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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第01章 鉄輪の音
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十六幕 検分

人が死んでいる。それだけで、田原屋の内輪の騒ぎでは済まなかった。まして、どこの誰とも知れぬ若い男が、十三歳の娘の寝間で裸のまま死んでいたのである。


次郎がどれほど顔の広い商人であろうと、遺体を勝手に片づけることはできなかった。


使いは朝のうちに県庁へ走った。


田原屋は朝の商いを取りやめた。大戸は半ばまで下ろされ、表の出入りも止められていた。


いつもなら荷を担いだ男たちが出入りし、帳場では算盤が鳴っている時分だった。だがその朝、店には物音を立てることさえ憚られるような静けさがあった。


奉公人たちは持ち場へ戻れず、奥では女中たちが声を潜めていた。


「見ていないものを見たように言うな。聞かれたことにだけ答えろ」


番頭が皆にそう言い、乙吉も奉公人たちへ余計な口をきかぬよう念を押していた。


けれど、見たことだけを話せと言われても、話すべきことはほとんどなかった。


昨夜、見知らぬ男が店へ入るところを見た者はいない。廊下を通る姿も、さちの寝間へ向かう姿も、誰一人として覚えていなかった。


家人たちの記憶の中では、昨夜は何事もなく終わっている。夕餉を済ませ、膳を下げ、戸締まりをした。夜番の者はそれぞれの務めにつき、ほかの者は寝所へ引き取った。


それだけだった。


それなのに夜が明けると、男だけが死んでいた。


日が高くなる前に、県庁から役人と邏卒が来た。


取締の者を邏卒と呼ぶようになって、まだ日が浅い。新しい世になってから、この町では役所の仕組みも人の呼び名もたびたび変わった。だが、人が死ねば調べねばならないことに変わりはなかった。


役人たちは番頭に案内され、店の奥へ進んでいった。奉公人たちは壁際へ身を寄せ、黙って道を空けた。


さちは別の座敷へ移されていた。そばにはまつがいて、母のかつも少し離れたところに座っている。


誰もほとんど口をきかなかった。


さちは膝の上に両手を置き、その手を見つめていた。


昨夜、この手でヒキガエルを掴んだ。疣の密集した背は硬く、腹は冷たく湿っていた。目の後ろの膨らみから滲んだ白い液が指につき、洗ってもまだ臭いが残っているような気がした。


