十五幕 発覚
障子の向こうが青み始めた。壁際の男は、夜のあいだ一度も動かなかった。ヒキガエルへ戻ることも、消えることもなかった。
庭で最初の鳥が鳴き、台所では竈に火が入った。廊下を行き来する足音も聞こえ始めた。
田原屋が目を覚ましていく。
昨夜、ヒキガエルを壁へ投げたとき、鈍い音がした。静かな寝間では、ひどく大きく聞こえた。誰かが来ると思った。父でも、母でも、まつでもよかった。何があったのかと、襖を開けてくれると思った。
けれど、誰も来なかった。
いま思えば、家の者たちはヒキガエルがさちの寝間へ入ったことを知っていた。約束を果たしているのだと思い、近づかなかったのかもしれない。
「お嬢様」
廊下から、まつの声がした。
さちの身体が強張った。
「お嬢様。朝餉のお時間でございます」
昨夜から何度も想像していた瞬間だった。
誰かが来る。襖が開く。男が見つかる。
想像するたびに恐ろしくなった。けれど、その瞬間が本当に来ると、何をすればよいのか分からなかった。
「お嬢様?」
まつの声が近くなった。
さちは口を開いた。喉がからからに乾き、声は出なかった。
「失礼いたしますよ」
襖が開いた。朝の薄い光が、廊下から差し込んだ。
まつは最初に、夜具の上に座っているさちを見た。
「まあ、お嬢様。もう起きて――」
そこで言葉が止まった。
まつの目が、さちの向こうへ動いた。
壁際の男。畳に残る血の染み。不自然に折れた手足。
ほんの一瞬、まつは何を見ているのか分からない顔をした。
次の瞬間、悲鳴を上げた。
「きゃああああっ!」
声が家じゅうへ響いた。
まつは廊下へ下がり、敷居につまずきかけた。片手を床について身体を支え、壁際を指さした。
「ひ、人が……人が死んでおります!」
足音がした。
一つだったものが、すぐにいくつもの足音になった。人が走り、戸が開き、何事だと呼び合う声が奥へ集まってくる。
昨夜とは違う。
今度は、本当の騒ぎだった。
最初に寝間へ駆けつけた乙吉は、まつを退けて中を覗いた。
「どうした――」
その声も途中で止まった。
乙吉の目が男へ向き、顔色が変わった。
「お嬢様、そこを動かないでください」
さちは、もともと動いていなかった。
乙吉は廊下を振り返った。
「旦那様をお呼びしろ。早く!」
奥から、かつがやって来た。その後ろには二人の姉もいた。
「何があったのです」
「奥様、まだ入られては――」
乙吉が止めようとしたが、かつは寝間の中にいる娘を見つけた。
「おさち?」
それから男を見た。
かつは口元を手で覆った。姉の一人はその場で足を止め、もう一人は小さく息を呑んで顔を背けた。
「この人は……誰なの」
「分かりません」
乙吉が答えた。
かつはさちのそばへ行こうとした。だが、男の身体と、そのそばに残った血の染みを見て足を止めた。
「おさち。怪我はないの?」
さちは首を横に振った。
その問いを聞いた途端、涙が出そうになった。
昨夜までと同じ母の声だった。さちを心配する、いつもの母だった。
「お母様」
ようやく声が出た。
「この人……」
その先が続かなかった。
「こちらへいらっしゃい」
「違うの」
「何がです」
「昨夜は、この人じゃなかったの」
かつが眉を寄せた。
「何を言っているの?」
そこへ次郎が来た。夜着の上から急いで羽織を着たらしく、帯もいつもより乱れていた。
後ろには番頭と喜衛門が続いている。廊下には、ほかの奉公人たちも集まり始めていた。
「人が死んでいるというのは――」
次郎は寝間へ入り、壁際を見た。
足が止まった。
「……誰だ、これは」
誰も答えられなかった。
次郎は男へ近づいた。裸の身体、顔に残った血、不自然に折れた手足を順に確かめる。触れはしなかった。
やがて立ち上がり、番頭を振り返った。
「県庁の邏卒課へ知らせろ。人が一人、死んでいる。邏卒に来てもらえ」
「承知いたしました」
