二幕 失職
開港場へ着いた日の夕方、宗吉はしばらく往来の端に立っていた。
人が多かった。それが第一の感想だった。
故郷から出てくる途中にも、宿場や町を通った。人の集まる場所を知らなかったわけではない。けれど、ここには四方から絶えず人が流れ込んできていた。
商人が歩いている。荷を担いだ人足が歩いている。職人らしい男がいて、その脇を役人が通る。着物の裾をからげた使い走りの小僧が駆けていき、車を引く男が声を上げた。
そのすぐそばを、見慣れない服を着た異国人が通り過ぎていく。
通りの向こうには二階建ての商家が連なり、そのさらに先には、瓦屋根の町並みとはまるで違う造りの建物まで見えた。
何より、空気が違った。
潮の匂いがした。濡れた木材、馬の糞、土埃、人の汗、煮炊きする煙。さまざまな匂いが入り交じり、風向きが変わると、海のほうからまた別の匂いが流れてくる。
宗吉には、それさえ珍しかった。
往来の真ん中で立ち止まりそうになり、後ろから来た男に、
「邪魔だよ」
と肩を押された。
「あ、すみません」
慌てて脇へ寄ると、今度は積み荷を載せた車がすぐ横を通った。宗吉はさらに後ろへ下がり、軒下の柱へ背中をぶつけた。
ごつん、と音がした。
振り返って柱を見る。柱は何も悪くなかった。
「……気をつけねえとな」
誰にともなく呟き、肩に掛けた荷を持ち直した。
胸の奥が妙に浮き立っていた。知らないものばかりだった。
見たことのない建物。聞き慣れない言葉。知らない商売。知らない人間。道を一本曲がれば、その先にもまた、知らないものがある。
旅の疲れはあったはずなのに、足は軽かった。もっと見て歩きたかった。
しかし、その前に寝る場所を決めなければならなかった。
宗吉が田所千代という女の間貸しを知ったのは、道中で何度か顔を合わせた男からだった。
男は開港場の港で人足をしていた。
宿屋ではないが、持ち家の余った一間を貸している女がいる。長く働くつもりなら、宿に泊まり続けるより安く済むだろう。自分の名を出せば、話くらいは聞いてくれるはずだ。
男はそう言って、千代の家までの道を教えてくれた。
教えられた道を何度か間違えた末、宗吉はその家を見つけた。表通りから少し入ったところにある、小さな家だった。
戸を叩くと、
「誰だい」
と、中から女の声がした。
「根津宗吉といいます。部屋を貸してると聞いて来ました」
「誰から聞いたの」
宗吉が道中で会った男の名を告げると、中で戸の桟を外す音がした。
出てきた女が、宗吉を上から下まで眺めた。
田所千代だった。
三十をいくらか過ぎたように見えた。髪をきちんとまとめ、地味な着物を着ている。
宗吉の顔を見て、荷物を見て、もう一度顔を見た。
「ひとり?」
「はい」
「女房は?」
「いません」
「逃げられた?」
「最初からいません」
千代は少し黙った。
「そう」
それだけ言った。
宗吉は、何か試されたのかと思った。
「部屋、空いてますか」
「空いてるよ。空いてなかったら、あんたとこんな話してない」
もっともだった。
「仕事は決まってるの」
「明日、さっきの人を訪ねることになってます。港の仕事を紹介してもらえるかもしれません」
「決まってはいないんだね」
「まだです」
「店賃は払えるの」
「当分は」
宗吉は答えた。
千代はしばらく宗吉の顔を見ていたが、やがて家の中へ入るよう顎を動かした。
貸すという部屋は、畳の敷かれた小さな一間だった。広くはない。けれど、宗吉には十分だった。
雨風をしのげる。荷物も置ける。横になって眠れる。壁もある。戸も閉まる。
故郷から持ってきた銭を考えれば、しばらくは払える。
千代が店賃を告げた。
「一月ごとの先払いだよ。今日から入るなら、今日から一月分」
宗吉は頭の中で勘定した。道中で使った分を引いても、まだ余裕はある。宿へ泊まり続けるよりは安かった。
「分かりました」
「先に言っとくけどね」
千代が言った。
「飯は出ないよ」
「はい」
「洗濯も自分でしな」
「はい」
「部屋を汚したり傷めたりしたら、直してもらう」
「分かりました」
「火を出したら承知しないよ」
「出しません」
「夜中に酔っ払って帰ってくるのも嫌だね」
