二十幕 町の噂と許嫁
さちを乗せた駕籠が田原屋の裏手から見えなくなっても、人々はすぐには散らなかった。
店の戸は閉ざされたままだった。役人が出入りし、奉公人たちは何を訊かれても口を閉ざした。次郎も、外の者へ事情を説明しなかった。
けれど、人が黙れば、噂まで黙るわけではない。
むしろ、誰も本当のことを知らないからこそ、話は好きな形に育っていった。
初めは、ごく短いものだった。
――田原屋で人が死んだらしい。
それが夕刻までには、
――店の奥で若い男が死んでいた。
となった。
やがて、
――田原屋の娘の寝間から、裸の男の死体が出た。
に変わった。
そこまでは、おおむね事実だった。
けれど、そこから先は違った。
十三になる田原屋の娘が、役人に連れていかれた。戸部の牢へ入れられたらしい。
ならば、娘が何かしたに違いない。
人は、分からないところを空けておくことが苦手だった。誰が、なぜ、どうやって。その答えがなければ、手近な想像を詰め込んだ。
男は誰だったのか。
知らない。ならば、娘が隠していた相手ではないか。
どうやって大店の奥へ入ったのか。
誰も見ていない。ならば、以前から人目を忍んで出入りしていたのだろう。
なぜ寝間で死んだのか。
分からない。ならば、二人の間で人に言えないことが起きたのだ。
それで話は出来上がった。
「男を忍ばせていたそうだ」
そう言う者が現れた。
誰から聞いたのかと問われれば、田原屋の近くに住む者からだと答えた。
その者へ訊けば、役人の出入りを見た者から聞いたという。
さらに辿れば、別の誰かの名が出た。
始まりはどこにもなかった。
それでも噂だけは、初めから確かな形を持っていたように町を歩いた。
糸荷を運ぶ人足の口から、茶店の客へ。
近所の商家から、居留地へ出入りする仲立ちへ。
水路沿いの荷場から、幾つも辻を隔てた町家へ。
その日のうちに、さちは町の知らないところで、別の娘になった。
「十三だというではないか」
「十三でも、分からないものだよ」
「おとなしそうな娘だったがね」
「そういう娘ほど、家の中では何をしているか分からない」
田原屋へ一度も入ったことのない者が、知っているような顔で語った。
さちと言葉を交わしたこともない女が、あの娘には以前から妙なところがあったと言った。
さちは男を忍ばせていた娘になった。
親を欺いていた娘になった。
人に言えないことをして、相手を死なせた娘になった。
いつの間にか。
町の中でだけ。
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みちは、そうした話を信じなかった。
田原屋の裏手で見たさちの姿が、目から離れなかった。
役人に囲まれ、顔色を失い、何かに怯えて耳を塞いでいた。
駕籠へ乗せられる直前、さちはみちと太一を見た。
助けを求めるようでもあり、ひどく遠いところから二人を見ているようでもあった。
あの顔を見て、男を隠していた娘だとは思えなかった。
みちの知っているさちは、わがままで、拗ねやすく、言い返すときには遠慮がなかった。
けれど、そんな噂の中にいる娘ではなかった。
町がどれほど別のさちを作っても、みちの中の幼馴染まで、別人になることはなかった。
田原屋の者たちも、噂を耳にするたび怒った。
乙吉は店先まで探りに来た者を、
「馬鹿なことを申すな」
と追い払った。
喜衛門は奉公人たちへ、外で何を聞いても相手にするなと言い聞かせた。
まつは初めて噂を聞いたとき、泣きながら言い返した。
「お嬢様は、そのような方ではございません!」
相手が誰なのかも忘れるほど夢中になった。
乙吉が腕を取り、店の中へ戻した。
「言えば言うほど、面白がられる」
「だって、あんまりです」
「あんまりだからこそだ。お嬢様のためにも、俺たちが余計なことを申してはならん」
乙吉の声も硬かった。
まつは俯き、拳を握った。
何も言わなければ、田原屋は何かを隠していると言われた。
否定すれば、必死になるところを見ると、やはり後ろ暗いことがあるのだと言われた。
怒っても、黙っても、噂の餌になった。