持ち上げて、壁へ投げた。それだけだった。


男には触れていない。壁際で死んでいた若い男には、一度も。


寝間では検分が続いていた。畳を踏む足音がする。低い声が交わされ、ときおり襖が開いた。血と湿った畳の匂いが、人の出入りに合わせて廊下へ流れ出してきた。


寝間を出されたとき、さちは敷居や廊下を見ていた。


昨夜、ヒキガエルが通ったあとには、泥と水の細い筋が続いていた。腹を擦った畳にも、夜具にも、薄茶色の染みが残っていたはずだった。


ところが朝になると、それらは不思議なほどきれいに消えていた。敷居にも廊下にも、ヒキガエルが這った痕跡は一つもなかった。


次郎や番頭をはじめ、家の者たちが順に呼ばれた。


見知らぬ者が来なかったか。夜中に物音を聞かなかったか。死んだ男に見覚えはないか。


答えはどれも同じだった。


知らない。見ていない。聞いていない。


男は田原屋の奉公人ではない。次郎の客でもなければ、取引先の者でもなかった。


最後に、さちの名が呼ばれた。


まつも立ち上がろうとしたが、迎えに来た役人が言った。


「娘御だけでよい」


「まだ十三の娘でございます」


次郎が口を挟んだ。


「何を訊くにしても、私を同席させていただきたい」


「まずは娘御が見聞きしたことだけを聞きます。必要があれば、あとで旦那にも来ていただく」


次郎はなおも何か言いたそうだったが、役人の顔を見て口を閉じた。


さちは一人で立った。一晩眠っていない身体は重く、畳を踏む足の感覚も薄かった。


通されたのは、寝間から少し離れた座敷だった。


役人が二人いた。一人は四十をいくつか越えた男で、もう一人は若く、硯と紙を前に置いていた。戸口には邏卒が控えている。


襖が閉じられた。


さちは役人たちの前へ座った。


名と歳を訊かれた。若い役人が、その答えを紙へ書き取った。


さら、さら、と筆が鳴る。


「死んでいた男を知っているか」


年嵩の役人が訊いた。


「知りません」


「見たこともないか」


「ありません」


「昨夜、お前が部屋へ入れたのではないな」


「入れてません」


「では、いつ男がいたと知った」


さちは膝の上で指を握った。


「ヒキガエルが、あの人になったときです」


若い役人の筆が止まった。


年嵩の役人は、しばらくさちの顔を見た。


「何を言っている」


「蛙が人になったんです」


「ふざけたことを言うな。訊いているのは、死んでいた男のことだ」


「だから、あの人は蛙だったの」


役人の眉間に皺が寄った。


「蛙の話はもうよい」


「本当なんです」


「男を知っていたのか、知らなかったのか。それだけ答えろ」


「知りません。でも、蛙だったときには――」


「その話はよいと言っている」


さちは口を閉じた。


何を話しても、初めから聞くつもりがないのだ。


「嘘じゃないのに……」


声が震えた。


「本当に蛙だったの。お父様も、お母様も、おまつも見てたのに、誰も覚えてなくて……」


涙が膝へ落ちた。


「私だけが嘘をついてるみたいになって……でも、本当なの」


年嵩の役人は、深いため息をついた。


そのため息を聞いた途端、さちの中で何かが切れた。


「どうして信じてくれないの!」


さちは顔を上げた。


「嘘なんかついてない! 分からないからって、勝手に嘘にしないでよ! あの人は本当に蛙だったの!」


「いい加減にしろ!」


役人の怒声が座敷に響いた。


「人が一人死んでいるのだぞ。いつまでも蛙だの何だのと、戯言を聞かせるな!」


さちは息を詰まらせた。


「これからは、昨夜お前がしたことだけを答えろ。余計な話はするな」


役人は声を抑えたが、顔にはまだ怒りが残っていた。


「お前は何かを両手で持ったのだな」


「……はい」


「持ち上げた」


「はい」


「壁へ投げた」


「はい」


「なぜ投げた」


「嫌だと言っても、近づいてきたから」


「何をされそうになった」


さちは着物の膝を強く握った。


「触ろうとしたんです」


役人はそれ以上、そこを訊かなかった。


「男に触れたことは」


「ありません」


「刃物や棒を使ったか」


「使ってません」


「ほかに誰かいたか」


「いません」


「男を傷つけた者を見たか」


「見てません」


若い役人の筆が動いていた。


さら。


さら。


「それでも、自分が殺したと思うのか」


さちは唇を噛んだ。


「たぶん」


「なぜだ」


「私が投げたからです」


役人は、さちが何を投げたのかをもう一度は訊かなかった。


紙へ記されていくのは、さちが両手でしたことだけだった。


両手で持った。持ち上げた。投げた。壁へぶつけた。


ヒキガエルの疣も、冷たい腹も、人へ変わるときの骨の軋みも、そこには残らないように思えた。


しばらくして、年嵩の役人が若い者へ何か囁いた。声が低く、さちには聞き取れなかった。


---


そのころ寝間では、別の役人たちが遺体と部屋を検めていた。


男の身体に、刃物で斬られた跡はなかった。刺し傷もない。


そのかわり、片側の肩と胸がひどく損なわれ、片腕と両脚には折れたところがあった。背や腹、腰にも、硬いものから強い力を受けたような痕が残っている。


鼻と口、片耳、傷ついた片目から流れた血は顔や首筋で乾きかけ、畳にはいくつかの暗い染みが残っていた。


役人たちは、男が倒れていた壁際と、襖や敷居、夜具を順に調べた。


さちの話が本当なら、何かが壁へ強くぶつかったはずだった。だが、壁には大人の男の身体が激突したと思われるような割れも、窪みもなかった。


泥の跡もなかった。


昨夜、ヒキガエルが通ったあとには、表口から廊下、寝間まで泥と水の筋が続いていた。だが、それらは朝になると、不思議なほどきれいに消えていた。


夜具にさえ、泥の染みは残っていなかった。


男の衣服もなかった。着物も帯も履物も、寝間やその周囲からは見つからない。


裸の男が人目を避け、大店の奥にある娘の寝間まで忍び込んだ形跡はない。重傷を負った者が別の場所から運ばれてきた跡もなかった。


そこへ、さちから聞き取った話が伝えられた。


蛙が人へ変わった。


その言葉を、そのまま事実として受け取る者はいなかった。


けれど、さちの話から蛙を取り除けば、別の筋が浮かび上がった。


裸の男が娘の寝間へ入り、嫌がる娘へ近づいた。襲われそうになった娘は、とっさに何らかの方法で抵抗し、男を死なせた。


さちが蛙を壁へ投げたと言い張っているのは、恐怖のあまり記憶を取り違えているか、本当に使ったものを言えずにいるためとも考えられた。


男の傷は、娘が素手でつけられるようなものではない。何か硬く重いものを使ったのなら、肩や胸を損ない、腕や脚を折ることも不可能ではないかもしれない。


だが、凶器になりそうなものは、寝間から何一つ見つからなかった。


棒も、石も、重い置物もない。血や人の皮膚がついた道具もなかった。さちが凶器を隠したのなら、どこへ隠したのか。誰かが持ち去ったのなら、なぜその姿を見た者がいないのか。


そもそも男がどうやって寝間へ入ったのかも分からない。衣服がどこへ消えたのかも、なぜ誰も物音を聞かなかったのかも説明できなかった。


蛙を嘘と決めても、出来事は少しも尋常な形には戻らなかった。


さちが恐ろしさのあまり、見たものを取り違えているのか。何かを隠しているのか。それとも、役人たちには理解できない出来事が、昨夜この家で起きたのか。


何も分からなかった。


ただ一つ、壁際の男が死んでいることだけは、疑いようがなかった。


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