十八幕 駕籠
田原屋の裏口を出たところで、さちは足を止めた。
裏手の道に、一挺の駕籠が置かれていた。
見慣れないものではない。開港場の往来には、人を乗せた駕籠がいくらでも行き交っている。田原屋の客が、駕籠で訪ねてくることもあった。
けれど、目の前にあるものは違った。
祝い事に向かうためでも、誰かを迎えるためでもない。まして、嫁入りの駕籠などではなかった。
さちを戸部の牢へ運ぶために、役人が用意したものだった。
まだ咎人と定まったわけではない。
何度そう言われても、目の前の駕籠はなくならなかった。罪を犯したと決まっていないのに、牢へ送られる。そのことを、さちはまだうまく理解できずにいた。
昨日の今ごろ、自分はただの田原屋の娘だった。
太一とみちと三人で新田へ出かけた。裾に泥をつければ、まつに叱られると思った。日のあるうちに帰らなければならないと思った。
そんなことしか考えていなかった。
あれから、まだ一日しか経っていない。
それなのに今、田原屋の裏には、自分を牢へ運ぶ駕籠がある。
じゃらり。
さちは耳を押さえた。
朝から、何度聞いたか分からない。
初めのうちは数えていた。一度、二度、三度。けれど、五度を越えたころには、もう数えることをやめていた。
遠くで鳴ることもあれば、耳元で鳴ることもある。ときには頭の内側で、三つの鉄輪をゆっくり揺すられているように聞こえた。
あの老人の錫杖だった。
「……やめて」
さちは小さく呟いた。
そばにいたまつが、心配そうに顔を覗き込んだ。泣き腫らした瞼が赤く膨らんでいる。
「お嬢様。また、あの音でございますか」
さちは答えなかった。
まつには聞こえない。
父にも母にも、役人にも聞こえない。
それはもう分かっていた。
口にすれば、また様子のおかしい娘だと思われる。牢へ行くのが恐ろしくて、ありもしない音を聞いていると思われる。
だから黙った。
けれど、黙ったところで音は消えなかった。
さちは歯を食いしばり、駕籠へ目を戻した。
駕籠のそばには、役人と邏卒が立っていた。担ぎ手の男たちも、少し離れたところで待っている。
田原屋の者たちは、裏口の内外に集まっていた。
次郎とかつ。二人の姉。まつ。番頭。乙吉。喜衛門。ほかの奉公人たち。
誰も普段の顔をしていなかった。
店は朝から商いを休み、表の大戸も閉ざされていた。
役人が何人も出入りし、戸口には邏卒が立っている。何か大事が起きたことは、とうに近所へ知れていた。
裏手の道にも、人が集まっていた。
近所の商家の者。通りがかりの者。荷を運ぶ途中で足を止めた人足。何があったのか知りたくて、少し離れた場所から田原屋を窺っている。
家の奥で男が死んでいたことまで、知っている者がいるのかもしれなかった。
その男が、さちの寝間で見つかったことも。
田原屋の娘が、役人に連れていかれることも。
さちは急に、自分の身体が人目へ晒されているような気がした。
肌を隠す着物が、ひどく薄いものになったようだった。
次郎が人々を見て、顔を険しくした。
「見世物ではない。散ってもらえ」
乙吉たちが道へ出た。
けれど、すべての者を追い払うことはできなかった。道を閉ざすわけにはいかない。田原屋の裏口から離れさえすれば、誰でも立ち止まっていられる。
かつは、さちのそばを離れなかった。
先ほどから、何度も娘の身なりを整えている。
乱れていない襟を直し、帯の結び目を確かめ、髪へ手をやる。指先で後れ毛を撫でつけては、また別のところへ触れた。
何かしていなければ、立っていられないようだった。
「寒くはありませんか」
「うん」
「本当に?」
「寒くないよ」
「喉が渇いたら、きちんと申し出るのですよ。お腹が空いても、黙っていてはいけません。夜になって冷えたら、掛けるものをいただきなさい。遠慮などしては――」
かつの声が途切れた。
さちは母の顔を見られなかった。
見れば、また泣いてしまう。
母は、これまで何度も教えてきたことを言い聞かせるように、娘の肩を撫でた。
「困ったことがあれば、大人の方にきちんとお話しするのですよ。怖くても、黙り込んではいけません」
さちは返事をしようとした。
けれど、声が出なかった。
昨夜、怖いことがあった。
助けてほしかった。
それなのに父も母も、まつも、ヒキガエルを追い出してはくれなかった。
今は誰も、そのことを覚えていない。
母の言葉を信じたいのに、信じるための足場がどこにもなかった。
かつの手が、さちの頬へ触れた。
幼いころ、熱を出したときにも、同じように触れられたことがある。柔らかく温かな手だった。
「お前は一人ではありませんからね」
母はそれだけ言った。
