十四幕 人間
鈍い音がした。
ヒキガエルは壁に当たり、畳へ落ちた。一度だけ転がり、壁際で止まった。
静かな寝間では、その音がひどく大きく聞こえた。
さちは投げた姿勢のまま、動けなかった。
両手を胸元へ引き寄せた。
掌には、まだヒキガエルの感触が残っていた。冷たく湿った腹。乾いてざらついた背。無数に盛り上がった硬い疣。目の後ろから滲み、指へついた乳白色の液。
白い寝間着へ何度擦りつけても、匂いまで皮膚へ染み込んだように思えた。
「……いや」
小さな声が漏れた。
壁際のヒキガエルは動かなかった。
腹は膨らまない。喉の薄い皮にも、呼吸の動きはなかった。四肢を投げ出し、黒い目を半ば開いたまま横たわっている。
壁へ当たった側の目は、瞼の下で形を崩していた。同じ側の前脚の付け根から胴にかけても、潰れたように歪んでいる。
後脚は二本とも不自然だった。一本は身体の下へ巻き込まれ、関節ではないところで曲がっている。もう一本も途中から外側へ折れ、足先があり得ない方向を向いていた。
先ほどまで男の声で話していたものが、今は一匹の傷ついたヒキガエルとして転がっていた。
「……死んだの?」
返事はなかった。
怒りに任せて投げた。
あのときには、何も考えていなかった。ただ触られたくなかった。近づいてほしくなかった。
それだけだった。
けれど、ヒキガエルは動かない。
自分が殺したのだ。
そう思った途端、怒りの熱が消え、腹の底から別の恐ろしさが込み上げてきた。
「だって……」
さちは誰にともなく呟いた。
「嫌だって言ったのに、来るから……」
ヒキガエルは動かない。
「何度も言ったのに」
言葉を重ねても、何も変わらなかった。
寝間の中は静かだった。
先ほどの物音を誰かが聞きつけたのではないかと思ったが、廊下から足音は近づいてこなかった。父も母も、ヒキガエルがこの部屋へ入ったことを知っている。さちが約束を果たしていると思い、気にも留めていないのかもしれない。
誰かを呼ぶこともできた。
けれど、壁際のものを見つけられたら、何と話せばよいのだろう。
嫌だったから投げた。
その一言で済むのだろうか。
さちは目を離せなかった。
そのとき、身体の下へ巻き込まれていた後脚が動いた。
ほんのわずかに、ぴくりと震えた。
さちは息を呑んだ。
「……生きてる?」
返事はない。
後脚がもう一度動いた。
今度は痙攣ではなかった。
折り畳まれていた脚が、ゆっくりと伸び始めた。
さちは目を見開いた。
灰褐色の皮膚が張り、その下で骨の位置が変わっていく。太く短かった脚は長くなり、関節が少しずつ移っていった。
みし。
湿った小枝を曲げるような音がした。
壁からではない。
ヒキガエルの身体の中から聞こえていた。
もう一方の後脚も伸び始めた。
二本の脚には、折れた箇所がそのまま残っていた。一方は脛になる途中から下が外側へ折れ、もう一方は腿になる部分から先が内側へ捻れている。脚が長くなるほど、関節ではないところで曲がった形が際立った。
丸かった足先も形を変えた。
趾が短く太くなり、先端に人の爪が現れた。皮膚の色が薄くなり、足の甲と踵ができていく。
人の脚だった。
けれど、二本とも折れたままだった。
「何……」
さちは一歩下がった。
前脚も伸び始めた。
太かった骨が細長くなり、肘と手首が形を取る。四本だった指のあいだの皮膚が盛り上がり、そこから新しい一本が伸びた。五本になった指はさらに細長くなり、人の手へ変わっていった。
片方の腕はまっすぐ伸びた。
壁へ当たった側の腕は違った。人の腕へ変わっても、肩から上腕にかけて潰れたように歪み、途中から不自然な方向へ折れたまま、身体の下へ力なく垂れた。
みし。
こき。
骨と関節が、狭い皮膚の内側で組み替わっていく。
ヒキガエルの胴が大きく震えた。
背に密集していた疣が波打ち、一つずつ低くなっていった。皮膚の盛り上がりが沈み、黒い斑も薄れていく。
胴が長くなった。
前脚の付け根が左右へ広がり、肩になった。胸が形を持ち、腹が狭まり、腰が現れた。
壁へぶつかった側だけは、きれいな形にならなかった。
肩の下から胸にかけてが内へ押し込まれ、脇腹にも深い窪みが残った。ヒキガエルだったときの小さな損傷が、そのまま人の身体へ引き延ばされていく。