「酒はそんなに飲みません」
「女を連れ込むのも」
「連れ込む女がいません」
千代は宗吉を見た。
「それは気の毒だね」
「そうですかね」
「知らないよ。あんたのことだろ」
宗吉は返事に困った。
銭入れから一月分の店賃を出し、千代へ渡した。千代はその場で一つずつ確かめた。
「はい、ちょうど」
「ありがとうございます、お千代さん」
千代が顔を上げた。
「何だい、それ」
「え?」
「いきなり馴れ馴れしいね」
「じゃあ、田所さん」
「好きに呼びな」
そう言うと、千代はもう宗吉への興味を失ったように部屋の戸を開けた。
「今日から使っていいよ」
宗吉は、この人は少し変わった人だと思った。千代のほうも、宗吉を同じように思ったらしかった。
その晩、宗吉は持ってきた荷をほどいた。
着替えを置き、細かな物をまとめる。銭は二つに分けた。当座使う分と、なるべく手をつけない分である。
旅のあいだにも何度か数えた。開港場へ着いてから、また数えた。
減ってはいる。
当然だった。宿にも泊まった。飯も食った。道中には思ったより銭がかかった。いまは最初の店賃も払った。
けれど、まだ慌てるほどではない。
働けばいい。
宗吉は銭を包み直し、道中で使っていた薄い夜具を畳の上へ敷いた。
夜になっても、町は完全には静まらなかった。戸の向こうを誰かが歩いていく。車輪の軋む音がする。犬が吠える。どこかで男たちが笑っている。
そのもっと遠くから、低く長い音が聞こえた。
船だろうか。
宗吉は夜具の中で目を開けた。聞いたことのない音だった。起き上がって外へ見に行きたくなった。
けれど、明日は仕事を探さなければならない。
宗吉は目を閉じた。それでも、しばらく眠れなかった。
翌朝、宗吉は教えられていた場所へ向かった。
道中で会った男は、本当にそこで宗吉を待っていた。宗吉を見るなり、
「お前、本当に来たのか」
と笑った。
「来るって言ったでしょう」
「途中で帰るかと思ったよ」
「何でです」
「細っこいから」
宗吉は自分の腕を見た。
細いことは自覚している。背も高くない。日に焼けにくい肌は、長い旅をしてきてもまだ白かった。
男は港の近くで働いていた。
沖の船から艀で運ばれてきた荷を波止場で揚げる。あるいは、揚げた荷を倉や商家まで運ぶ。その日に何を扱うかは違うが、人手はよく要るという。
「荷運びをやったことはあるのか」
「少しは」
「ここの荷は重いぞ」
「やってみます」
「無理そうなら言えよ」
「はい」
男はまだ心配そうだったが、仕事を回している者へ宗吉を引き合わせてくれた。
港へ近づくにつれ、町の音が変わっていった。人の声が大きくなる。木と木のぶつかる音。縄が擦れる音。荷を置く鈍い音。男たちが互いに呼び合う声。
海には大小の船がいた。沖には大きな船の帆柱も見え、そのあいだを艀が行き来している。
波止場には、木箱、俵、樽、縄で固く括られた荷が積まれていた。宗吉には、中身の分からないものも多かった。
あれは何だ。これはどこから来た。あの印は何だ。
知りたいことはいくらでもあった。だが、見物に来たわけではない。
宗吉にも荷が渡された。最初の一つを持ち上げたとき、思わず息が止まった。
重かった。
持てないほどではない。けれど、故郷で運んだ薪や作物とは勝手が違った。
持ちにくい。足元も悪い。周囲には人と荷がひしめいている。ぶつからないよう運ばなければならない。
宗吉は歯を食いしばって歩いた。
一つ運ぶ。戻る。また運ぶ。
朝のうちは、まだよかった。
昼頃になると、腕が重くなった。肩が張り、腰のあたりに鈍い疲れが溜まってきた。
近くで働いていた男が宗吉を見た。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫です」
「顔、真っ白だぞ」
「もともとです」
男が笑った。
「そりゃそうか」
別の人足が宗吉の荷を見て、
「そっちは俺が持つよ」
と言った。
「いえ、大丈夫です」
「無理すんな。もっと軽いの持ってけ」
「持てます」
「そういうことじゃねえよ」
宗吉には、その言葉の意味が分かっていた。
