終幕 夜鳴き蛙
夜。
開港場のどこかで、水の音がしていた。
川なのか、水路なのか、それとも新田の端に取り残された沼なのかは分からない。
町からさほど遠くはなかった。少し歩けば家並みに出る。店の大戸は閉まり、軒下には灯がともっている。
けれど、人家の途切れた低い土地には、まだ暗い水辺が残っていた。
昼ならば、何でもない場所だった。
田があり、葦があり、湿った畦がある。細い水路には小さな板橋が架かり、その向こうには新しく建った家々の屋根も見える。
夜になると、水と陸の境が消えた。
黒い水がどこまで続いているのか分からない。泥はたっぷりと水を含み、うかつに踏めば足を取られそうだった。
葦の根元には、腐った葉や藻が溜まっている。風が吹くたび、濡れた茎が擦れ合った。
しゃり、しゃり、と音がした。
乾いた葉擦れではない。
湿ったもの同士を、暗闇の中でゆっくり擦り合わせているような音だった。
水面のどこかで、蛙が鳴いた。
一匹が鳴くと、少し離れたところでもう一匹が答えた。その声に引かれるように、別の蛙も鳴き始める。
鳴き声は水辺のあちこちへ広がった。
やがて。
何の前触れもなく、すべてが止んだ。
水辺が静まり返った。
風もなかった。
葦の葉も動かない。
その静けさの底で、
じゃらり。
鉄の輪が鳴った。
暗がりから、老人が歩いてきた。
僧形をしていた。
ひどく痩せ、墨染めの衣は闇へ溶けかけている。色褪せた袈裟は片方の肩からずれ、露わになった首は枯れ枝のように細かった。
干からびた皮膚のうち、額と頬の一部だけが濡れていた。
汗には見えなかった。
水滴は顎の先へ集まりながら落ちず、老人が歩くたび、顔の動きを追うように皮膚の上をゆっくり移動した。
水から上がったばかりのものが、人の衣を借りて歩いているようだった。
老人はゆっくり進んだ。
一歩。
また一歩。
ときおり、身体と足の動きが合わなかった。
足が泥の上に残っているのに、上半身だけがわずかに先へ滑る。
次の瞬間には、何事もなかったように立っている。
もう一歩踏み出すと、今度は膝が曲がるより先に足先が前へ出た。
骨と肉を動かす順序を、よく知らないものの歩き方だった。
闇や水面の揺らぎのせいにも思えた。
だが、老人が歩を進めるたび、身体の動きは同じようにわずかにずれていた。
手には錫杖があった。
先端には、黒く錆びた三つの鉄輪がついている。
老人は錫杖を杖のようには突かなかった。先を地面へ垂らし、泥の上を擦らせるように引いていた。
じゃらり。
じゃらり。
三つの輪が触れ合う。
地上で鳴っているはずなのに、音だけは深い水の底から響いてくるように重かった。
老人が通ったあとには、潮と錆びた鉄の臭いが残った。
海は見えない。
それでも、濡れた綱と腐りかけた海藻の臭いが夜気へ滲み、その奥には古い血に似た生臭さが混じっていた。
耐えられないほど強くはない。
だからこそ、一度気づくと鼻の奥から離れなかった。
老人の顔は、闇に半ば隠れていた。
頬は深く落ちくぼみ、皮膚が頭蓋へ張りついている。
口だけが不自然に長く、両端は頬へ切れ込むように持ち上がっていた。薄い唇の隙間から、黄ばんだ歯が覗いている。
老人は笑っていた。
息遣いは聞こえなかった。
糸のように細い目の奥で、黒い瞳だけが濡れたように光っていた。
老人は水辺で立ち止まった。
足元に、一匹のヒキガエルがいた。
あの春の日、濁った沼へ潜り、黄金色の手毬を拾ったものではない。
別の一匹だった。
よく育った成体らしく、胴は太く、背は黒みを帯びた灰褐色をしていた。
乾いた背には大小の疣が並び、その窪みには黒い泥が詰まっている。目の後ろにある毒腺だけが、湿った光を帯びていた。
腹は泥へ低くついていた。
呼吸するたび、喉の薄い皮が膨らみ、ゆっくりしぼむ。
濁った銅色の目の内側で、横長の黒い瞳孔が老人を見上げていた。
瞬きをしないのではない。
瞬きと瞬きの間が、ひどく長かった。
ヒキガエルは鳴かなかった。
前脚の指を泥へ広げ、ときおり身体を支え直した。そのたびに腹の下から水が染み出した。
老人はヒキガエルを見下ろした。
細い目がさらに細くなった。
笑みが深くなる。
「参りましょう」
老人が言った。
声は、ひどく優しかった。
その濡れた顔から出たとは思えないほど、穏やかな声だった。
幼子を宥める老人のようでもあり、長く仕えた者が主人を促すようでもあった。
「御主人様」
ヒキガエルは答えなかった。
老人を見上げたまま、喉を一度だけ膨らませた。
御主人様。
老人は確かにそう呼んだ。
けれど、頭を下げなかった。
道を譲ることもしなければ、ヒキガエルが先へ進むのを待とうともしなかった。
先に歩き出したのは、老人だった。
じゃらり。
一歩。
じゃらり。
もう一歩。
ヒキガエルはそのあとをついていった。
前脚を泥へ置き、後脚で身体を押し出す。濡れた腹が地面を擦り、泥の表面に浅い筋を残した。
ぺたり。
ぺたり。
老人は振り返らない。
ヒキガエルも鳴かない。
老人が先を歩き、御主人様と呼ばれたものが、黙ってあとに従っている。
その呼び名には、敬意とは別のものが含まれているようだった。
じゃらり。
ぺたり。
じゃらり。
ぺたり。
二つのものは、水辺に沿って進んだ。
風は止まったままだった。
蛙の鳴き声も戻らない。
錫杖の鉄輪と、ヒキガエルの腹が泥を擦る音だけが、暗い水の上を渡っていった。
やがて、老人の輪郭が闇へ溶け始めた。
最初に墨染めの衣が見えなくなり、次に白っぽい頭が消えた。
最後まで残ったのは、横へ裂けたような笑った口だった。
黄ばんだ歯だけが、しばらく宙に浮いているように見えた。
それも消えた。
続いて、ヒキガエルが闇へ入った。
灰褐色の背。
疣の影。
老人を見上げていた、横長の黒い瞳孔。
それらも順に見えなくなった。
姿が消えても、音だけは残った。
じゃらり。
少し間を置いて、
ぺたり。
じゃらり。
音は遠ざかっていった。
水路の向こうへ進んだのか。
家並みへ向かったのか。
それとも、海のほうへ消えたのか。
分からなかった。
じゃらり。
さらに遠くで鳴った。
やがて、その音も夜の底へ沈んだ。
しばらくして風が戻った。
葦が揺れ、濡れた葉が擦れ合った。
どこかで、一匹の蛙が鳴いた。
少し離れたところで、もう一匹が答えた。
やがて水辺は、再び幾つもの鳴き声に満たされた。
二つのものが通った跡には、浅い泥の筋だけが残っていた。
それも、水がゆっくり染み出すと、ほどなく形を失った。
そして開港場の夜は、何事もなかったように続いていった。




