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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第01章 鉄輪の音
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十九幕 嫁入りに見えるもの

役人に促され、さちは駕籠の前まで歩いた。


近くで見ると、先ほどよりも小さく見えた。


横についた小さな引き戸が開いている。この中へ入り、戸を閉ざされ、自分の家ではないところへ運ばれてゆく。


戸部の牢へ。


そう思っただけで、喉が狭くなった。


「おさち」


背後から父の声がした。


さちは振り返らなかった。


振り返れば、また行きたくないと言ってしまう。父の袖を掴む。母やまつへ縋りつく。


けれど、もう何度もそうした。


誰にも、どうすることもできなかった。


「乗りなさい」


役人が言った。


さちは駕籠を見た。


その向こうに道がある。遠巻きに集まった人々が、こちらを見ている。その中には、みちと太一もいた。


見ないようにした。


二人の顔をもう一度見れば、胸の中に押し込めていたものが、溢れてしまいそうだった。


さちは身を屈め、駕籠の中へ入った。


古い畳の臭いがした。


狭い床へ腰を下ろし、膝を揃える。十三の身体には窮屈というほどではなかったが、四方を囲まれると、すぐに息苦しくなった。


戸口から差し込む春の光だけが明るかった。


さちは最後に顔を上げた。


母が泣いている。


父はその隣に立ち、口を固く結んでいた。二人の姉も、肩を寄せ合っている。まつは袖で目を押さえ、番頭や乙吉、喜衛門たちは深く頭を下げていた。


少し離れた人垣の中には、みちがいた。


その隣に、太一がいる。


昨日まで、当たり前のように顔を合わせていた人たちだった。


今日から、もう会えないかもしれない。


そう思った途端、身体が勝手に動いた。


「嫌……」


さちは駕籠から這い出ようとした。


役人の手が引き戸へ掛かった。


「待って!」


じゃらり。


鉄輪が鳴った。


さちは動きを止めた。


「やめて……」


じゃらり。


「もうやめてよ」


誰も反応しなかった。


道のどこにも、老人の姿はない。墨染めの衣も、錆びた錫杖も見えない。


それでも、音だけは近くにあった。


役人が引き戸を閉じた。


外の光が細くなり、父も母も、太一もみちも、一度に見えなくなった。


駕籠の中へ暗がりが満ちた。


「嫌」


さちは戸へ手を伸ばした。


「開けて」


外で人の動く気配がする。


「開けて!」


長柄が持ち上げられた。駕籠が傾き、さちの肩が壁へ当たった。


「お父様!」


駕籠が動き始めた。


担ぎ手の歩みに合わせて、狭い箱の中が揺れた。


「お母様!」


一歩。


また一歩。


「おまつ!」


外から誰かの声が返った。


母だったのか、まつだったのか、分からなかった。駕籠の軋む音と人々のざわめきに紛れ、言葉までは聞き取れない。


「待って!」


さちは戸を叩いた。


田原屋の裏手にいるのだから、まだ声は届くはずだった。


けれど、返ってくる声は少しずつ遠くなった。


代わりに、人々の囁き、土を踏む足音、邏卒の低い声が駕籠の外を流れていった。


田原屋が離れてゆく。


見えなくても分かった。


生まれてから十三年、毎晩眠った家だった。父と母と姉たちがいて、まつがいて、奉公人たちの声が絶えなかった。


太一とみちも、何度もあの家へ遊びに来た。


そこから、自分だけが運び出されてゆく。


牢へ。


「いや……」


涙が流れた。


「帰りたい……」


じゃらり。


駕籠のすぐ外で、鉄輪が鳴った。


一歩。


じゃらり。


また一歩。


担ぎ手の歩みと、錫杖の音が重なっている。


老人がついてきている。


姿は見えない。


それでも、駕籠の脇を歩いている。


さちはそう思った。


「来ないで」


じゃらり。


「もう約束は終わったでしょう」


返事はない。


「ヒキガエルは死んだでしょう」


言葉にした途端、胸の奥へ冷たいものが刺さった。


死んだ。


自分が殺した。


違う。


死んだのは蛙だった。


いや、男だったのか。


蛙を殺したのか。男を殺したのか。


考えるほど、分からなくなった。


さちは目を閉じた。


疣だらけの背を両手で掴んだ。指の下で、硬い疣と柔らかな皮がぬめった。目の後ろの膨らみから滲んだ白い液が掌につき、腐った葦のような臭いがした。


力いっぱい持ち上げ、壁へ投げた。


そこまでは蛙だった。


壁へ当たったのも蛙だった。


畳へ落ちたのも蛙だった。


では、男はいつ死んだのだろう。


「違う」


さちは頭を振った。


脚が伸びた。


前脚が腕になった。


疣が消えた。皮膚が白くなった。顔ができた。髪が生えた。


男に変わった。


死んだのは、そのあとだったのか。


それとも、男に変わる前から死んでいたのだろうか。


