十一幕 家族の異変
そのころ、さちは奥の座敷で、家族と夕餉を囲んでいた。
沼から逃げ帰ったあと、濡れた手毬は布に包み、まつに見つからないよう箪笥の奥へ隠した。泥の跳ねた裾だけは隠しようがなかった。
「ですから申し上げたではございませんか。新田のほうへいらしたら、こうなると」
着替えを手伝いながら、まつは呆れた顔をした。
いつものさちなら、これくらい洗えば落ちる、転んだわけではない、みちだって泥をつけていたと、何かしら言い返していただろう。
けれど、その日は何も言えなかった。
まつは何度かさちの顔を窺った。具合でも悪いのかと訊きかけたようだったが、結局、汚れた着物を抱えて部屋を出ていった。
夕餉の支度が整うころには、激しかった動悸もようやく収まり始めていた。
座敷には父の次郎と、母のかつ、二人の姉が揃っていた。それぞれの前に膳が置かれ、椀から白い湯気が立っている。焼き魚と味噌汁の温かな匂いが部屋に満ちていた。
表ではまだ商いを仕舞う物音がしていたが、襖を隔てた奥には、いつもの夕餉の時間が流れていた。
次郎は、昼間に喜衛門が荷札を取り違えた話をしていた。
「本人は自分ではないと言い張っていたが、あの字はどう見ても喜衛門のものだ」
「喜衛門さんが、そのような間違いをなさるのですか」
かつが訊いた。
「忙しいときには誰でも間違える。だが、半刻も気づかなかったのはいかんな」
姉の一人が笑った。
「乙吉さんには、もう知られているのでしょう?」
「俺より先に見つけていた」
「それなら喜衛門さん、今ごろ小さくなっていますね」
もう一人の姉も笑い、かつが二人をたしなめた。
「人の失敗を笑うものではありませんよ」
そう言いながら、母の口元にも笑みがあった。
さちも少しだけ笑った。
父がいて、母がいて、姉たちがいる。膳の上には見慣れた料理が並び、廊下の向こうでは奉公人たちが静かに行き来している。
いつもの家だった。
外でどれほど怖いことがあっても、ここまで帰れば大丈夫だった。
沼で見たものは、夕暮れの薄暗さが見せた夢だったのかもしれない。
痩せた老人。錆びた錫杖。人の言葉を話すヒキガエル。
それらは家の明かりの下で思い返すと、急に現実味を失った。自分は手毬を落とし、一人で心細くなり、太一から聞いた話を思い出した。それで、ありもしないものを見たのではないか。
さちは味噌汁を口にした。温かい汁が喉を通り、腹の中へ落ちた。
「おさち、今日はずいぶん静かですね」
かつに言われた。
「そう?」
「どこか具合でも悪いのですか」
「何でもない」
「またおまつを困らせたんじゃないの」
姉が言った。
「困らせてないよ」
「新田のほうへ行ったのでしょう。裾に泥をつけて帰ってきたと、おまつが言っていましたよ」
「おまつったら、もう話したの?」
「お前は、あまり水辺へ近づくな」
次郎が言った。
「雨のあとは地面が緩んでいる。岸が崩れれば、水へ落ちることもある」
「分かってる」
「分かっている者は、泥をつけて帰ってこない」
姉たちが笑った。
「泥だらけじゃないもの」
さちは口を尖らせた。
その声が、いつもの自分の声に聞こえた。胸の奥に残っていた冷たさが、少し薄れた。
沼でのことは、誰にも話さなくてよい。
老人から持ちかけられた約束も、ヒキガエルが男の声で話したことも、知られずに済む。
今日一日、この蛙が望むことには、何であれ応じる。
自分はたしかに、そう約束した。
けれど、もう夜だった。今日という日は、間もなく終わる。
あの鈍い歩みで、新田からここまで来られるはずもない。田のあいだを抜け、吉田橋を渡り、人の多い町を通って、田原屋の奥まで入ってくるなど、できるはずがなかった。
来るはずがない。
姉の一人が、昼に見かけた異人の女の話を始めた。日傘も衣服も見たことのない色だったという。もう一人の姉が、それはどのような色だったのかと訊き、話はいつしか髪飾りのことへ移っていった。
かつは呆れながら聞いている。次郎は魚の骨を取りながら、ときどき口を挟んだ。
話に大した中身はなかった。それでも、家族の声が絶えず行き交っていることが嬉しかった。誰かが笑うたび、沼での出来事が少しずつ遠ざかっていった。
そのとき、廊下を急ぐ足音がした。
家族の話が止まった。
襖の外で、まつの声がした。
「旦那様」
次郎が顔を上げた。
「何だ」
襖が細く開いた。まつがそこへ手をつき、青ざめた顔で座敷の中を見た。
「表の者が、おさち様へお取り次ぎをと申しております」
「こんな時分にか。誰が来た」
まつはすぐに答えなかった。
「それが……」
何度か口を動かしてから、さちを見た。
「人ではございません」
座敷が静かになった。