番頭は廊下にいた若い奉公人を呼び止めた。
「お前、すぐに走れ」
「はい」
奉公人は人垣を抜け、廊下を駆けていった。
遠ざかる足音を聞いて、さちの胸が強く縮んだ。
家の中だけのことではなくなった。もう、外の者がここへ来る。
次郎は娘へ向き直った。
「おさち」
さちは父を見上げた。
父は、昨夜のヒキガエルを見ているはずだった。
最初は、あのようなものを奥へ入れるなと怒った。そして鉄輪の音が鳴ったあと、約束を守れと言った。さちの膳から飯を食べさせ、同じ器から飲むことまで許した。
すべて見ていたはずだった。
「この男は誰だ」
さちは唇を動かした。
「昨夜の蛙なの」
寝間の中が静かになった。
次郎は、しばらく娘を見つめた。
「何?」
「昨夜、家へ来た蛙」
「何を言っている」
「壁に投げたら、この人になったの」
次郎の顔に浮かんだのは、怒りではなかった。ただ、意味が分からないという表情だった。
「本当なの」
さちは立ち上がろうとした。
一晩同じ姿勢でいたため、脚が痺れていた。膝に力が入らず、身体が大きく傾いた。
かつが慌てて腕を伸ばした。さちは母に縋りついた。
「お母様も見たでしょう」
「何を?」
「蛙」
かつは困惑したまま、さちの顔を見た。
「昨夜、ヒキガエルが来たでしょう。お母様も、お父様も、おまつも、みんな見た」
「おさち、落ち着きなさい」
「見たでしょう!」
声が大きくなった。
「夕餉の座敷にいたでしょう。私の隣に膳を置いたでしょう!」
かつの腕に力が入った。
娘を支えるためなのか、それ以上動かさないためなのか、さちには分からなかった。
「そのようなものは見ていません」
母は静かに言った。
さちは、まつを見た。
「おまつは覚えてるでしょう」
まつの顔が強張った。
「何をでございますか」
「蛙を。昨夜、私の寝間まで来た蛙を」
「私は、そのようなものを見ておりません」
「嘘」
「嘘ではございません」
まつの声は震えていた。
けれど、それは記憶を隠している者の震え方ではなかった。さちが何を言い出すのか分からず、怯えているように見えた。
「乙吉も、喜衛門も見たでしょう」
二人へ目を向ける。
喜衛門は戸惑った顔で乙吉を見た。乙吉も首を横に振った。
「私どもが、蛙を見たのでございますか」
「店から入れたじゃない!」
「私どもが?」
「私のお客だからって、奥まで通したでしょう!」
二人とも答えなかった。
二人の顔を見るかぎり、本当に覚えていないようだった。
さちは次郎を見た。
「お父様が言ったの。助けてもらって約束したなら、約束は守らなきゃいけないって」
「何の約束だ」
次郎はすぐに訊き返した。
さちは息を詰まらせた。
父は嘘をついていない。
かつも、まつも、乙吉も、喜衛門も。
誰も芝居をしていない。本当に、何も覚えていないのだ。
「手毬……」
さちは呟いた。
急に、箪笥の奥へ隠したものを思い出した。
「手毬がある」
かつの腕を振りほどき、部屋の隅へ向かった。
「おさち?」
呼び止める声を聞かず、箪笥の奥から布包みを引き出した。指が震え、結び目をうまく解けない。爪を掛け、布を無理に開いた。
黄金色の手毬が現れた。
絹糸にはまだ湿りが残り、ところどころに乾きかけた泥がついている。黄金色の中を横切る、一本の赤い糸もあった。
「これ」
さちは手毬を両手で差し出した。
「これを蛙が取ってくれたの」
次郎も、かつも、手毬を見た。
「沼へ落ちたから濡れてるの。泥もついてるでしょう」
「昨日、お前が新田へ行ったことは聞いている」
次郎が言った。
「そこで手毬を落としたのだろう」
「そうだけど、私には取れなかったの」
「誰かに拾ってもらったのではないのか」
「だから、蛙が取ったの!」
さちの声が掠れた。
父の言うとおり、手毬は濡れていた。泥もついている。
けれど、それだけだった。
この手毬は、誰が水から拾ったのかまでは話してくれない。