涙が頬を伝った。
さちは唇を噛み、頷いた。
二人の姉も近くへ来た。
いつもなら、さちの泥のついた裾を笑ったり、まつを困らせたことをからかったりする姉たちだった。
その日は、どちらも何も言わなかった。
上の姉が、さちの手を握った。
下の姉は堪えきれなくなったように顔を背け、やがてさちの肩へ腕を回した。
三人で身体を寄せ合った。
さちは姉たちと、たびたび喧嘩をした。着物や髪飾りのことで腹を立てた。勝手に物を使ったと言って責められた。父や母に隠れて、意地の悪いことを言い合ったこともある。
けれど、どれほど腹を立てても、夜になれば同じ家にいた。次の朝になれば、また顔を合わせた。
それがいつまでも続くと思っていた。
「帰ってくるよね」
下の姉が、掠れた声で言った。
「帰ってくるでしょう」
上の姉は妹へ言い聞かせるように答えた。
さちは何も言えなかった。
帰れるのかと訊けば、誰も答えられないことを知っていた。
姉たちの腕が離れると、今度はまつが前へ出た。
「お嬢様」
呼んだあと、言葉が続かなかった。
まつは口を開き、何かを言おうとして、また閉じた。とうとう深く頭を下げた。
「どうか、お身体を大切になさってくださいませ」
足元の土へ、涙が落ちた。
さちは困った。
まつを慰められるような立場ではない。それでも、幼いころから世話をしてくれた女中が泣いているのを、黙って見ていることもできなかった。
「おまつ」
「はい」
「そんなに泣かないでよ」
「申し訳ございません」
まつは袖で目元を押さえた。
「泣いてはならないと思うほど、止まらなくなってしまって……」
「私、戻ってくるから」
言ってから、さちは胸が痛くなった。
戻れるという確信はなかった。
それでも、まつは何度も頷いた。
「はい。お待ちしております」
「私のもの、勝手に捨てないでね」
「何一つ捨てません」
「着物も」
「畳んでおきます」
「手毬も」
まつの顔がわずかに強張った。
黄金色の手毬は、検分の際に役人が預かっていた。泥と水の痕を残した、沼での出来事につながるただ一つの品だった。
「お返しいただいたら、大切に仕舞っておきます」
「うん」
さちは頷いた。
そのとき、耳のすぐ後ろで鉄輪が鳴った。
じゃらり。
首筋へ冷たい息を吹きかけられたようだった。
沼の臭いが鼻を掠めた。濁った水と腐りかけた葦、ヒキガエルの目の後ろから滲んだ白い液の臭いだった。
さちは振り返った。
誰もいなかった。
裏口から、家の中へ続く土間が見えるだけだった。
「お嬢様?」
まつが呼んだ。
「何でもない」
思ったより強い声が出た。
まつが口を閉じた。
「……ごめん」
さちはすぐに言った。
「おまつに怒ったんじゃないの」
「分かっております」
まつは首を横に振った。
「何もお気になさらないでくださいませ」
その優しい言い方が、かえって苦しかった。
さちは駕籠を見た。
見れば見るほど、逃げ場がなくなるようだった。
昨日まで、牢は自分とは何の関わりもない場所だった。盗みをした者や、人を傷つけた者が入れられるところだと思っていた。
今は、そこが自分の行く場所になっている。
まだ咎人ではない。
けれど牢の内側へ入れば、外から見て何が違うのだろう。
さちは次郎を見た。
「お父様」
次郎はすぐに振り返った。
「何だ」
「本当に、行かなきゃいけないの?」
父の顔が歪んだ。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「ああ」
「今日だけ?」
次郎は答えなかった。
いつ戻れるのか。
役人にも分からない。父にも分からない。
「必ず迎えに行く」
次郎は言った。
「いつ?」
さちが訊くと、父の口元が強張った。
答えはなかった。
さちは俯いた。
次郎がそばへ来て、娘の肩に両手を置いた。
「おさち。私は、お前をあのままにはしておかん」
低い声だった。
「何があったのか、必ず明らかにする。お前がしていないことまで、お前の咎にはさせぬ」
「みんな、ヒキガエルのことを覚えてないのに?」
次郎の手が止まった。
「あれを見たのは、私だけになっちゃったのに?」
父は答えられなかった。
それでも、肩に置かれた手は離れなかった。
「お前が私の娘であることは、何も変わらぬ」
次郎は言った。
「牢へ行こうと、誰に何を言われようと、それだけは変わらぬ」
さちは顔を上げた。
父の目も赤かった。
泣いてはいなかった。けれど、目の奥に、さちには見たことのない弱さがあった。
「本当に?」
「ああ」
「田原屋の娘のまま?」
「当たり前だ」
次郎は娘の頭を胸へ引き寄せた。
さちは父の羽織を掴んだ。