次郎が箸を膳へ置いた。
「何を言っている」
廊下の向こうで、何かが動いた。
ぺたり。
湿ったものが床板へ触れる音だった。
少し間を置いて、また音がした。
ぬちゃり。
腹を板へ擦りつけながら、ゆっくり進んでくる。
さちは立ち上がった。膝が膳の縁に当たり、椀の中の汁が揺れた。
「おさち?」
かつが振り返った。
廊下の明かりの中へ、ヒキガエルが現れた。泥のついた腹を床板へ擦りつけ、さちだけを見つめながら進んでくる。その後ろには、細い濡れ跡が続いていた。
「いや!」
さちの声が座敷に響いた。
ヒキガエルは襖の前で止まった。
間違えるはずがなかった。
老人の足元に蹲っていたもの。濁った水へ潜り、黄金色の手毬を鼻先で岸まで押してきたもの。
男の声で、お前の家へ行こう、と言ったもの。
黒い目が、さちを見た。
丸く盛り上がった目の表面には行灯の火が映っている。瞳は細くもならず、広がりもせず、ただ正面からさちを捉えていた。
「どうして……」
さちは膳から離れた。
「どうして来たの」
ヒキガエルは答えなかった。
喉の薄い皮が、ゆっくり膨らんだ。萎むとき、広い口の端がわずかに動いた。
かつが、さちを庇うように前へ出た。
「何なの、あれは」
二人の姉も立ち上がっていた。一人は袖で口元を覆い、もう一人は母の背後へ身を寄せている。
「気味が悪い……」
姉が小さく言った。
次郎は険しい顔で廊下を見た。
ヒキガエルの後ろには乙吉と喜衛門がいた。二人とも、それを止めようとはせず、客の供でもするように離れて立っている。
「乙吉」
次郎の声に怒気が混じった。
「なぜ、このようなものを奥へ入れた」
「おさち様のお客様でございます」
「馬鹿を申すな。籠でも持ってきて、すぐ外へ出せ」
乙吉は動かなかった。
次郎が立ち上がろうとした、そのときだった。
じゃらり。
低く濁った音が座敷に響いた。
行灯の火が揺れた。
潮と錆びた鉄の臭いが、急に座敷へ満ちた。
次郎も、かつも、姉たちも、音のしたほうを見た。
老人の姿はなかった。
錫杖もない。
ただ、ヒキガエルが襖の前にいるだけだった。
さちには、家族の顔が変わったようには見えなかった。
母はまださちの前に立っている。姉は袖で口元を覆い、まつも襖から距離を取ったままだった。次郎の眉間には、先ほどと同じ皺が残っている。
それなのに、座敷の中で何かが変わっていた。
「おさち」
次郎が言った。
声はいつもの父のものだった。
「この方に、何かしていただいたのか」
さちは父を見上げた。
「……この方?」
「お前を訪ねてこられたのだろう」
つい先ほどまで、次郎は籠へ入れて外へ出せと言っていた。そのことを忘れた様子はなかった。けれど、なぜ追い出そうとしたのかだけが、父の中から抜け落ちてしまったようだった。
「お父様、今、あれを外へ出せって言ったでしょう」
次郎は一瞬、黙った。
何かを思い出そうとするように目を細めたが、すぐに首を振った。
「事情を知らなかったからだ。それより、何があった」
「どうして、私が何かしてもらったって分かるの」
「何があったのか話しなさい」
穏やかな声だった。
叱っているのではない。ただ娘から事情を聞こうとする、いつもの父だった。だからこそ、さちは恐ろしくなった。
「……手毬を」
口の中が乾いていた。
「新田の沼へ落としたの」
「あの黄金色の手毬か」
さちは頷いた。
「枝を伸ばしても届かなくて……この蛙が水へ入って、取ってくれた」
誰も話さなかった。
家族の視線がヒキガエルへ向けられた。
かつの顔には、まだ嫌悪が残っていた。姉たちも近づこうとはしない。まつは鼻を覆いたそうに唇を引き結んでいる。
ヒキガエルは不快な生き物のままだった。
それでも、もう誰も追い出そうとはしなかった。
「その代わりに、何か約束したのだな」
次郎が言った。
さちの喉が詰まった。
「……した」
「どのような約束だ」
「今日一日、この蛙が望むことには、何でも応じるって」
まつが息を呑んだ。
「何というお約束を……」
その声には、まだ本心からの驚きがあった。
しかし、次郎はさちを見たままだった。
「自分から約束したのか」
「だって、手毬が大切だったから」
「そうか」
次郎はそれだけ言った。
責めるでも、慰めるでもなかった。
「嫌だと言わず、望むことには何でも応じると約束したの」
さちは続けた。
「でも、こんなものが家まで来るなんて思わなかった」
ヒキガエルの喉が膨らんだ。
目の後ろの膨らみから、濁った液が一筋流れ、疣のあいだで止まった。
かつは顔を背けた。だが、さちを抱き寄せようとはしなかった。
「助けていただいたのでしょう」
母はヒキガエルを見ないまま言った。