さちは手毬を胸へ抱いた。
「沼に、老人がいたの」
息を整える間もなく話し始めた。
「お坊様みたいな姿で、錫杖に鉄の輪が三つついてた。太一が話していた海坊主と同じだった。潮と錆びた鉄の臭いがして……」
家族は黙って聞いている。
「その老人が、ヒキガエルのことを御主人様って呼んでた。『御主人様なら手毬を取れる』って言ったの。だから私、何でもするから取ってって頼んだ」
言葉が次々に溢れた。
「今日一日、あの蛙が望むことには何にでも応じるって約束した。そうしたら蛙が沼へ入って、鼻先で手毬を岸まで押してきた。それから男の声で話したの。私の家へ行くって」
さちは廊下にいる者たちを見回した。
「本当に来たの。表から入ってきた。乙吉も喜衛門も、私のお客だって言った。お父様たちは最初、追い出そうとした。でも、じゃらりって音がして、それから皆、おかしくなった」
話しているうちに息が苦しくなった。それでも止めなかった。
止めれば、昨夜のことが本当に消えてしまうような気がした。
「約束を守りなさいって言われた。おまつが、蛙の膳を私の隣へ置いた。私の膳の飯や煮物を食べて、私の湯呑にも口をつけた」
まつは青ざめていた。
「私が、その膳をお運びしたのでございますか」
「そうよ」
「昨夜の夕餉には、いつもの膳しかお運びしておりません。お嬢様のお隣へ、別の膳をお運びした覚えはございません」
「運んだ!」
「ですが……」
まつは言葉を失った。
さちは父へ向き直った。
「そのあと、蛙が寝間まで来た。一緒に眠るって言った。触ろうとしたから、私、壁へ投げたの」
男の死体を指した。
「そうしたら、この人になった」
誰も口を挟まなかった。
座敷からここまでヒキガエルが歩いたことも、畳へ湿った腹を擦りつけたことも、男の声で話したことも、すべて話した。
それでも、家族の顔には何の記憶も浮かばなかった。
「そのとき、大きな音がしたのに、誰も聞いていないの?」
次郎は首を横に振った。
「何も聞いていない」
かつも、まつも答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
誰も聞いていない。誰も見ていない。誰も覚えていない。
次郎が低い声で言った。
「昨夜の夕餉は、いつもと変わらなかった」
「違う」
「皆で夕餉を取り、お前は途中で寝間へ戻った。それだけだ」
かつも、小さく頷いた。
姉たちも同じ顔をしていた。番頭も、乙吉も、喜衛門も、まつも、昨夜を疑っていなかった。
家人たちにとって、昨夜はただの夜だった。
いつものように夕餉を食べ、膳を下げた。夜番に当たる者は夜番をし、それぞれがいつもの務めを果たした。
さちには、昨夜の怪異にまつわる皆の記憶だけが、何事もなかった夜の記憶へ塗り替えられているように思えた。
ヒキガエルが田原屋へ来たことも、それをさちの客として通したことも、錆びた鉄輪の音を聞いたことも、皆の記憶の中にはなかった。
残っているのは、さちの手にある、濡れて泥のついた手毬。
そして、壁際に横たわる、見知らぬ男の死体だけだった。
「そんな……」
さちは呟いた。
手毬を見た。男を見た。
昨夜の出来事が夢なら、この二つは何なのだろう。
手毬は確かに濡れている。男は確かに死んでいる。
この男がここにいることだけは、誰も否定していなかった。まつも、母も、父も、姉たちも、番頭も奉公人たちも、皆が同じ死体を見ている。
それなのに、その男がここへ来るまでのことだけを、誰も知らない。
さちだけが知っている。
「本当なの」
もう叫ぶ力もなかった。
手毬を胸へ抱いた。
「本当に、蛙だったの」
誰も答えなかった。
さちは父を見た。母を見た。姉たちを見た。まつを見た。
知っている顔ばかりだった。昨夜と同じ顔。声も眼差しも、いつもの家族のものだった。
それなのに、昨夜を知っている者は、一人もいなかった。