どうしても消えなかった。
開港以来、生糸の商いで大きくなった田原屋には、多くの相手がいた。
上州や信州、甲州から糸を運んでくる者。
荷を預かる者。
売買を取り次ぐ者。
居留地の異国商館との取引に関わる者。
商いは、品と金だけで成り立つものではなかった。
あの店なら任せられる。
あの主人なら間違いない。
そう信じられることもまた、店の財産だった。
その田原屋に、
――娘の寝間から男の死体が出た。
――娘は牢へ送られた。
という話がついた。
それだけで、何事もなかったころと同じではいられなかった。
翌日になると、用向きがあるような顔で次郎を訪ね、事について探ろうとする者まで現れた。
「いや、妙な噂を耳にいたしましてな」
そう前置きする。
妙な噂だと言いながら、男の身元や娘の様子を詳しく知りたがった。
次郎は答えなかった。
「役所が調べております」
それだけを繰り返した。
「娘御は、やはり戸部に」
「調べを受けております」
「寝間にいた男というのは――」
「存じません」
その先は言わせなかった。
訪ねてきた者が帰るたび、次郎の顔には疲れが濃くなった。
娘が牢にいる。
それだけでも耐え難かった。
そのうえ娘の知らないところで、娘ではない娘が作られていく。
男を忍ばせていた娘。
親を欺いた娘。
人に言えないことをしていた娘。
そのどれも、次郎の知っているさちではなかった。
さちは、いたずらもした。
わがままも言った。機嫌を損ねれば口をきかなくなった。思いどおりにならなければ、幼い顔で父を睨むこともあった。
それが、さちだった。
町の者たちが語る娘は、同じ名を持った見知らぬ誰かだった。
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その日の午後、一人の使いが田原屋を訪れた。
人目の多い刻を避けたように、店の脇口から入ってきた。
次郎は奥の座敷で会った。
使いは座ってからも落ち着かなかった。膝の上へ置いた手を何度も組み直し、次郎と目を合わせようとしない。
長い前置きのあと、ようやく用向きを口にした。
さちの縁談についてだった。
相手は、田原屋と釣り合う商家の息子である。
さちはまだ十三だった。すぐに嫁がせる話ではない。それでも両家の間では、将来の縁として内々に話がついていた。
その話を、なかったことにしたい。
使いはそう告げた。
さちが人を殺したと決まったわけではない。
寝間で死んでいた男との間に、何があったのかも分からない。
役所の調べも終わっていない。
使いは、同じことを何度も前置きした。
事の真偽とは別のことでございます。
娘御を疑うわけではございません。
何も定まっていないことは、承知しております。
けれど、結局は同じだった。
若い男の死体が、娘の寝間から出た。
娘は牢へ送られた。
町には、すでに悪い噂が広がっている。
その娘を、将来、自分たちの家へ迎えることはできない。
それだけだった。
次郎は黙って聞いた。
怒鳴らなかった。
引き止めもしなかった。
無理に縁をつなぎ止めたところで、さちが幸せになれるはずはない。それくらいは分かっていた。
ただ、使いが頭を下げたとき、次郎は言った。
「まだ、娘の咎は何も定まっておりません」
「承知しております」
使いは深く頭を下げた。
承知している。
それでも、縁談は切る。
使いが帰ったあと、次郎は一人で座敷に残った。
庭の上を、四月の光が静かに動いていた。
かつへ伝えなければならない。
だが今、縁談がなくなることが、さちにとって幸いなのか不幸なのかさえ、次郎には分からなかった。
さちが太一を好いていたことを、父は知らない。
娘には、父の知らない心があった。
次郎に分かるのは、つい二日前まで娘の先にあったはずのものが、一つずつ失われていることだけだった。
家から連れ出された。
店から姿が消えた。
町では名を汚された。
そして今、将来の縁もなくなった。
十三の娘が、わずか二日のうちに失うには、あまりに多かった。
けれど当のさちは、そのことを何一つ知らなかった。