「それなら、お礼をしなくてはなりませんね」
「お母様まで、何を言ってるの」
「何もおかしなことは言っていませんよ」
その声には、娘をなだめるときの優しさがあった。
さちは姉たちを見た。二人とも顔を青ざめさせている。一人は今も袖で鼻と口を覆っていた。
それでも、目が合うと、姉は困ったように言った。
「今日だけなのでしょう」
「今日が終わるまで我慢すれば済むことよ」
もう一人もそう言った。
二人とも、このヒキガエルと同じ部屋にいたくないことは明らかだった。ただ、自分たちが我慢するのではないから、約束は守られるべきだと思っているようだった。
「我慢するのは私だよ」
さちが言った。
誰も答えなかった。
「この蛙が何を望んでいるのか、話しなさい」
次郎が促した。
さちは答えたくなかった。
座敷にいる全員が自分を見ている。
ヒキガエルも見ていた。
「……家へ行きたいって」
「もう来ておられるな」
「私と同じものを食べたいって」
次郎の視線が、さちの膳へ落ちた。
「私が飲むものを、自分も飲みたいって」
誰も口を挟まない。
「そばに置いてほしいって」
言い終えると、座敷はしんとした。
膳の上では、食べかけの夕餉が冷め始めていた。つい先ほどまで家族の声と笑いに満ちていた場所に、泥と、ヒキガエルの皮膚から出る青臭い匂いが広がっている。
次郎はしばらく考えた。
「ならば、そうして差し上げなさい」
「……何を?」
「お前と同じものを召し上がりたいのだろう」
次郎は、さちの隣にある空いた場所を示した。
「膳を用意すればよい」
「ここで?」
「皆で夕餉を囲んでいるのだから、ちょうどよい」
さちは言葉を失った。
「お父様、あれを見て」
「見ている」
「あれと一緒に食べろって言うの?」
「お前が約束したことだ」
「嫌」
「おさち」
「嫌!」
ヒキガエルの広い口が、ゆっくり開いた。
内側は淡い肉色をしていた。厚い舌が口の底へ折り畳まれ、透明な粘液に濡れている。短い呼吸に合わせ、口の奥の柔らかな肉がかすかに震えた。
かつが顔を背けた。姉の一人は喉を押さえ、吐き気を堪えるように息を止めた。まつも一歩下がった。
その反応を見ても、次郎は考えを変えなかった。
「お待たせするものではない」
次郎はまつへ顔を向けた。
「この方の膳を用意しなさい」
まつの顔が強張った。
「私が、でございますか」
「そうだ」
まつはヒキガエルを見た。それから畳に残る泥の染みへ目を落とし、眉を寄せた。
それでも、やがて頭を下げた。
「かしこまりました」
さちは座敷の中を見回した。
父。母。姉たち。まつ。廊下には乙吉と喜衛門がいる。
昔から知っている顔ばかりだった。
熱を出せば母が夜通しそばにいた。父に叱られて泣けば、まつがあとから慰めてくれた。姉たちと喧嘩をしても、次の日にはまた同じ膳を囲んだ。
つい先ほどまで、ここには笑い声があった。
父の話を聞き、母がたしなめ、姉たちが笑っていた。さちもその中にいた。
外でどれほど恐ろしいことがあっても、家へ帰れば大丈夫だと思っていた。
戸を閉めればよい。
父に言えばよい。
母のところへ逃げればよい。
けれど今、家族はヒキガエルを恐れ、嫌悪しながら、それでも夕餉の席へ迎えようとしている。
「嫌なの」
さちは言った。
「約束したけど、嫌なの」
かつが、聞き分けのない娘を見る目をした。
「わがままを言ってはいけません」
「わがままじゃない」
「自分からした約束でしょう」
「誰か、追い出してよ」
誰も動かなかった。
次郎は厳しい顔をしていた。かつは困ったようにさちを見ている。姉たちはヒキガエルから目を逸らしながらも、助けようとはしなかった。
「約束したことは守りなさい」
次郎が言った。
ヒキガエルが動いた。
前脚の四本の指が畳の縁へ掛かった。丸く鈍い指先が藺草を押し分け、後脚が身体を前へ運ぶ。
ぬちゃり。
腹が畳へ触れ、泥を含んだ水が薄い染みを作った。
ヒキガエルは、さちの隣にある空いた場所へ向かって進んだ。
さちは一歩下がった。
そのぶんだけ、ヒキガエルが近づいた。
黒い目は、初めから一度もさちを見失っていなかった。
老人の姿はどこにもない。
それでも、家の奥深くで、
じゃらり。
錆びた鉄の輪が鳴った。
やがて、誰も座っていなかった場所へ、新しい膳が運ばれてきた。
そこへ座るのが人ではないことは、誰の目にも明らかだった。かつも姉たちも、なお嫌悪を隠せずにいた。
それでも、かつは膳の位置を確かめ、次郎は席を勧めるように手を差し出した。
夕餉はまだ終わっていなかった。
ただ一つ、新しい席が増えていた。
その席は、さちのすぐ隣に用意されていた。