さっきまで両手に収まっていた身体は、畳の上で急速に大きくなった。
さちはさらに後ろへ下がった。背中が反対側の壁に当たった。
襖を開けて逃げればよい。
そう思っても、足は動かなかった。
目の前で起きていることから、目を逸らせなかった。
灰褐色だった皮膚から色が抜けていった。
血の気のない白さが現れ、その下に細い血管が浮かんだ。疣はほとんど消え、乳白色の液に濡れた皮膚だけが行灯の明かりを鈍く返していた。
人の肌だった。
「……人?」
掠れた息が漏れた。
頭の形も変わり始めた。
平たかった頭が持ち上がり、後ろへ長くなる。横に裂けていた口の両端が内側へ寄り、顎の形が細くなった。
顔の中央が盛り上がる。
鼻梁が生まれ、二つの鼻孔が人の鼻へ変わった。
口が人の形になった直後、唇の隙間から赤いものが滲んだ。
血だった。
丸く突き出ていた両目も、顔の中へ沈んでいく。
片方は瞼の奥へ収まり、人の目になった。
壁へ当たった側は、そうならなかった。眼球は形を崩したまま眼窩へ押し込まれ、腫れた瞼の際から血が流れた。
さちは声を出せなかった。
額が現れた。
頭頂の皮膚が黒ずみ、濡れた糸のようなものが伸びてくる。短い黒髪が額とこめかみへ貼りついた。
耳が形を取った。
壁へ当たった側の耳からも、暗い血が滲んだ。
変化は止まらなかった。
だが、いつ終わったのか、さちには分からなかった。
あるときまでは、そこにいたのは傷ついたヒキガエルだった。
次に目を瞬いたときには、壁際に若い男が倒れていた。
二十歳をいくらも越えてはいないように見えた。
何一つ身につけていなかった。裸の身体を畳へ崩し、折れた片腕を身体の下へ巻き込んでいる。もう一方の腕は壁際へ伸び、両脚はどちらも関節ではないところで折れ曲がっていた。
見知らぬ男だった。
さちは壁へ背をつけたまま、動けなかった。
男の身体には、ヒキガエルが受けた損傷が残っていた。片方の肩は落ち込み、胸の一部が内側へ沈んでいる。脇腹から腰にかけても、壁へ強く打ちつけられたように歪んでいた。
男は動かなかった。
胸も上下しない。
鼻から流れた血が、頬に細い筋を作った。わずかに開いた唇の端にも、赤黒いものが滲んでいる。
片方の耳から垂れた血は、濡れた髪と首筋を伝った。傷ついた目の周りから流れた血も、頬を伝って顎へ落ちた。
ぽたり。
畳に血が一滴落ちた。
少し間を置いて、もう一滴落ちた。
湿った藺草の匂いに、鉄の生臭さが混じった。
さちは目を逸らせなかった。
男だ。
人間だ。
頭の中には、その二つの言葉しか浮かばなかった。
ヒキガエルではない。
さちは自分の手を見た。
その手で掴んだのはヒキガエルだった。
この男には触れていない。
一度も。
それなのに、自分の寝間に、裸の見知らぬ男が倒れている。
両手を広げた。
掌にも、指にも、爪のあいだにも血はついていなかった。白い寝間着にも、赤い染みはなかった。
それでも、男の顔には血が流れていた。
「違う……」
ようやく声が出た。
誰も答えない。
「私、この人には触ってない」
男は動かない。
「触ってないの」
口にした途端、かえって恐ろしくなった。
誰に弁明しているのだろう。
まだ誰も寝間へ来ていない。何も訊かれていない。
それなのに、さちはもう言い訳を始めていた。
「蛙だったの」
小さな声で言った。
「蛙だったのに……」
壁際の男を見た。
若く、整った顔立ちだった。
けれど、生きている者の色はなかった。変身の途中で負った傷も、顔に残った血も、そのまま消えずに残っていた。
畳へ落ちた血は、小さな染みとなって暗くなっていった。
さちは膝から力が抜けそうになった。それでも、その場では座ることさえできなかった。
壁際に死体がある。
離れたかった。
だが、背を向けることもできなかった。
目を逸らした途端、男の脚がまた縮むのではないか。人の肌に疣が浮かび、口が横へ裂け、あの黒い目で自分を見るのではないか。
あるいは、今度はもっと別のものへ変わるのではないか。
そんな気がした。
だから、さちは見ていた。
壁際に倒れた男を。
畳へ落ちた血が、次第に暗くなっていくのを。
自分の寝間に現れた、見知らぬ若い男を。
やがて脚が身体を支えきれなくなり、さちは夜具の上へ座り込んだ。
男から目を離さないまま、その夜、さちは一度も眠らなかった。




