙吉も頷いた。
誰も笑わず、誰も怯えていなかった。
ヒキガエルが動いた。
前脚が身体の下から出た。四本の指が土の上で開き、丸い先が地面を押した。続いて太い後脚が伸び、ずんぐりした胴を前へ運んだ。
ぬちゃり。
腹が泥から剝がれ、また地面へ落ちた。腹の縁に貼りついていた枯れ草が引きずられ、土の上に濡れた跡が残った。
もう一歩。
行灯の光の中へ出ると、青白い腹の皺が、呼吸に合わせて伸び縮みした。
喜衛門は、それを見ても、もう何も感じなかった。
三人は、客に道を譲るときと同じように左右へ退いた。
ヒキガエルは敷居の前で止まった。
喉の皮が丸く膨らんだ。ゆっくり萎みかけたところで、もう一度、呼吸に押されて持ち上がる。口は固く閉じられ、黒い目だけが暗い店の奥を見ていた。
その先に誰がいるのか、初めから知っている目だった。
やがて前脚が敷居へ掛かった。後脚が縮み、身体を押し上げる。濡れた腹が木を擦り、泥と粘液の細い筋を残した。
ぬちゃり。
ヒキガエルは田原屋の中へ入った。
喜衛門は、目の前にいるものが蛙であることを知っていた。名も告げず、用向きも話さず、夜の戸口に現れたものだということも知っていた。
それでも、おさちを訪ねてきた客ならば、取り次がなければならない。
その考えに疑いを差し挟もうとするたび、頭の中で何かが滑った。何を怪しもうとしたのか、思い出すことさえできなかった。隣では乙吉も番頭も、当然の務めを果たしているだけの顔をしていた。
ヒキガエルの腹が、店の土間を擦っていく。その後ろに、細い濡れ跡が続いていた。
喜衛門自身の胸に疑いが差すか、乙吉や番頭の顔にわずかでも迷いが浮かぶたび、
じゃらり。
どこにも見えない錫杖の鉄輪が、また鳴った。




