十七幕 身柄を拘束される
検分が終わっても、男が死んだ事情は分からなかった。
さちの話では、壁へ投げたのはヒキガエルだった。それが人の姿に変わり、死んだという。
役人たちは、その話を信じなかった。
けれど、怪異の部分を信じないとしても、さちが自分の行為と男の死とのつながりを認めた事実までは無視できなかった。
――たぶん、私が殺したんです。
――壁へ投げたのは、私だから。
男はさちの寝間で死んでいた。ほかに人がいた形跡はなく、さちは自分のしたことが男の死につながったのかもしれないと認めている。
そのことだけが、動かしようもなく残った。
昼を回るころ、さちは別の座敷へ移されていた。
襖の向こうでは、次郎と役人が話している。聞こうとしなくても、声ははっきり届いた。
「娘はまだ十三でございます」
次郎の声は低かった。
「昨夜から一睡もしておりません。ひどく取り乱してもおります。家に置いたまま、お調べいただくことはできませんか」
「そういうわけにはいかぬ」
「逃げるような娘ではございません。家の者に見張らせます。お呼びがあれば、いつでも連れてまいります」
役人はしばらく答えなかった。
「人が一人死んでいる」
それきり、襖の向こうは静かになった。
さちは膝の上で手を握った。
人が一人死んでいる。
朝から何度も聞いた言葉だった。聞くたびに、それは重くなった。
自分の寝間で、自分の投げたものが人になり、死んだ。
やがて役人が言った。
「娘御の咎が定まったわけではない。だが、当人が人死にへ関わったと申している以上、このまま家へ置くことはできぬ。調べが済むまで、こちらで預かる」
「どちらへ」
次郎が訊いた。
「戸部の牢だ」
その名を聞いた途端、さちの指先から血の気が引いた。
戸部のことなら知っている。
開港場から西へ外れた戸部に、咎の定まらぬ者も入れられる牢がある。
そこへ自分が送られる。
「嫌……」
声が漏れた。
向かいに座っていたまつが顔を上げた。
「お嬢様」
まつの目も、朝からずっと赤かった。
襖の向こうでは、かつが懇願していた。
「どうか、家に置いてやってくださいませ。この子は私どもが見ております。どこへも行かせません。どうか……」
声の終わりが、嗚咽に崩れた。
さちは俯いた。
母が人前で声を上げて泣くところを、ほとんど見たことがなかった。
父も母も、もういつもの二人ではなかった。
そのことが、役人の言葉よりも恐ろしかった。
昨夜の怪異は、朝になっても終わらなかった。
男は消えなかった。家族の記憶は戻らなかった。県庁から役人が来て、寝間を検め、家人から話を聞いた。
そして今、さちは家から連れ出されようとしている。
すべてが本当に起きていた。
襖が開いた。
次郎とかつが入ってきた。その後ろに年嵩の役人が立っている。
廊下には邏卒が二人控えていた。
次郎はさちの前へ座った。
何か言おうとして、口を閉じた。
父が言葉を見つけられずにいるところを、さちは初めて見たように思った。
「私、牢へ行くの?」
次郎の顔が歪んだ。
「おさち。よく聞きなさい。お前が咎人と決まったわけではない」
「でも、牢へ行くんでしょう」
「調べが済むまでだ」
「ここにはいられないの?」
次郎は答えなかった。
かつがさちのそばへ座り、その肩を抱いた。
「お母様たちも、あとから参ります。お前を一人にはしません」
「一緒にいられるの?」
かつの腕に力がこもった。
それが答えだった。
まつは畳へ額がつくほど俯き、声を殺して泣いていた。
「私、悪いことをしたの?」
さちが訊いた。
「まだ何も決まっておらん」
次郎はすぐに答えた。
「でも、私が投げたから死んだんだよ」
「お前は蛙を投げたと言った」
「そうだよ」
「男には触れていない。それも、お前が言ったことだ」
「でも、あれはあの人になった」
次郎は言葉を失った。
信じていないのだ。
ヒキガエルのことも、老人のことも、錫杖の音も覚えていない。
それでも、娘が嘘をついているとは言えず、何を信じればよいのか分からずにいる。
さちは父の袖を掴んだ。
「お父様なら、何とかできるでしょう」
十三歳になるまで、父はそういう人だった。
田原屋の主人であり、大勢の奉公人がその言葉に従った。商いで揉め事が起これば人を呼び、金や品のことで困れば方策を考えた。
父にもできないことがあるのは知っていた。
だが、父にも自分を助けられない時が来るとは思っていなかった。
次郎は、袖を掴む娘の手を包んだ。
「必ず、何があったのかを調べてもらう」
「私はここにいたい」
「お前がしていないことまで、お前の咎にはさせぬ」
「私がしたことだったら?」
次郎の手が強張った。
「蛙を投げただけなのに、あの人が死んだのなら、どうなるの?」