「私じゃない」


じゃらり。


「違うってば」


嫌だと言った。


触らないでと言った。


それでも近づいてきた。


だから投げた。


投げなければ、何をされたのだろう。


投げたから、死んだ。


でも、あれは蛙だったはずだ。


蛙だったのに、人になった。


人だったから、人になった。


「人……」


さちは暗い駕籠の中を見つめた。


最初から、人だったのかもしれない。


違う。


最初から人なら、どうして蛙の姿をしていたのだろう。


老人だ。


あの老人が変えたのだ。


いつ、どこで、なぜ。


何も分からない。


けれど、老人ならできるのではないか。


潮と錆びた鉄の臭いをまとい、今は姿を見せずにつきまとい、家族の記憶まで奪った老人なら、人を蛙へ変えることくらいできる。


男は悪い術をかけられていた。


長いあいだ、沼の泥の中で、蛙の姿に閉じ込められていた。


だから人の言葉を話した。


老人は、あれを御主人様と呼んでいた。


老人が口にした「御主人様」という言葉が、さちの頭の中で何度も響いた。


御主人様。


誰の。


老人の、ということだろうか。


では、老人は家来だったのか。


家来なのに、どうして笑っていた。


家来なのに、どうして蛙に変えた。


さちは額へ手を押し当てた。


分からない。


考えるたび、考えがばらばらになった。


じゃらり。


音がした。


その瞬間、ばらばらになったものが、別の形でつながった。


壁へ投げた。


蛙が人へ戻った。


悪い術が解けた。


「私が……」


さちは自分の手を見た。


暗くて、指の形さえよく見えない。


この手で蛙を掴んだ。


この手で持ち上げた。


この手で壁へ投げた。


その衝撃で、人へ戻った。


「私、殺してない」


胸の奥で、固く絡まっていたものが、少しだけ緩んだ。


人に戻した。


助けた。


自分は、あの男を助けたのだ。


そう思った途端、壁際に倒れた男の姿が浮かんだ。


鼻から流れた血。


口から溢れた赤黒いもの。


傷ついた目。


あり得ない向きへ折れた脚。


男は動かなかった。


胸も、喉も、一度も動かなかった。


「違う」


血は、あんなに流れていなかったかもしれない。


目も、本当は潰れていなかった。


脚も折れていなかった。


暗かったから、そう見えただけだ。


夜だった。


行灯の火も消えかけていた。


一晩眠っていなかった。


だから見間違えた。


「死んでなんかいない」


さちは呟いた。


男は眠っていた。


人の姿へ戻ったばかりだから、すぐには目を覚ませなかった。


そうだ。


それだけだ。


本当に死んでいたなら、父も母も、何かしたはずだった。水を飲ませるか、医者を呼ぶか、声を掛けるはずだった。


役人が来たことが、頭の片隅に浮かんだ。


けれど、あれは男が死んだからではない。


何か別の用で来たのだ。


そうだ。


そうでなければならない。


皆、男が生きていることを知っていたのだ。


「そうでしょう?」


さちは暗闇へ訊いた。


じゃらり。


返事があった。


「うふふ。やっぱり」


さちは笑った。


狭い駕籠の中に、自分の声が小さく響いた。


男は眠っている。


目を覚ませば、さちを見る。


壁際でゆっくりと瞼を開き、自分を助けた娘を見る。


――ありがとう。


言う。


きっと言う。


「どういたしまして」


さちは小さく答えた。


誰も礼など言っていなかった。


それでも、低い男の声が聞こえた。


――ありがとう。


「もう大丈夫です」


さちは暗闇へ言った。


――さち。


男が自分の名を呼んだ。


本当に聞こえたのか、自分で考えたのか、分からなかった。


じゃらり。


鉄輪が鳴った。


その響きの中に、別の音が混じっていた。


かつろう。


勝郎。


「勝郎」


知らないはずの名が、さちの口から零れた。


誰からも聞いた覚えはなかった。


老人は男を御主人様としか呼ばなかった。蛙も、自分の名を告げていない。


それなのに、勝郎という名は、耳の奥に前からあった。


忘れていただけだった。


いつ聞いたのだろう。


沼で。


夕餉の席で。


夜具の上で。


男へ変わるとき、骨の軋む音に混じって聞こえたのかもしれない。


「勝郎様……」


声にすると、間違いないと思えた。


勝郎は生きている。


さちが助けた。


だから、さちは牢へ送られるのではない。


人を助けた娘が、どうして牢へ行くのだろう。


行くはずがない。


では、この駕籠はどこへ向かっている。


駕籠。


家を離れる。


父と母が泣いていた。


姉たちも、まつも泣いていた。


家の者たちが並び、頭を下げていた。


人々が道に集まっていた。


太一とみちも見送りに来た。


「嫁入り……」


言葉が口から零れた。


胸の奥へ、温かなものが広がった。


そうだ。


嫁入りだった。


母が泣いていたのは、娘を牢へ送るからではない。


