序幕 港の怪人
明治十年。
深夜になっても、昼間の暑さは地面や建物の壁に残っていた。ただ、海から吹く風だけが、その熱を少しずつ薄めていた。
港は静かだった。昼には荷を積んだ艀が行き交い、人足の怒鳴り声や荷車の軋む音が絶えない場所も、この時刻になると別の土地のようになる。
海は黒く、石積みの水際へ小さな波が寄せていた。ちゃぷ。ちゃぷ。同じ音が、暗闇の中で繰り返されている。
沖には船の灯がいくつか浮かんでいた。町のほうを見れば、遠くに瓦斯灯の明かりが点々と続いている。だが、水際まで届く光は弱かった。
そこは、表の波止場から少し外れた古い荷揚げ場だった。水際は石で固められていたが、その内側には踏み固められた土の地面が広がっている。荷を置くための古い建物があり、その周りには空の樽や木箱、使い古した縄の束が積まれていた。
夜番が見回りに来ることもあったが、表の波止場ほど頻繁ではなかった。積まれた物の隙間には、濃い影が溜まっていた。
その影のそばで、一人の男が寝ていた。宿を持たない男だった。歳はよく分からない。
髭は伸び、髪には脂が浮いている。擦り切れた着物の上から古い筵をかぶり、荷物らしい荷物も持っていなかった。
少し前までは、日雇いの人足をしていた。毎日仕事があるわけではない。働けた日に銭を得て、飯を食い、安い寝床が見つかればそこで眠った。
それが何日か続けて仕事にあぶれた。懐から銭が消え、寝床もなくなった。
港には、男のような者が時折いた。朝になれば仕事を求め、人足の集まるところへ紛れ込む。運がよければ、その日は食える。悪ければ、腹を空かせたまま、また夜を迎える。
男は眠っていた。海から吹く風に、筵の端がときどき動いた。その近くを鼠が走った。男は気づかなかった。
しばらくして、からん、と何かが鳴った。
鼠が止まった。積み荷の向こうへ顔を向けた。次の瞬間、影の中へ逃げ込んだ。
男はまだ眠っていた。
からん。
今度は、少し近かった。硬い何かが、地面に露出した石へ当たったような音だった。
男が眉を動かした。だが、目は開けなかった。酔っ払いか、見回りの夜番だと思った。夜になっても、港から人間がまったく消えるわけではない。珍しいことではなかった。
からん。
男は目を開けた。
黒いものが立っていた。
最初、男は異人だと思った。この町では、それほど珍しい存在ではない。日本人より背の高い者も多かった。
だが、目の前にいるものは高すぎた。
三間まではあるまい。それでも、人の背丈の倍ほどはあるように見えた。頭が異様に高いところにあった。
脚が長かった。細く、黒く、膝から下ばかりが不自然に伸びている。
脚の先は人間の足とは似ていなかった。黒い鉄の塊のように細く尖り、地面から突き出た石に触れるたび、からん、と硬い音を立てた。
腕も長かった。立ったまま、手にあたる部分が膝よりずっと下まで垂れている。
丈の長い洋服を着た異人にも見えた。しかし、よく見ると服ではなかった。身体そのものが黒かった。布と皮膚の境目がない。
闇の中から、さらに濃い闇だけを切り取って、人の形に立たせたようだった。
男は筵を押しのけ、身を起こした。
「……何だ」
声が掠れた。
黒いものは答えなかった。
顔がなかった。
そこに顔があるはずだった。目。鼻。頬。何もない。ただ、滑らかな黒い面がある。
その下のほうに、口だけがあった。横に細長く裂けた口だった。
黒い頭部の中で、そこだけがゆっくりと開いた。白いものが並んでいた。
人間の歯ではなかった。犬の牙に似たものが何本も並び、濡れて光っていた。
男は筵を蹴り飛ばして立ち上がった。
「ひっ」
