一幕 根津、開港場へ
根津宗吉は、北の内陸にある村で生まれた。
生家には父と母と兄、それから祖母がいた。祖母は、他の者には見えないものを見る人だった。宗吉も幼い頃から、そうしたものを見ることがあった。
だから祖母は、折に触れて宗吉に妖の話をした。昔話を聞かせるように面白おかしく語ることもあったが、大事なところへ来ると、声はいつも低くなった。
ある夜のことだった。家の者はもう寝ていた。囲炉裏には赤い火がわずかに残り、祖母が灰をならしていた。
その晩、祖母はいつになく口数が少なかった。火の始末をしながら、ときどき障子のほうへ目をやっていた。
宗吉は、祖母が何かを知っているような気がして、寝床へ行かなかった。囲炉裏のそばで、膝を抱えて座っていた。
祖母は追い払わなかった。ただ、
「明日、起ぎられねぐなるぞ」
と言った。
「起きられる」
宗吉は答えた。
そのとき、障子の向こうを何かが通った。人の影より小さかった。犬よりは大きかった。二本の足で歩いているようにも見えたが、影だけなのでよく分からない。
足音はしなかった。すう、と障子の端から端まで移り、そのまま消えた。
宗吉は目を丸くした。祖母の手も止まっていた。
「婆さま」
「ん」
「今の、見えたか」
「見えだ」
祖母はそれだけ答えると、また灰をならし始めた。
宗吉は障子のほうを見た。
「何だべ」
「知らね」
「見に行くか」
祖母の手が止まった。今度は宗吉を見た。
「行ぐな」
「でも」
「んでもでねえ」
祖母は火箸を灰へ差した。
「おめえな、怖がることァねえ。見えだもん全部に腰抜かしてたら、暮らしてられねえ」
宗吉は頷いた。
「だども、こっちから近寄って行ぐもんでもねえ」
「何で」
「向ごうにゃ、向ごうの理があるからだ」
宗吉は、ことわり、と口の中で繰り返した。
祖母は火箸で灰を寄せた。赤い炭が、灰の下へ隠れていった。
「人にゃ人の決まりがあるべ。人ん家さ勝手に上がれば怒られる。人の物取れば咎められる。あれらも同じだ。何してもええわげでねえし、何されてもええわげでねえ。あれらにゃ、あれらの理がある」
「どういう理?」
「そりゃ相手による」
「さっきのは?」
「知らね」
「婆さまでも?」
「知らねえもんは知らねえ」
祖母はきっぱりと言った。
「だから、知らねえもん追っかげんな」
宗吉は少し考えた。
「じゃあ、知ってる妖なら追いかけてもいいのか」
「何でそうなる」
祖母が顔をしかめた。宗吉は黙った。
祖母は呆れたように息を吐いた。
「何でもかんでも怖がれって言ってんでねえ。相手を知れって言ってんだ。何すれば怒るのか。何もしなけりゃ、何もしてこねえのか。分がらねえうちは、余計なことすんな」
宗吉は真面目な顔で頷いた。
「分かった」
「本当か」
「うん」
「だったら寝ろ」
宗吉は立ち上がった。けれど、寝床へ向かう前に、もう一度だけ障子を見た。さっきのものが戻ってこないかと思ったのである。
祖母の教えを、宗吉はそれなりに守った。妙なものが見えても、片端から近寄っていったわけではない。向こうがこちらへ関わってこないかぎり、自分から触れようとはしなかった。
ただ、祖母の言葉の中で、
――相手を知れ。
というところだけが、宗吉の頭にはひどく鮮やかに残った。
何をすれば怒るのか。何を嫌うのか。どこにいて、なぜ姿を見せるのか。同じ姿をしているものは、すべて同じものなのか。
そういうことが気になった。
宗吉は、もともと何かを知ることが好きな子供だった。
村の者が外から帰ってくれば、どこへ行ったのかと聞いた。見慣れない道具があれば、何に使うのかと尋ねた。馬方が見慣れない荷を運んでいれば、中に何が入っているのか気になった。
旅の商人が来れば、どこから来たのか、向こうでは何を食べ、どんな家に住んでいるのかと聞きたがった。
人の話を聞くのも好きだった。老人の昔話でも、女たちの世間話でも、馬方が道中で見たものの話でもよかった。
人そのものが好きだった。そして、妖も嫌いではなかった。
遠くに妙なものが見えれば、つい目で追った。誰かが不思議なものを見たと言えば、もう少し詳しく聞きたくなった。
祖母が昔見たものの話を始めると、仕事をしながら耳を傾けた。話に夢中になるあまり手が遅くなり、
「ほれ、手ェ動がせ」
と叱られることもあった。
「動かしてる」
宗吉はそう答えた。実際、手は動いていた。ただし、さっきまでの半分ほどの速さになっていた。
宗吉は、家の仕事を頼まれれば、忘れずにやった。
掃き掃除をすれば隅まで掃いた。水を汲めと言われれば、水甕の残りを見て、足りなければ多めに運んだ。薪が減っていれば、言われる前に補った。破れたものがあれば繕った。