「それは、まだ分からぬ」
「じゃあ、誰があの人を殺したの」
誰も答えなかった。
父も母も、役人も。
そのときだった。
じゃらり。
錆びた鉄輪が鳴った。
さちは肩を震わせ、顔を上げた。
音は廊下の奥から聞こえた。重い鉄の輪を、錫杖の先で擦り合わせたような響きだった。
急に顔を上げた娘を見て、次郎が眉を寄せた。
「何だ」
「聞こえたでしょう」
「何をだ」
「鉄の輪。じゃらりって鳴った」
次郎は廊下へ目をやった。かつも、まつも、役人も、さちの言う音を聞いた様子はなかった。
「本当なの」
さちは言った。
「沼にいた老人の錫杖だよ」
役人が次郎を見た。
その目に浮かんだものを、さちは見てしまった。
疑いではなく、病んだ者へ向ける憐れみのように見えた。
「違う」
さちは首を振った。
「私がおかしくなったんじゃない」
じゃらり。
今度は耳のすぐそばで鳴った。
さちは悲鳴を上げて振り返った。
誰もいない。
薄暗い廊下が伸び、障子へ昼の光が滲んでいる。老人の姿も、錫杖もなかった。
それでも、潮と錆びた鉄の臭いがした。
「いる」
さちは後ずさった。
「また来てる」
「おさち」
次郎が手を伸ばした。
「少し休みなさい」
「近くにいるの!」
「誰もおらん」
「いるよ!」
じゃらり。
音が頭の後ろへ回った。
さちは両耳を塞いだ。
それでも響きは弱まらなかった。耳から聞こえるのではなく、頭蓋の内側で鉄の輪を打ち合わせているようだった。
「おまつには聞こえないの?」
まつは泣きながら首を横に振った。
「申し訳ございません。私には、何も……」
「お母様は?」
かつも答えられなかった。
「お父様」
次郎はただ娘を見ていた。
さちの口の中に、錆を舐めたような味が広がった。
目の前の座敷が遠のいた。
夕闇に沈む沼が浮かんだ。黄金色の手毬を鼻先で押すヒキガエルと、その傍らで黄色い歯を見せて笑う老人。
家族と囲んだ夕餉も見えた。さちの飯へ太い舌を押しつけるヒキガエルを、父も母も黙って見ていた。
次に、壁際の男が浮かんだ。鼻や口から流れた血が畳に暗い染みを作り、傷ついた片目が腫れ上がっている。
じゃらり。
じゃらり。
音の間が狭くなった。父の声も母の泣き声も、重なる鉄輪の向こうへ押し流されていく。
「もうやめて!」
さちは両耳を押さえたまま叫んだ。
誰も怯えていなかった。
役人も、邏卒も、音のした方角を探してはいない。
また自分だけだった。
そのことが、音そのものよりも恐ろしかった。
胸が締めつけられた。息を吸っても、喉から先へ入らない。
ここにいてはいけない。
牢へ行きたいわけではなかった。役人から逃げたいのでもない。
ただ、音のしないところへ行きたかった。
老人のいないところへ。
鉄輪の鳴らないところへ。
それがどこなのかも分からないまま、さちの身体が動いた。
「おさち!」
次郎の声を背に、座敷を飛び出した。
廊下にいた邏卒の一人が手を伸ばした。
さちはその脇をすり抜けようとしたが、数歩も行かなかった。
腕を取られた。身を捩って振りほどこうとしたが、もう一人に反対の腕を押さえられた。
「放して!」
「娘、鎮まれ」
「嫌! 放してよ!」
足がもつれ、膝が板敷きへ落ちた。
まつが泣き叫んだ。
「お嬢様!」
かつも駆け寄ろうとした。次郎がそれを支えながら、娘の名を呼んだ。
「おさち、もうよせ!」
「嫌だ!」
さちは泣いた。
朝から堪えていたものが、一度に溢れた。
男の死体を見ても泣かなかった。家族の誰も昨夜を覚えていないと知っても、役人に問いつめられても、泣かなかった。
それが今、止めようもなく流れ出した。
「私じゃない!」
何を否定しているのか、自分でも分からなかった。
壁へ投げたのは自分だった。
ならば、自分なのかもしれない。
けれど、あの男を知らない。男の身体には、一度も触れていない。
「本当にヒキガエルだったの!」
邏卒に押さえられたまま、さちは叫んだ。
「人じゃなかったの!」
誰も答えなかった。
「お父様!」
次郎は目の前にいた。
大勢の奉公人を従え、どんな揉め事にも退かず、さちにとっては何でもできるはずだった父が、顔を歪めて立っていた。
「助けて!」
次郎は動けなかった。
父にも、母にも、まつにも、さちを田原屋へ残すことはできなかった。
咎が定まったわけではない。
それでも人が一人死に、さちはその死につながったかもしれない行いを、自分でしたと認めている。
戸部の牢へ送られることは、さちが走り出す前から決まっていた。
逃げようとしたからではなかった。
役人の手に身柄を移されることは、もう覆らなかった。
泣きながら息を切らすさちの耳に、
じゃらり。
もう一度だけ、錆びた鉄輪の音がした。