後ずさろうとした足が、地面に落ちていた縄へ引っかかった。男は尻餅をついた。
黒いものが動いた。長い片腕が、ゆっくり持ち上がった。
そこで初めて、男はその先端を見た。
手のようなものだった。だが、指がなかった。手首にあたる部分から先が一つにつながり、細く尖っている。槍の穂先のようだった。
黒いものは、腕を大きく振りかぶりもしなかった。肘から先が、まっすぐ男へ落ちた。
男が叫ぶより早かった。
鈍い音がした。
尖った腕の先が、男の右肩を貫いた。その勢いで、男の身体が地面へ倒れた。黒い腕は肉を抜け、その下の固い土へ深く突き刺さっていた。
「ぎゃああっ!」
男の身体が跳ねた。
逃げようとしても動かなかった。右肩が地面へ押さえつけられている。
男は左手で黒い腕を掴んだ。冷たかった。木でも鉄でもない。濡れた石のような感触だった。
「助けてくれ!」
男が叫んだ。
「誰か! 誰か!」
声は古い建物の壁にぶつかり、暗い海のほうへ広がっていった。
答える声はなかった。駆けてくる足音もなかった。
沖の灯が揺れていた。波が石へ当たっている。遠くで犬が一度吠えた。それだけだった。
男は足をばたつかせた。肩から血が流れ、着物を黒く染めていった。
黒いものは、男の上へ身体を折った。異様に長い脚が曲がった。腰が低く沈んだ。長い首のようなものが下りてきた。
顔のない頭が、男のすぐ上まで来た。
「やめろ」
男は泣いていた。
「銭ならねえ。何にもねえんだ。俺ァ、何にも持ってねえ」
黒い頭が傾いた。男の言葉を聞いているようにも見えた。
男は一瞬、言葉が通じたのだと思った。助かるかもしれないと思った。
その口が開いた。
顎が、人間ならばあり得ないところまで下がった。白い牙が現れた。
男の叫び声が港に響いた。
黒いものは、男の脇腹へ噛みついた。布が裂けた。続いて、肉の裂ける音がした。
男の身体が大きく痙攣した。
「や、やめ――」
黒いものが顔を上げた。牙の間に、血と布が挟まっていた。
口が再び開いた。
二度目に閉じたとき、男の声は悲鳴にならなかった。喉から、空気の漏れるような音だけが出た。
黒いものが顔を上げた。牙の間から、細長いものが垂れていた。それを噛み切り、飲み込んだ。
また、男へ顔を近づけた。
食べていた。
急ぐでもなかった。獣のように辺り構わず暴れるわけでもなかった。
ただ、腹を空かせた者が飯を食うように。
一口。また一口。
男はまだ生きていた。左手が地面を掻いていた。爪の間に土が入った。
肩を貫いた黒い腕は、男を地面へ押さえつけたまま動かなかった。
海の匂いの中へ、濃い血の匂いが混じっていった。
その様子を見ている者がいた。
少し離れた古い建物の陰に、一人の男が立っていた。いつからそこにいたのかは分からない。
大きな男だった。怪人ほどではない。だが、人間としてはかなり大柄だった。肩が広く、身体にも厚みがあった。
顔の上半分は、建物の影に隠れていた。町から届く弱い光が、頬から下だけをかすかに照らしている。
大柄な男は助けを呼ばなかった。逃げもしなかった。怪人が人を食うところを、黙って見ていた。
宿なしの男の手が地面を掻いた。牙が肉を裂いた。血が土へ染み込んだ。
やがて、大柄な男の口元が動いた。白い歯が、わずかに見えた。
ニヤリ、と笑った。
怪人へ向けた笑みなのか。死にかけている男へ向けたものなのか。それとも、何か別のことを考えていたのか。
分からなかった。
大柄な男は踵を返した。暗い港の道を歩いていった。一度も振り返らなかった。
その姿は、建物の向こうへ消えた。
あとには、ちゃぷ。ちゃぷ。と波の音が残った。
そして、肉を噛み切る湿った音。
黒い怪人は、まだ食べていた。




