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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第01章 鉄輪の音
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終幕 夜鳴き蛙

夜。


開港場のどこかで、水の音がしていた。


川なのか、水路なのか、それとも新田の端に取り残された沼なのかは分からない。


町からさほど遠くはなかった。少し歩けば家並みに出る。店の大戸は閉まり、軒下には灯がともっている。


けれど、人家の途切れた低い土地には、まだ暗い水辺が残っていた。


昼ならば、何でもない場所だった。


田があり、葦があり、湿った畦がある。細い水路には小さな板橋が架かり、その向こうには新しく建った家々の屋根も見える。


夜になると、水と陸の境が消えた。


黒い水がどこまで続いているのか分からない。泥はたっぷりと水を含み、うかつに踏めば足を取られそうだった。


葦の根元には、腐った葉や藻が溜まっている。風が吹くたび、濡れた茎が擦れ合った。


しゃり、しゃり、と音がした。


乾いた葉擦れではない。


湿ったもの同士を、暗闇の中でゆっくり擦り合わせているような音だった。


水面のどこかで、蛙が鳴いた。


一匹が鳴くと、少し離れたところでもう一匹が答えた。その声に引かれるように、別の蛙も鳴き始める。


鳴き声は水辺のあちこちへ広がった。


やがて。


何の前触れもなく、すべてが止んだ。


水辺が静まり返った。


風もなかった。


葦の葉も動かない。


その静けさの底で、


じゃらり。


鉄の輪が鳴った。


暗がりから、老人が歩いてきた。


僧形をしていた。


ひどく痩せ、墨染めの衣は闇へ溶けかけている。色褪せた袈裟は片方の肩からずれ、露わになった首は枯れ枝のように細かった。


干からびた皮膚のうち、額と頬の一部だけが濡れていた。


汗には見えなかった。


水滴は顎の先へ集まりながら落ちず、老人が歩くたび、顔の動きを追うように皮膚の上をゆっくり移動した。


水から上がったばかりのものが、人の衣を借りて歩いているようだった。


老人はゆっくり進んだ。


一歩。


また一歩。


ときおり、身体と足の動きが合わなかった。


足が泥の上に残っているのに、上半身だけがわずかに先へ滑る。


次の瞬間には、何事もなかったように立っている。


もう一歩踏み出すと、今度は膝が曲がるより先に足先が前へ出た。


骨と肉を動かす順序を、よく知らないものの歩き方だった。


闇や水面の揺らぎのせいにも思えた。


だが、老人が歩を進めるたび、身体の動きは同じようにわずかにずれていた。


手には錫杖があった。


先端には、黒く錆びた三つの鉄輪がついている。


老人は錫杖を杖のようには突かなかった。先を地面へ垂らし、泥の上を擦らせるように引いていた。


じゃらり。


じゃらり。


三つの輪が触れ合う。


地上で鳴っているはずなのに、音だけは深い水の底から響いてくるように重かった。


老人が通ったあとには、潮と錆びた鉄の臭いが残った。


海は見えない。


それでも、濡れた綱と腐りかけた海藻の臭いが夜気へ滲み、その奥には古い血に似た生臭さが混じっていた。


耐えられないほど強くはない。


だからこそ、一度気づくと鼻の奥から離れなかった。


老人の顔は、闇に半ば隠れていた。


頬は深く落ちくぼみ、皮膚が頭蓋へ張りついている。


口だけが不自然に長く、両端は頬へ切れ込むように持ち上がっていた。薄い唇の隙間から、黄ばんだ歯が覗いている。


老人は笑っていた。


息遣いは聞こえなかった。


糸のように細い目の奥で、黒い瞳だけが濡れたように光っていた。


老人は水辺で立ち止まった。


足元に、一匹のヒキガエルがいた。


あの春の日、濁った沼へ潜り、黄金色の手毬を拾ったものではない。


別の一匹だった。


よく育った成体らしく、胴は太く、背は黒みを帯びた灰褐色をしていた。


乾いた背には大小の疣が並び、その窪みには黒い泥が詰まっている。目の後ろにある毒腺だけが、湿った光を帯びていた。


腹は泥へ低くついていた。


呼吸するたび、喉の薄い皮が膨らみ、ゆっくりしぼむ。


濁った銅色の目の内側で、横長の黒い瞳孔が老人を見上げていた。


瞬きをしないのではない。


瞬きと瞬きの間が、ひどく長かった。


ヒキガエルは鳴かなかった。


前脚の指を泥へ広げ、ときおり身体を支え直した。そのたびに腹の下から水が染み出した。


老人はヒキガエルを見下ろした。


細い目がさらに細くなった。


笑みが深くなる。


「参りましょう」


老人が言った。


声は、ひどく優しかった。


その濡れた顔から出たとは思えないほど、穏やかな声だった。


幼子を宥める老人のようでもあり、長く仕えた者が主人を促すようでもあった。


「御主人様」


ヒキガエルは答えなかった。


老人を見上げたまま、喉を一度だけ膨らませた。


御主人様。


老人は確かにそう呼んだ。


けれど、頭を下げなかった。


道を譲ることもしなければ、ヒキガエルが先へ進むのを待とうともしなかった。


先に歩き出したのは、老人だった。


じゃらり。


一歩。


じゃらり。


もう一歩。


ヒキガエルはそのあとをついていった。


前脚を泥へ置き、後脚で身体を押し出す。濡れた腹が地面を擦り、泥の表面に浅い筋を残した。


ぺたり。


ぺたり。


老人は振り返らない。


ヒキガエルも鳴かない。


老人が先を歩き、御主人様と呼ばれたものが、黙ってあとに従っている。


その呼び名には、敬意とは別のものが含まれているようだった。


じゃらり。


ぺたり。


じゃらり。


ぺたり。


二つのものは、水辺に沿って進んだ。


風は止まったままだった。


蛙の鳴き声も戻らない。


錫杖の鉄輪と、ヒキガエルの腹が泥を擦る音だけが、暗い水の上を渡っていった。


やがて、老人の輪郭が闇へ溶け始めた。


最初に墨染めの衣が見えなくなり、次に白っぽい頭が消えた。


最後まで残ったのは、横へ裂けたような笑った口だった。


黄ばんだ歯だけが、しばらく宙に浮いているように見えた。


それも消えた。


続いて、ヒキガエルが闇へ入った。


灰褐色の背。


疣の影。


老人を見上げていた、横長の黒い瞳孔。


それらも順に見えなくなった。


姿が消えても、音だけは残った。


じゃらり。


少し間を置いて、


ぺたり。


じゃらり。


音は遠ざかっていった。


水路の向こうへ進んだのか。


家並みへ向かったのか。


それとも、海のほうへ消えたのか。


分からなかった。


じゃらり。


さらに遠くで鳴った。


やがて、その音も夜の底へ沈んだ。


しばらくして風が戻った。


葦が揺れ、濡れた葉が擦れ合った。


どこかで、一匹の蛙が鳴いた。


少し離れたところで、もう一匹が答えた。


やがて水辺は、再び幾つもの鳴き声に満たされた。


二つのものが通った跡には、浅い泥の筋だけが残っていた。


それも、水がゆっくり染み出すと、ほどなく形を失った。


そして開港場の夜は、何事もなかったように続いていった。


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