十六幕 検分
人が死んでいる。それだけで、田原屋の内輪の騒ぎでは済まなかった。まして、どこの誰とも知れぬ若い男が、十三歳の娘の寝間で裸のまま死んでいたのである。
次郎がどれほど顔の広い商人であろうと、遺体を勝手に片づけることはできなかった。
使いは朝のうちに県庁へ走った。
田原屋は朝の商いを取りやめた。大戸は半ばまで下ろされ、表の出入りも止められていた。
いつもなら荷を担いだ男たちが出入りし、帳場では算盤が鳴っている時分だった。だがその朝、店には物音を立てることさえ憚られるような静けさがあった。
奉公人たちは持ち場へ戻れず、奥では女中たちが声を潜めていた。
「見ていないものを見たように言うな。聞かれたことにだけ答えろ」
番頭が皆にそう言い、乙吉も奉公人たちへ余計な口をきかぬよう念を押していた。
けれど、見たことだけを話せと言われても、話すべきことはほとんどなかった。
昨夜、見知らぬ男が店へ入るところを見た者はいない。廊下を通る姿も、さちの寝間へ向かう姿も、誰一人として覚えていなかった。
家人たちの記憶の中では、昨夜は何事もなく終わっている。夕餉を済ませ、膳を下げ、戸締まりをした。夜番の者はそれぞれの務めにつき、ほかの者は寝所へ引き取った。
それだけだった。
それなのに夜が明けると、男だけが死んでいた。
日が高くなる前に、県庁から役人と邏卒が来た。
取締の者を邏卒と呼ぶようになって、まだ日が浅い。新しい世になってから、この町では役所の仕組みも人の呼び名もたびたび変わった。だが、人が死ねば調べねばならないことに変わりはなかった。
役人たちは番頭に案内され、店の奥へ進んでいった。奉公人たちは壁際へ身を寄せ、黙って道を空けた。
さちは別の座敷へ移されていた。そばにはまつがいて、母のかつも少し離れたところに座っている。
誰もほとんど口をきかなかった。
さちは膝の上に両手を置き、その手を見つめていた。
昨夜、この手でヒキガエルを掴んだ。疣の密集した背は硬く、腹は冷たく湿っていた。目の後ろの膨らみから滲んだ白い液が指につき、洗ってもまだ臭いが残っているような気がした。
持ち上げて、壁へ投げた。それだけだった。
男には触れていない。壁際で死んでいた若い男には、一度も。
寝間では検分が続いていた。畳を踏む足音がする。低い声が交わされ、ときおり襖が開いた。血と湿った畳の匂いが、人の出入りに合わせて廊下へ流れ出してきた。
寝間を出されたとき、さちは敷居や廊下を見ていた。
昨夜、ヒキガエルが通ったあとには、泥と水の細い筋が続いていた。腹を擦った畳にも、夜具にも、薄茶色の染みが残っていたはずだった。
ところが朝になると、それらは不思議なほどきれいに消えていた。敷居にも廊下にも、ヒキガエルが這った痕跡は一つもなかった。
次郎や番頭をはじめ、家の者たちが順に呼ばれた。
見知らぬ者が来なかったか。夜中に物音を聞かなかったか。死んだ男に見覚えはないか。
答えはどれも同じだった。
知らない。見ていない。聞いていない。
男は田原屋の奉公人ではない。次郎の客でもなければ、取引先の者でもなかった。
最後に、さちの名が呼ばれた。
まつも立ち上がろうとしたが、迎えに来た役人が言った。
「娘御だけでよい」
「まだ十三の娘でございます」
次郎が口を挟んだ。
「何を訊くにしても、私を同席させていただきたい」
「まずは娘御が見聞きしたことだけを聞きます。必要があれば、あとで旦那にも来ていただく」
次郎はなおも何か言いたそうだったが、役人の顔を見て口を閉じた。
さちは一人で立った。一晩眠っていない身体は重く、畳を踏む足の感覚も薄かった。
通されたのは、寝間から少し離れた座敷だった。
役人が二人いた。一人は四十をいくつか越えた男で、もう一人は若く、硯と紙を前に置いていた。戸口には邏卒が控えている。
襖が閉じられた。
さちは役人たちの前へ座った。
名と歳を訊かれた。若い役人が、その答えを紙へ書き取った。
さら、さら、と筆が鳴る。
「死んでいた男を知っているか」
年嵩の役人が訊いた。
「知りません」
「見たこともないか」
「ありません」
「昨夜、お前が部屋へ入れたのではないな」
「入れてません」
「では、いつ男がいたと知った」
さちは膝の上で指を握った。
「ヒキガエルが、あの人になったときです」
若い役人の筆が止まった。
年嵩の役人は、しばらくさちの顔を見た。
「何を言っている」
「蛙が人になったんです」
「ふざけたことを言うな。訊いているのは、死んでいた男のことだ」
「だから、あの人は蛙だったの」
役人の眉間に皺が寄った。
「蛙の話はもうよい」
「本当なんです」
「男を知っていたのか、知らなかったのか。それだけ答えろ」
「知りません。でも、蛙だったときには――」
「その話はよいと言っている」