嫁へ出すのが寂しかったからだ。


父が口を固く結んでいたのも、泣くのを堪えていたからだ。


家の者たちは門出を見送り、道の人々は祝いに集まった。


役人は婚礼の供で、邏卒は道中を守る者だった。


「みんな、見送ってくれたんだ」


さちは笑った。


「うふふふふ」


笑い声が、閉ざされた駕籠の中で弾んだ。


自分の声なのに、どこか遠くで別の娘が笑っているように聞こえた。


違う。


笑ってはいけない。


嫁入りなのだから、もっときちんとしていなければならない。


背筋を伸ばさなければ。


さちは両手を膝の上へ揃えた。


指先はまだ震えていた。


「勝郎様のところへ行くの」


じゃらり。


「はい」


誰も何も言っていないのに、返事をした。


勝郎が呼んでいる。


老人ではない。


鉄輪でもない。


勝郎が、老人に錫杖を鳴らさせている。


迎えの音だ。


祝いの鈴だ。


「遅くなって、ごめんなさい」


さちは頭を下げた。


なぜ謝っているのかは分からなかった。


勝郎を壁へ投げたから。


目を覚ます前に置いてきたから。


嫁入りなのに泣いたから。


どれも同じことのように思えた。


太一の顔が浮かんだ。


太一は何も言わなかった。


見ていただけだった。


悲しそうだった。


違う。


喜んでいた。


さちが嫁ぐから。


「太一も喜んでくれてる」


胸が痛んだ。


「私が幸せになるから」


言うたびに、胸の痛みが強くなった。


太一は笑っていなかった。


けれど、笑っていたことにした。


「うふふ。太一ったら」


太一が何をしたというのだろう。


自分でも分からなかった。


それでも、おかしくてたまらなかった。


「そんな顔しなくてもいいのに。私、幸せになるんだから」


幼い太一が、黄金色の手毬を差し出している。


――同じ色じゃなくなった。


赤い糸。


一本だけの赤い糸。


赤。


男の血。


違う。


手毬の糸。


祝いの色。


赤い糸は、最初から今日へつながっていた。


「勝郎様が、呼んだの?」


じゃらり。


「そうなのね」


さちは頷いた。


手毬を沼へ落としたことも。


一人で戻ったことも。


老人と出会ったことも。


約束したことも。


すべて、この迎えへ続いていた。


「勝郎様のためなら、何でもします」


広い蛙の口が浮かんだ。


――その柔らかな肌で、私を楽しませてくれ。


さちの笑みが一瞬消えた。


「違う」


あれは勝郎だった。


けれど、本当の勝郎ではなかった。


蛙の姿をしていたから、あんなことを言った。


呪いのせいだ。


悪い術が言わせた。


本当の勝郎は優しい。


整った顔をしている。


傷はない。


血もない。


美しい目で、さちを見る。


「大丈夫」


さちは誰かを宥めるように言った。


「もう蛙じゃないから」


自分の言葉が、ひどくおかしく思えた。


「うふふふふ。蛙じゃないもの。もう、蛙じゃないものね」


笑いが止まらなかった。


喉の奥から、勝手に声が溢れてきた。


「はは……」


さちは口元を押さえた。


それでも笑い声は、指の隙間から漏れた。


「ははは。あはははは」


自分が笑っているのか、勝郎が笑っているのか、分からなかった。


もしかすると、老人も一緒に笑っているのかもしれない。


じゃらり。


今度の音を、さちは恐れなかった。


耳を澄ませた。


錆びた鉄輪の音は、嫁入りの列についてくる祝いの鈴のように聞こえた。


腐った水の臭いも、勝郎のもとから流れてくる香のように思えた。


牢へ向かってなどいない。


捕らえられたのでもない。


嫁ぐのだ。


田原屋から、勝郎のもとへ。


父も母も、姉たちも、まつも、太一もみちも、皆が祝ってくれた。


だから何も間違っていない。


男は死んでいない。


自分は殺していない。


太一は悲しんでいない。


牢へは行かない。


何も間違っていない。


何も。


「うふふふふ」


笑い声が駕籠の壁へ当たり、さちの耳へ戻ってきた。


外を歩く者にも、きっと聞こえている。


けれど、誰も何も言わなかった。


じゃらり。


さちは両手を膝の上へ置いた。


もう耳を塞がなかった。


揺れる駕籠の中で背筋を伸ばし、見えない相手へ微笑んだ。


嫁入りなのだから、きちんとしていなければならない。


泣いてはいけない。


母にも、父にも、太一にも、心配をかけてはいけない。


「行ってまいります」


さちは暗闇へ向かって、小さく言った。


駕籠は揺れつづけていた。


それが戸部の牢へ向かう揺れであることを、さちはもう考えなかった。


祝いの鈴が、どこまでも一緒についてくる。


じゃらり。


じゃらり。


「うふふふふ」


やがて笑い声は高くなった。


「ははは。あははははは」


駕籠の外へ漏れるほどの声で、さちは笑っていた。


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