食べ物を粗末にするのも嫌った。飯粒ひとつ残すのを惜しんだ。
物を買うときにも、すぐには銭を出さなかった。本当に要るものなのか、一度考えた。少しくらい古くても使えるなら、そのまま使った。
子供の頃から銭を貯めるのが好きだった。何かの手伝いで小銭をもらえば、すぐには使わずに取っておいた。
祭りの日に銭を持たされても、全部は使わなかった。甘いものをひとつ買えば、それで満足した。残りは家へ持ち帰った。
「子供のくせに、何さ使うんだ」
兄に笑われたことがある。
「まだ決めてない」
宗吉は答えた。
使い道が決まっていないからこそ、持っていたかった。銭があれば、何かしたくなったときにできる。欲しいものができたときに買える。どこかへ行きたくなったときにも使える。
子供の宗吉が、そこまで言葉にして考えていたわけではない。ただ、昨日より少し重くなった銭入れを掌に載せるのが好きだった。
やがて大きくなると、村の中で頼まれる仕事も増えた。
田畑の手伝いをした。馬の世話もした。荷を運ぶこともあった。薪や炭を扱う仕事へ混じることもあれば、近くの町へ品を運ぶ者について行くこともあった。
宗吉は色白で、小柄だった。身体にもさほど厚みがなく、細身だった。
だからといって、身体を使う仕事が何もできないわけではなかった。村の仕事は一通りこなしたし、頼まれれば荷も運んだ。
ただ、大きな俵や太い薪を担がせれば、身体の大きな男たちにはかなわなかった。同じ荷を運ぶにも、宗吉のほうが余計に力を使った。長く続けば、先に息が上がった。
その代わり、手先を使う細かな仕事はわりあい得意だった。言いつけられたこともよく覚えた。銭を預かれば、いくら受け取り、いくら使ったかをきちんと数えた。
新しい仕事を教わるのも好きだった。
初めて見る道具を渡されれば、使い方を覚えたがった。知らない結び方を見れば教えてもらった。人によってやり方が違えば、どちらが早いのか試した。
働くことそのものより、知らなかったことができるようになるのが好きだった。
そうしていると、周囲からはずいぶんしっかりした若者に見えた。ところが宗吉は、ときどき妙な失敗をした。
あるとき、馬に水を飲ませるのを頼まれた。
水をやり、桶を洗い、馬の鼻先まで拭いてやった。そこまでは何の問題もなかった。
終わって戻ろうとしたところで、自分が置いた桶につまずいた。派手に転び、慌てて起き上がった拍子に、もう一つの桶へ尻を突っ込んだ。
見ていた男が腹を抱えて笑った。
別の日には、人の家で荷を運ぶのを手伝った。壊れ物だけは気をつけろと言われたので、宗吉はそれを両手で大事に抱え、慎重に運んだ。
無事に置いた。
ほっとして立ち上がったところで、鴨居に頭をぶつけた。痛さに跳び上がり、その拍子に背後の籠を蹴飛ばした。
籠から芋が転がった。宗吉はしばらく無言で芋を拾った。
「おめえ、しっかりしてんだか馬鹿なんだか、分がらねえな」
そう言われた。
家でも似たようなことを言われた。母は笑い、兄も笑った。
祖母だけは、
「考え事しながら歩ぐからだ」
と言った。
宗吉には反論できなかった。
仕事を忘れるわけではない。怠けているわけでもない。肝心なところはきちんと終えるのに、気が抜けた途端、自分で置いた道具を踏んだり、柱へ肩をぶつけたりする。
宗吉自身も、そんなときには皆と一緒に笑った。
頼めば働く。銭勘定もごまかさない。人の話をよく聞く。それでいて、ときどきどうしようもなく間の抜けたことをする。
そういう男だったので、年長の者にも、同じ年頃の者にも可愛がられた。
宗吉が大きくなってからも、生家での暮らしは変わらなかった。父がいて、母がいて、祖母がいて、兄がいた。宗吉も働いた。稼いだものの一部を家へ入れ、残りを貯めた。
その暮らしが変わったのは、兄が嫁を迎えることになったときだった。
祝言の日、家には人が集まった。祝いの膳が並び、酒が出た。
宗吉もよく働いた。足りないものがあれば持ってきて、人に呼ばれれば走り、酔った者が何かこぼせば拭いた。
一度だけ自分も酒を飲み、むせた。
兄に笑われた。宗吉も笑った。
兄嫁はよく働く人だった。気立ちも悪くなかった。宗吉にも親切だった。
だから、兄が嫁を迎えて家にいづらくなった、というのとは少し違う。誰も宗吉を邪魔者扱いしなかった。
それでも、家の中の形は少しずつ変わった。
兄と兄嫁が並んで食事をしている。二人で何かを相談している。兄の着物を兄嫁が繕っている。兄嫁が台所に立てば、母が隣に立って教えている。
そうした様子を眺めながら、宗吉はときどき、自分だけが家の中で余ったような気がした。
誰かにそう思わされたわけではない。自分で勝手に感じただけだった。
ある晩、寝る前に銭入れを出した。
