十二幕 夕餉
膳には、さちのものと同じ飯と汁、焼き魚、煮物が並んでいた。二つの膳の椀から、白い湯気が立ち昇っている。
炊いた米。味噌。焼いた魚。
ほんの少し前まで、それは田原屋の夜の匂いだった。家族の声に囲まれて嗅ぐ、温かく穏やかな匂いだった。
いまは、その下に、ヒキガエルが引きずり込んだ湿った土と水草の青臭さが混じっている。
ヒキガエルは、さちのすぐ隣に蹲っていた。
「食べる」
男の声で言った。
広い口が開いた。ヒキガエルの身体から出ているとは思えないほど、低く、はっきりした声だった。
さちは身を引いた。
「そっちに用意してあるでしょう」
「お前と食べる」
「私はもういらない」
「私はまだ食べていない」
「勝手に食べればいいじゃない」
「お前も食べる」
ヒキガエルの黒い目が、さちを見た。
「私の望むことには、何にでも応じると約束した」
さちは何も言えなかった。
沼で交わした言葉を、このものは一つも忘れていない。
御主人様がお望みになることなら、何であれ。
老人はそう言った。
自分は、何でもすると答えた。水底の手毬を取り戻すことしか考えていなかった。蛙が何を望むのかなど、考えようともしなかった。
次郎は、自分の膳の前に座ったまま、さちとヒキガエルを見ていた。目の前のものが男の声で話したことにも、畳に泥水を落としていることにも、驚いた様子はなかった。
「おさち」
困った娘を諭すときの声だった。
「今日一日と約束したのであろう」
「でも、こんなものと一緒に食べるなんて」
「食事を共にしたいと仰っているだけだ」
あまりにも普通の言い方だった。
さちは母を見た。
かつはヒキガエルから少し顔を背けていた。平気でないことは、その強張った横顔を見れば分かった。
「お母様は平気なの?」
「平気ではありませんよ」
かつは眉を寄せた。
「でしたら――」
「それと約束とは別のことです」
母の声は静かだった。
蛙であることと、約束を守ることは別。気味が悪いことと、その望みに応じることも別。
さちには、家族がこの場のおかしさを一つずつ切り離し、最後に約束だけを残しているように思えた。
「お嬢様」
膳を整えたまつが、さちを促した。
「どうぞ、お座りくださいませ」
「食べたくない」
「ほんのひと口で結構でございます」
「どうして、私が」
まつの指先は強張っていた。ヒキガエルの近くへ手を伸ばすたび、触れないように細心の注意を払っている。
それでも膳は下げなかった。
「お客様がお待ちでございます」
「客じゃない。蛙でしょう」
まつは何か言おうとしたが、すぐには言葉が出てこないようだった。
そのとき、廊下の奥で鉄輪がかすかに触れ合った。
じゃらり。
まつは目を伏せた。
「お嬢様がお約束なさった方でございますから」
そう言って、膳の前から退いた。
父も母も姉たちも、さちが座るのを待っていた。誰も急かさなかった。その沈黙のほうが、叱られるよりも重かった。
何を言っても、もう同じだった。
自分で約束した。
だから守らなければならない。
さちは膳の前へ戻った。
ヒキガエルの身体が近かった。手を伸ばせば触れてしまうほどではない。それでも、さちが座ると、泥と水草の青臭さが鼻についた。
さちは身体を左へ寄せた。
「食べなさい」
次郎が言った。
「もういらない」
「ひと口でよい」
薬を嫌がる幼い子供へ言い聞かせるような声だった。
さちは箸を取った。指が震え、箸先が椀の縁へ触れた。
かちり。
飯をほんの少し取り、口へ入れた。
味はしなかった。
噛むあいだも、隣から向けられている黒い目が気になった。どうにか飲み込むと、ヒキガエルは自分のために用意された膳を見た。
飯も、汁も、魚もある。
けれど、動かなかった。
「食べないの?」
「お前のものを食べる」
さちは箸を止めた。
「同じものが、そっちにもあるでしょう」
「お前の膳から食べる」
「嫌」
すぐに答えた。
「これは私のものだもの」
ヒキガエルは何も言わなかった。黒い目が、さちの飯椀へ向けられた。
次郎もその椀を見た。
「分けて差し上げなさい」
「別の膳に、同じものがあるのに?」
「この方は、お前の膳から召し上がりたいのだ」
それだけだった。
さちは飯椀を見つめた。
白い飯が、行灯の明かりを受けている。つい先ほどまで、自分が食べていたものだった。
椀を膳の中央へ押した。
ヒキガエルが動いた。
前脚の四本の指が膳の縁へかかった。丸く鈍い指先が木を押さえ、後脚が身体を持ち上げる。湿った腹が膳の角を擦り、薄い泥の筋を残した。
