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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第01章 鉄輪の音
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十三幕 寝間

さちは、とうとう耐えられなくなった。


湯呑の縁には、飯粒の混じった濁った雫が残り、細い筋になって膳へ垂れていた。


それを見た途端、胃の奥から熱いものが込み上げた。


さちは膳を押し退け、立ち上がった。


「おさち」


次郎が呼んだ。


「どこへ行くのです」


かつの声もした。


けれど、さちは振り返らなかった。座敷を飛び出し、廊下を走った。裾が足へ絡みつき、何度かつまずきそうになったが、それでも足を止めなかった。


自分の寝間へ駆け込み、襖を閉めた。


引手から手を離したあとも、さちはその場に立ち尽くしていた。


これで大丈夫だと思ったわけではない。ただ、あ(・)れ(・)が見えなくなってほしかった。


自分の飯椀へ舌を伸ばした姿。両目を沈ませ、飯を喉へ押し込んだ姿。さちが口をつけたところへ、広い口を重ねた姿。


思い出すたびに喉が狭くなった。


さちは口元を押さえ、何度も息をした。


部屋の中は静かだった。


廊下の遠くを奉公人が歩いている。戸を閉める音がして、低い話し声が続いた。どこかで水を使っているらしく、桶の触れ合う音も聞こえた。


いつもの田原屋の夜だった。


見慣れた箪笥。畳。壁際に畳まれた着物。すでに敷かれた夜具。


幼いころから、何度も眠ってきた部屋だった。熱を出した夜には、まつが枕元へ水を置いた。雷が鳴れば、母が様子を見に来た。姉たちと喧嘩をして泣いたときも、夜になればここへ戻った。