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牢の中は薄暗かった。
板壁には湿気が染みつき、古い木と人の汗、汚れた筵の臭いが籠もっている。
さちは格子戸の奥で、一人きりになっていた。
外で何を言われているのか知らない。
田原屋の名まで噂に晒されていることも、自分の名が、会ったこともない者たちの口から口へ渡っていることも知らなかった。
許嫁との縁が切れたことも知らない。
現実では、さちのために決められていた将来が、一つ消えた。
けれど、さちの中では別の縁が、すでに結ばれていた。
出来事の断片は、まださちの中に残っていた。
男が倒れていたことも、父と母が泣いていたことも、役人に連れてこられたことも覚えている。
ただ、それらを死や牢へ結びつける心の働きが、壊れていた。
牢は、牢ではなかった。
勝郎の家だった。
湿った板壁は、古い屋敷の奥座敷だった。
格子戸は、自分を閉じ込めるためのものではない。婚礼まで外へ出ないよう、花嫁を守るための戸だった。
汚れた筵は、美しい敷物に見えた。
酸えた汗と黴の臭いさえ、どこか遠くで焚かれている香の匂いだと思った。
勝郎は、まだ姿を現さない。
けれど、すぐに迎えに来る。
そのことだけは疑っていなかった。
「勝郎様」
さちは誰もいない牢の中へ呼びかけた。
返事はなかった。
それでも、耳を澄ませた。
やがて格子戸が開く。
傷一つない勝郎が立っている。
優しい目でさちを見て、手を差し伸べる。
――助けてくれてありがとう。
――私を人へ戻してくれたのは、あなたです。
その声を思い浮かべるたび、壁際で血を流していた男の姿は薄くなっていった。
潰れた片目。
口と鼻から流れた血。
耳の下へ溜まった赤黒い染み。
折れ曲がった手足。
ひしゃげた胸。
それらを一つずつ消し、さちは自分の望む勝郎を作った。
傷のない白い肌。
整った顔。
優しい目。
けれど、すべてを消すことはできなかった。
さちの前に立つ勝郎は、瞬きをしなかった。
黒い目は濡れた石のように光り、喉の皮だけが、ときおり丸く膨らんだ。
口を開くたび、唇の端から白く濁った粘液が細く伸びた。
人の顔をしているのに、そこだけはヒキガエルのままだった。
それでも、さちは気味悪がらなかった。
「お待ちしておりました」
嬉しそうに言った。
「うふふふふ」
笑い声が、狭い牢の中へ響いた。
勝郎が手を差し伸べる。
その指の皮膚は灰褐色で、短い爪の際には泥が詰まっていた。
さちは両手を伸ばした。
現実には、誰もいなかった。
指先は空を掴み、やがて冷たい板壁へ触れた。
それでも、さちには勝郎の手を取ったつもりだった。
「あたたかい」
壁へ掌を押し当てたまま、微笑んだ。
その笑みは、牢へ入れられたばかりの娘とは思えないほど穏やかだった。
じゃらり。
鉄輪が鳴った。
牢の中には、錫杖などなかった。
だが、さちは振り返った。
「分かっています」
誰にも呼ばれていないのに答えた。
「勝郎様は、もうここにいらっしゃいます」
じゃらり。
さちは板壁へ押し当てた手に、もう片方の手を重ねた。
「ねえ、勝郎様」
「うふふ。うふふふふ」
さちは誰もいない牢の中で、楽しそうに笑った。
町の者が何を言っていても、許嫁との縁が切れていても、それはもう、さちのいる世界には届かなかった。
さちは着物の袖を撫でた。
その目には、嫁入り衣装の美しい袖が見えていた。
髪へ手をやり、ないはずの簪を確かめる。
それから、誰もいない場所へ深く頭を下げた。
「これから、末永くよろしくお願いいたします」
返事はなかった。
「あはははは」
薄暗い牢の中で、十三の娘の笑い声が響いた。
その向かいには板壁しかない。
けれど、さちには勝郎が見えていた。
濡れた黒い目を瞬きもさせず、喉をゆっくり膨らませながら、自分を待っている勝郎が。
だから、さちは幸せだった。
町で名を汚され、家から引き離され、現実の縁を断たれたことも知らずに。
さちだけは、壊れた心の中で、幸せな嫁入りの続きを生きていた。