中身を数えた。何度も数えているので、いくらあるかは分かっている。それでも、ひとつずつ並べて数えた。
ずいぶん貯まったものだと思った。
銭を袋へ戻しながら、宗吉は初めて考えた。
ここを出てもいいのではないか。
家が嫌なわけではなかった。村が嫌なわけでもなかった。むしろ好きだった。
道を歩けば誰かが声をかけてきた。頼まれる仕事もあった。食うには困らなかった。
だが、狭かった。
村で暮らしていれば、明日会う人間はだいたい分かる。どんな仕事をするのかも分かる。一年後に何をしているのかまで、何となく想像できた。
宗吉には、それが少し物足りなくなっていた。
もっと外を見たかった。知らない人間に会いたかった。知らない仕事を覚えたかった。
その頃、遠い海辺の開港場について、耳にすることが増えていた。
そこには大きな船が来るという。異国の者が暮らしているという。生糸や茶をはじめ、さまざまな荷が集まり、海の向こうへ運ばれていくという。
商家が並び、職人が働き、車を引く者や船の荷を扱う者など、とにかく多くの人間が集まっている。
働く気さえあれば、仕事はある。
そんな話をする者もいた。
もちろん、うまい話ばかりではなかった。
人が多ければ、騙す者もいる。銭を持たずに流れ着き、その日の飯にも困る者がいる。仕事にあぶれることもあれば、病に倒れ、故郷へ帰れなくなる者もいる。
宗吉は、よい話も悪い話も聞いた。それでも行ってみたかった。知らないものが、あまりにも多かったからである。
宗吉は家族に話した。最初に聞いた父は、しばらく黙っていた。
母は、
「何も、そったに遠ぐまで行がねぐても」
と言った。
兄も驚いた。祖母は宗吉の顔を見た。
「もう決めだのが」
「うん」
宗吉は答えた。
「行ってみたい」
家族は止めた。強く縛りつけるほどではなかったが、何度も考え直せと言われた。
村の中にも仕事はある。近くの町へ出るだけでもいい。何も、海のあるところまで行くことはない。
宗吉はそれを聞いたうえで、やはり行くと言った。
その日の夕方、宗吉が荷物をまとめていると、兄嫁がやって来た。
「宗吉さん」
「ん?」
「私が来たから、出でぐんでねえよね」
宗吉は手を止めた。驚いて兄嫁を見た。
「何で?」
「いや……そうだったら、どうすべと思って」
「違う違う」
宗吉は慌てて首を振った。
「そんなこと、考えてもいなかった。俺が勝手に行きたいだけだ」
「本当に?」
「本当だ」
兄嫁は少し安心した顔をした。
「なら、ええんだけど」
そう言ってから、少し黙った。
「でも、寂しくなるな」
宗吉は笑った。
「俺がいなくても、何も困らないべ」
「困るよ」
「何が」
「いろいろだ」
「何だ、それ」
二人で笑った。
出立が近づくにつれて、家の者は口数が減った。
父は道中で気をつけることを宗吉に教えた。母は持たせるものを何度も確かめた。兄嫁は道中で食べるものを包んだ。
兄は、何かあったら帰ってこい、と繰り返した。
祖母は最後まで、あまり変わらなかった。
宗吉が発つ前の晩、祖母は宗吉を呼んだ。
「向ごうさ行げば、人も多いべ」
「うん」
「人が多けりゃ、妙なもんも多い」
宗吉は祖母を見た。祖母も宗吉を見た。
「見えでも追うなよ」
宗吉は少し笑った。
「分かってる」
「おめえの分がってるは、信用ならねえ」
「何で」
「昔からだ」
祖母は言った。
「知らねえもん見つけると、すぐ目ぇ輝がす」
宗吉は返す言葉がなかった。
祖母は宗吉の額を軽く叩いた。
「怖がれとは言わねえ。だども、面白がって命まで突っ込むな」
「うん」
「人も同じだ」
「人も?」
「人にも、人の理がある」
祖母はそう言った。それから少し考え、
「まあ、おめえは人の話聞ぐの好きだからな」
と続けた。
「いっぱい見で、いっぱい聞いでこい」
宗吉は頷いた。
翌朝、宗吉は生家を出た。
荷物は多くなかった。必要な着替えと、道中で使うもの。それから、長いあいだ貯めてきた銭。
家族が外まで出てきた。母は今にも泣きそうな顔をしていた。兄嫁も目を赤くしていた。
兄は何度目か分からない、
「困ったら帰ってこ」
を言った。
父は、
「身体さ気ぃつけろ」
と言った。
祖母は何も言わなかった。
宗吉は皆の顔を見た。胸が詰まった。それでも、足は軽かった。
これから先には、知らない町がある。知らない人がいる。知らない仕事がある。
何が待っているのか、宗吉には分からなかった。
分からないということが、嬉しかった。
「行ってきます」
そう言って頭を下げ、家族に背を向けた。
何歩か歩いてから振り返ると、まだ皆がいた。兄嫁まで手を振っていた。
宗吉も手を振った。そして、また歩き出した。
目指すのは、遠い海辺の開港場だった。