幼いころには抱き上げてもらったことがある。だが大きくなってから、こうして父へ縋りつくことはなかった。
父の着物から、紙と墨と、わずかな煙草の匂いがした。
いつもの父の匂いだった。
離れたくなかった。
けれど、役人が静かに声を掛けた。
「そろそろ参る」
かつが、さちの腕へ手を伸ばした。
「もうですか」
役人は答えなかった。
次郎はゆっくり娘を離した。
かつがさちを抱き締めた。痛いほど強かった。
「必ず行きますからね」
母の涙が、さちの頬へ落ちた。
「すぐに会いに行きます。何があっても、迎えに行きますから」
「うん」
「一人だと思ってはいけませんよ」
「うん」
さちは母の背へ腕を回した。
離れるとき、かつの指がさちの袖を掴んだままになった。
次郎がその手を包み、そっと外した。
役人に促され、さちは駕籠のほうへ向き直った。
奉公人たちが頭を下げる。
誰も普段のように「行ってらっしゃいませ」とは言わなかった。
言えるはずがなかった。
これは出掛けるのではない。帰る刻限の決まった外出でもない。
役人に連れられ、牢へ入れられるのだ。
さちは日の当たる道へ、ゆっくりと歩き出した。
四月の空は明るかった。
海の方角から柔らかな風が吹き、家々の軒先に掛かった暖簾を揺らしている。道には人が行き交い、遠くの店からは商いの声が聞こえた。
田原屋に何が起きても、町は変わらない。
昨日と同じ春だった。
そのことが腹立たしいほどだった。
昨日と違ってしまったのは、自分だけだった。
道の向こうから、いくつもの視線が向けられている。
さちは俯いた。
知らない者に顔を見られたくなかった。
なぜ役人に囲まれているのか。何をして牢へ送られるのか。明日になれば、どんな噂をされているのか。
考えたくなかった。
そのときだった。
「おさち」
聞き慣れた声がした。
さちは顔を上げた。
人垣の後ろに、みちがいた。
青ざめた顔で、こちらを見ている。
その隣には太一がいた。
二人も田原屋の騒ぎを聞きつけ、ここまで来たのだろう。
さちの足が止まった。
二人を見るのは、昨日別れて以来だった。
わずか一日のはずなのに、何年も会っていなかったような気がした。
昨日、三人で新田へ行った。水田のあいだを歩き、沼のそばで休んだ。みちが笑い、太一が海坊主の話をした。さちは自分だけ先に帰った。
それだけのことだった。
みちは、何が起きたのか分からないのだろう。
朝から田原屋の戸が閉ざされ、役人や邏卒が出入りしていた。そして今、さちは駕籠の前に立っている。
何も知らなくても、尋常でないことだけは分かる。
みちは人目も忘れたように、もう一度呼んだ。
「おさち」
声が震えていた。
さちは返事をしたかった。
けれど、喉が塞がっていた。
太一は黙っている。
いつもと同じ、見慣れた顔だった。
その顔を見た瞬間、さちは黄金色の手毬を思い出した。
手毬を横切る、一本だけの赤い糸。
切れた手毬を太一が直してくれた。同じ色の糸が見つからず、そこだけ赤くなった。
修繕した手毬を差し出した、小さな太一の顔を覚えている。
あのころは、明日になればまた三人で遊べると思っていた。
いつか終わる日が来ることなど、知らなかった。
さちは太一を見た。
太一も、さちを見ていた。
言いたいことがあった。
昨日、あなたが話した海坊主がいた。
あの沼に、本当にいた。
鉄輪のついた錫杖を持っていた。ヒキガエルを御主人様と呼んでいた。そのヒキガエルが、水へ沈んだ手毬を取ってくれた。
そのあと、私の家へ来た。
私と同じ膳から食べた。
私の寝間まで追ってきた。
それを壁へ投げたら、人になって死んだ。
そう伝えたかった。
けれど、役人でさえ信じなかった話を、道の上でどうして口にできるだろう。
太一もみちも、何も知らない。
二人はただ、幼馴染が役人に囲まれ、牢へ送られようとしているところを見ている。
それだけだった。
じゃらり。
鉄輪が鳴った。
さちは耳を押さえた。
太一がわずかに身を乗り出した。みちも驚いた顔をした。
「おさち?」
さちは目を閉じた。
瞼の裏に、痩せた老人の笑みが浮かんだ。
――そんな約束をしてしまって、よいのですかな。
錆びた鉄と、腐った水草の臭いがした。
その向こうに、昨日の景色が重なる。
春の田。暗い沼。黄金色の手毬。
その上を横切る、たった一本の赤い糸。
昨日までのさちは、その先に何があるのか知らなかった。
誰の妻になるのかも。
どこで暮らすのかも。
十三の春に、牢へ送られることさえも。
何一つ知らなかった。
じゃらり。
さちは目を閉じたまま、耳を塞いだ。
錆びた鉄輪の音だけが、どこまでもついてきた。