この部屋へ入れば、一人になれた。


今夜も、そうであってほしかった。

さちは着物を脱ぎ、白い寝間着に袖を通した。いつもの夜と同じことをしていれば、沼での出来事も遠ざかるような気がした。


今日一日、御主人様がお望みになることには、何であれ応じる。


老人はそう言った。


夜は深まりつつある。あと少し耐えれば今日が終わる。そうすれば、約束も終わる。


さちは夜具のそばへ座った。


あと少し。


それだけを考えようとした。


ぺたり。


音がした。


さちは顔を上げた。


ぺたり。


廊下を、何かがゆっくり歩いてくる。


ヒキガエルは夕餉の座敷へ残してきたはずだった。父も母も、姉たちもいた。まつも、ほかの奉公人たちもいる。


それなのに、誰も止めなかった。


ぺたり。


音は寝間の前で止まった。


さちは息を殺した。


襖の向こうから、湿った土の匂いがした。食べ物の混じった生臭い息が、わずかな隙間を通って部屋へ入ってくるようだった。


「……来ないで」


返事はなかった。


「ここには入ってこないで」


しばらく、何も聞こえなかった。


さちがわずかに息を吐いたときだった。


じゃらり。


錆びた鉄輪の音が、耳のすぐ後ろで鳴ったように聞こえた。


次の瞬間、襖が勢いよく開いた。


引手に触れる者は、どこにもいなかった。


開いた襖の向こうに、ヒキガエルが蹲っていた。


やがて、一本の前脚が畳へ出た。


四本の指が開き、丸く鈍い指先が藺草を押さえた。続いて疣だらけの頭が入り、もう一方の前脚が敷居を越えた。


「いや」


さちは立ち上がった。


「来ないでって言ったでしょう!」


ヒキガエルは止まらなかった。


前脚へ重みを移し、太い後脚で身体を押す。腹が畳へ触れるたび、貼りついていた泥が小さな染みを作った。


ぺたり。


一歩。


少し間を置いて、もう一歩。


食事の席では、家族の声や器の音があった。静かな寝間では、腹が畳へ触れ、離れる音まで聞こえた。


寝間の出入り口は、いま開いた襖だけだった。ヒキガエルは敷居を越えたあとも、さちと襖との間を外れなかった。


さちが右へ動くと、ヒキガエルも右へ顔を向けた。左へ寄ると、太い前脚が同じほうへ動いた。


廊下へ出るには、その脇を抜けるか、上を跨ぐしかない。


横には、人が通れるだけの余地があった。小さな身体を跨ぐことも、できるはずだった。


けれど、足元であの口が開き、疣だらけの背や濡れた腹が脚へ触れるところを想像すると、身体が動かなかった。


ヒキガエルの黒い目が、さちへ向いた。


「もう終わりでしょう」


「まだだ」


静かな寝間で聞く男の声は、夕餉の席で聞いたときよりも近く、生々しかった。


「もう夜だよ」


「まだ今日だ」


「一緒にご飯も食べた。私の膳から食べて、同じ器から飲んだでしょう」


「まだ望みがある」


さちは、襖からさらに遠ざかるように、夜具の向こう側へ回った。


「何をしたいの」


「眠りたい」


「なら、そこで眠ればいい」


「お前と眠る」


さちは返事ができなかった。


ヒキガエルの喉が、ゆっくり膨らみ、萎んだ。


「夜具へ入れてくれ」


「嫌」


「お前のそばで眠る」


「絶対に嫌」


ヒキガエルが一歩近づいた。


その歩みは遅かった。人なら一息で詰められる距離を、長い時間をかけて進んでくる。それでも、ヒキガエルはさちと襖との間に居続けた。


廊下へ逃げるには、どうしてもそのそばを通らなければならない。さちには、それができなかった。


助けを求めても、何と言われるのかは分かっていた。


お前がした約束だろう。


今日だけなのだから我慢しなさい。


家のどこへ逃げても、同じ言葉が待っている。


「人を呼ぶよ」


さちは言った。


「呼べばいい」


ヒキガエルは少しもためらわなかった。


その一言で、胸の内に残っていた望みが消えた。


こ(・)れ(・)も知っているのだ。


誰かを呼んでも、自分が追い出されることはないと。


「もう帰って」


さちは声を抑えて言った。


「お願いだから、帰って」


「帰らない」


「どうして」


「お前がいる」


ヒキガエルは夜具のそばまで来た。


黒い目で、敷かれた布団を見た。


「ここで眠る」


「駄目」


「お前も来る」


「行かない」


「来い」


「嫌!」


ヒキガエルが身体を持ち上げた。


前脚が夜具へかかった。四本の指が布を押さえ、後脚が身体を押し上げる。湿った腹が縁へ載り、白い布に薄茶色の跡を残した。


「やめて!」


さちの声が裏返った。


ヒキガエルは構わず、夜具の中央まで進んだ。


布団の表が、その重みで浅く窪んだ。毎夜、さちが横たわる場所だった。顔を載せる枕も、肩まで引き上げる掛け物も、すぐそばにある。


ヒキガエルは腹をつけたまま頭を巡らせ、枕へ顔を向けた。


「降りて」


黒い目がさちへ戻った。


「そこは私の寝床なの。降りてよ」


ヒキガエルは動かなかった。


「気持ち悪い」


返事はない。


「大嫌い」


その言葉にも、目の色は変わらなかった。


やがて、広い口が開いた。


「その柔らかな肌で、私を楽しませてくれ」


さちは息を止めた。


一瞬、何を言われたのか分からなかった。


けれど、その言葉が食べ物や器を求めたものではないことは分かった。同じ夜具で眠りたいというだけでもなかった。


ヒキガエルの望みは、さちの身体へ向けられていた。


「……嫌」


声は、ほとんど出なかった。


ヒキガエルが夜具から下りた。


ぺたり。


こちらへ歩いてくる。


その背後に、開いた襖が見えた。だが、そこへ行くには、ヒキガエルのすぐそばを通らなければならなかった。


さちは壁際まで下がった。背中が壁へ触れた。


もう退けなかった。


ヒキガエルの口元には、煮物の汁が乾きかけていた。顎の疣には、白い飯粒が一つ残っている。


「来ないで」


ヒキガエルは止まらない。


「触らないで」


「約束した」


「そんなこと、約束してない!」


「私の望みには応じると言った」


老人の声が、耳の奥に蘇った。


そのようなお約束をなさって、よろしいのですかな。


あの細い目。


さちが何でもすると答えたとき、痩せた顔へ浮かんだ笑み。


さちには、老人がすべてを知っていたように思えた。


ヒキガエルが何を望むのかも、さちがどれほど嫌がるのかも。知ったうえで、あの約束をさせたのだ。


恐ろしかった。


男の声も、瞬きもしない黒い目も、さちの身体を求める言葉も、すべてが恐ろしかった。


けれど、逃げる場所を失った恐怖の底から、別のものが込み上げてきた。


怒りだった。


「ふざけないで」


ヒキガエルが、さちの足元まで来た。


前脚が持ち上がった。


四本の指が、着物の裾へ触れた。


「触らないで!」


さちは叫んだ。


身体が先に動いた。


腰を屈め、両手でヒキガエルの胴を掴んだ。


冷たかった。


背は乾いてざらつき、硬い疣が掌へ食い込んだ。腹側の皮膚は柔らかく湿っていた。強く掴んだためか、目の後ろの膨らみから乳白色の液が滲み出し、さちの指へついた。


青臭い匂いが鼻を突いた。


吐き気が込み上げた。


ヒキガエルは両手に収まるほどの身体だったが、身の詰まった重さがあった。前脚が宙を掻き、開いた口から低い息が漏れた。


さちは手を離さなかった。


怖かった。


気持ちが悪かった。


それ以上に、腹が立っていた。


約束したからといって、自分の身体まで好きにされてよいはずがない。


父が何と言おうと、母が何と言おうと、家中の者が約束を守れと言おうと、嫌なものは嫌だった。


「大っ嫌い!」


さちは両腕に力を込めた。


ヒキガエルを持ち上げた。指についた乳白色の液で皮膚が滑り、危うく取り落としそうになった。それでも胴を掴み直し、腰を捻った。


そして、ありったけの力で、


壁へ投げつけた。


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