さちは口を閉じた。
何を話しても、初めから聞くつもりがないのだ。
「嘘じゃないのに……」
声が震えた。
「本当に蛙だったの。お父様も、お母様も、おまつも見てたのに、誰も覚えてなくて……」
涙が膝へ落ちた。
「私だけが嘘をついてるみたいになって……でも、本当なの」
年嵩の役人は、深いため息をついた。
そのため息を聞いた途端、さちの中で何かが切れた。
「どうして信じてくれないの!」
さちは顔を上げた。
「嘘なんかついてない! 分からないからって、勝手に嘘にしないでよ! あの人は本当に蛙だったの!」
「いい加減にしろ!」
役人の怒声が座敷に響いた。
「人が一人死んでいるのだぞ。いつまでも蛙だの何だのと、戯言を聞かせるな!」
さちは息を詰まらせた。
「これからは、昨夜お前がしたことだけを答えろ。余計な話はするな」
役人は声を抑えたが、顔にはまだ怒りが残っていた。
「お前は何かを両手で持ったのだな」
「……はい」
「持ち上げた」
「はい」
「壁へ投げた」
「はい」
「なぜ投げた」
「嫌だと言っても、近づいてきたから」
「何をされそうになった」
さちは着物の膝を強く握った。
「触ろうとしたんです」
役人はそれ以上、そこを訊かなかった。
「男に触れたことは」
「ありません」
「刃物や棒を使ったか」
「使ってません」
「ほかに誰かいたか」
「いません」
「男を傷つけた者を見たか」
「見てません」
若い役人の筆が動いていた。
さら。
さら。
「それでも、自分が殺したと思うのか」
さちは唇を噛んだ。
「たぶん」
「なぜだ」
「私が投げたからです」
役人は、さちが何を投げたのかをもう一度は訊かなかった。
紙へ記されていくのは、さちが両手でしたことだけだった。
両手で持った。持ち上げた。投げた。壁へぶつけた。
ヒキガエルの疣も、冷たい腹も、人へ変わるときの骨の軋みも、そこには残らないように思えた。
しばらくして、年嵩の役人が若い者へ何か囁いた。声が低く、さちには聞き取れなかった。
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そのころ寝間では、別の役人たちが遺体と部屋を検めていた。
男の身体に、刃物で斬られた跡はなかった。刺し傷もない。
そのかわり、片側の肩と胸がひどく損なわれ、片腕と両脚には折れたところがあった。背や腹、腰にも、硬いものから強い力を受けたような痕が残っている。
鼻と口、片耳、傷ついた片目から流れた血は顔や首筋で乾きかけ、畳にはいくつかの暗い染みが残っていた。
役人たちは、男が倒れていた壁際と、襖や敷居、夜具を順に調べた。
さちの話が本当なら、何かが壁へ強くぶつかったはずだった。だが、壁には大人の男の身体が激突したと思われるような割れも、窪みもなかった。
泥の跡もなかった。
昨夜、ヒキガエルが通ったあとには、表口から廊下、寝間まで泥と水の筋が続いていた。だが、それらは朝になると、不思議なほどきれいに消えていた。
夜具にさえ、泥の染みは残っていなかった。
男の衣服もなかった。着物も帯も履物も、寝間やその周囲からは見つからない。
裸の男が人目を避け、大店の奥にある娘の寝間まで忍び込んだ形跡はない。重傷を負った者が別の場所から運ばれてきた跡もなかった。
そこへ、さちから聞き取った話が伝えられた。
蛙が人へ変わった。
その言葉を、そのまま事実として受け取る者はいなかった。
けれど、さちの話から蛙を取り除けば、別の筋が浮かび上がった。
裸の男が娘の寝間へ入り、嫌がる娘へ近づいた。襲われそうになった娘は、とっさに何らかの方法で抵抗し、男を死なせた。
さちが蛙を壁へ投げたと言い張っているのは、恐怖のあまり記憶を取り違えているか、本当に使ったものを言えずにいるためとも考えられた。
男の傷は、娘が素手でつけられるようなものではない。何か硬く重いものを使ったのなら、肩や胸を損ない、腕や脚を折ることも不可能ではないかもしれない。
だが、凶器になりそうなものは、寝間から何一つ見つからなかった。
棒も、石も、重い置物もない。血や人の皮膚がついた道具もなかった。さちが凶器を隠したのなら、どこへ隠したのか。誰かが持ち去ったのなら、なぜその姿を見た者がいないのか。
そもそも男がどうやって寝間へ入ったのかも分からない。衣服がどこへ消えたのかも、なぜ誰も物音を聞かなかったのかも説明できなかった。
蛙を嘘と決めても、出来事は少しも尋常な形には戻らなかった。
さちが恐ろしさのあまり、見たものを取り違えているのか。何かを隠しているのか。それとも、役人たちには理解できない出来事が、昨夜この家で起きたのか。
何も分からなかった。
ただ一つ、壁際の男が死んでいることだけは、疑いようがなかった。