ヒキガエルが飯椀へ顔を寄せた。
広い口が開く。
口の底に畳まれていた舌が、裏返るように伸びた。
舌の先が飯へ押しつけられた。いくつもの飯粒が、粘り気のある表面へ一度に貼りついた。
舌が口の中へ戻った。
ぺちゃ。
ヒキガエルは噛まなかった。
両の瞼が閉じ、盛り上がっていた目が頭の中へわずかに沈んだ。その動きに押し込まれるように、飯が喉の奥へ消えた。
喉の皮が一度、大きく膨らんだ。
さちは目を逸らした。
ぺちゃ。
もう一度、舌が伸びた。
口の端から飯粒が一つこぼれ、疣のある顎へ貼りついた。喉が動くたび、その粒も上下した。
「もういいでしょう」
「お前も食べる」
「いらない」
「同じものを食べる」
さちは家族を見た。
誰も口を開かなかった。
かつはヒキガエルを見ないようにしていた。姉の一人は青ざめ、もう一人は膝の上で指を固く組んでいる。まつも唇を引き結んだままだった。
皆、嫌がっている。
それでも、さちが箸を取るのを待っていた。
「今日だけです」
かつが言った。
「少しくらい、我慢なさい」
我慢なさい。
幼いころから何度も聞いた言葉だった。
薬が苦いとき。着物が窮屈だと文句を言ったとき。姉たちと思いどおりに遊べず、拗ねたとき。
いつもなら、その言葉に守られているような気がした。母は我慢すれば終わることと、本当に嫌がってよいこととを知っているのだと思っていた。
今夜は違った。
母の言葉の向こうに、口から飯粒を垂らしたヒキガエルがいる。
さちは箸を持ち直した。
舌が触れたところを避け、椀の端から飯を取った。それでも、いくつかの飯粒が粘り合い、箸についてきた。
吐き気が込み上げた。
飯を口へ運んだ。喉が狭くなり、何度噛んでも飲み込めない。
ヒキガエルが待っている。
さちがようやく飯を飲み込むと、再び舌を伸ばした。
ぺちゃ。
煮物も焼き魚も同じだった。さちが箸をつけるたび、ヒキガエルは同じ皿へ舌を伸ばした。さちが口へ運ぶのを待ち、そのあとで自分も食べた。
夕餉が終わりかけたころ、まつが茶を運んできた。
さちがいつも使っている湯呑だった。手の中に収まる大きさも、縁にある小さな欠けも知っている。
まつが差し出しても、さちは受け取らなかった。
「もういらない」
「お飲みくださいませ」
「どうして」
まつの手も震えていた。
それでも、湯呑を引こうとはしない。
「お客様がお待ちでございます」
さちはまつの顔を見た。
「私が嫌だと言っているのに」
まつは答えなかった。
父も母も姉たちも、黙っていた。
さちは湯呑を受け取った。
茶は少しぬるくなっていた。ひと口だけ飲み、すぐに膳へ戻す。
「同じ器から飲む」
ヒキガエルが言った。
「そこまで約束してない」
「私の望むことに応じると言った」
老人の声が、さちの耳の奥に蘇った。
そのようなお約束をなさって、よろしいのですかな。
老人は笑っていた。
長いあいだ待っていたものが、自分から罠へ入ってきた。そのことを喜ぶように。
あの老人は、こうなることを知っていたのだと、さちには思えた。さちが嫌がることも、逃げ帰った家で誰にも助けてもらえなくなることも、初めから見通していたのかもしれない。
「お前が先に飲んだのだから、もうよいだろう」
次郎が言った。
ヒキガエルが湯呑へ近づいた。
さちが口をつけたところへ、広い口の縁が重なった。人の飲み方を真似るように、舌を短く動かして茶をすくった。
ぴちゃ。
喉が膨らみ、縮んだ。
ぴちゃ。
湯呑の縁から、濁った雫が一筋垂れた。
さちは顔を背けた。
「いや……」
小さな声が漏れた。
夕餉は、家族そろって食べるものだった。
父と母がいて、姉たちがいる。奉公人が膳を運び、誰かが話し、誰かが笑う。
今夜も皆、そこにいた。
誰一人いなくなってはいない。いつもの顔をして、いつもの声で話している。
それなのに、さちの膳にはヒキガエルがいる。
自分が箸をつけた飯を食べ、自分が口をつけた湯呑から茶を飲んでいる。
そして誰も、止めてくれない。
ヒキガエルが湯呑から口を離した。
黒い目が、さちへ向けられた。
食事が済んでも、まだ帰るつもりはない。その目を見て、さちにはそれだけが分かった。
じゃらり。
錆びた鉄輪が鳴った。
今度は遠かった。
家の外。夜の町のどこか。あるいは、その向こうにある海から聞こえたようだった。
老人の姿はない。
ただヒキガエルだけが、家族の夕餉に加わり、さちのすぐ隣にいた。