周りの男たちは宗吉より大きかった。肩幅が違う。腕も太い。荷を担ぐ姿にも慣れがある。同じ一つの荷でも、宗吉が運ぶのと彼らが運ぶのとでは違った。
だからこそ、宗吉は断れなかった。
自分だけ軽い荷に替えてもらうのが申し訳なかった。仕事を紹介してもらったばかりでもある。来たばかりの者が、できませんとは言いたくなかった。
その日は最後まで働いた。帰る頃には、腕を上げるだけで肩が痛んだ。
千代の家へ戻ると、千代が宗吉を見て言った。
「ずいぶん汚くなって帰ってきたね」
「働いてきました」
「見りゃ分かるよ」
宗吉が上がろうとすると、
「待ちな」
と言われた。
「その足で畳を踏む気かい」
宗吉は自分の足元を見た。泥と埃で汚れている。
「すみません」
「働くのは結構だけど、家まで波止場にしないでおくれ」
宗吉は足を洗ってから上がった。
飯を食う頃には、箸を持つ手まで重かった。それでも、悪い気分ではなかった。
働いた。銭も入った。知らない仕事を一つ知った。
明日も行けば、もう少しうまくできるかもしれない。
そう思った。
二日目は、身体のあちこちが痛かった。
起き上がったとき、背中が張っていた。腕も重かった。けれど、動けないほどではない。
仕事へ行った。
昨日よりは荷の持ち方が分かった。肩へどう載せればいいか。腰をどう入れるか。人のあいだをどう通ればいいか。
少し覚えた。覚えたからこそ、昨日より多く運んだ。
昼を過ぎると、腰の奥に嫌な重さが出てきた。
「おい」
昨日も声をかけた男が言った。
「少し休め」
「大丈夫です」
「大丈夫に見えねえよ」
「まだ持てます」
「持てるかどうかじゃねえんだ」
宗吉は少し笑った。
「すみません」
「謝るくらいなら座れ」
宗吉は少しだけ休んだ。
けれど、周りが働いているのを見ると落ち着かなかった。間もなく立ち上がり、また荷を運び始めた。
三日目の朝には、身体が明らかに重くなっていた。
起き上がると腰が痛んだ。じっとしていれば、それほどでもない。動くと少し痛む。
宗吉は腰を伸ばした。
「……こんなもんだべ」
身体が仕事に慣れていないだけだと思った。
仕事場へ行き、午前のうちはいつもどおり働いた。
昼を過ぎて、少し大きな荷を持ち上げた。その瞬間、腰の奥で何かが引きつった。
鋭い痛みが走った。
宗吉の身体が止まった。
「おい!」
横から手が伸び、荷を支えた。別の男も駆け寄り、二人で荷を下ろした。
「何やってんだ」
「すみません」
「だから無理すんなって言ったろ」
宗吉は腰へ手を当てた。
「大丈夫です」
「お前、それしか言わねえな」
立っていることはできた。歩くこともできた。ただ、身体を曲げると痛んだ。荷を持とうとすると、さらに痛む。
さすがにその日は早く上がらされた。
「明日は休め」
と言われた。
宗吉は返事だけした。
千代の家へ帰ったときには、歩き方までおかしくなっていた。
千代は宗吉を見ると、眉をひそめた。
「何、その歩き方」
「ちょっと腰を」
「ちょっと?」
「痛めました」
「何日働いたの」
「三日です」
千代は呆れた顔をした。
「ずいぶん早いね」
「俺もそう思います」
宗吉は座ろうとした。腰が痛み、中途半端な姿勢で止まった。
千代がそれを見ていた。
「医者へ行きな」
「寝れば治るでしょう」
「寝て治る程度かどうか、あんたに分かるのかい」
「でも」
「そのまま動けなくなって、うちで寝たきりになられても困るんだ。医者に見せな」
そこまで言われると、宗吉も行くしかなかった。
千代に教えられた医者を訪ねた。深津という医者だった。
深津は宗吉の腰や背を調べた。どこが痛むのかを聞き、身体を曲げさせ、足を動かさせた。
宗吉が顔をしかめるたび、深津も渋い顔をした。
「何の仕事をしている」
「荷運びです」
「いつから」
「三日前です」
深津が宗吉を見た。
「三日?」
「はい」
「その身体で?」
宗吉は自分の身体を見た。
「そんなに駄目ですか」
「駄目とは言っていない。合っていないと言ってるんだ」
「慣れれば平気でしょう」
「慣れる前に壊したらどうする」
宗吉は黙った。
深津は宗吉の腕を見て、それから腰へ目をやった。
「お前さん、昔から一日中荷を担ぐ仕事をしてきたわけじゃないだろう」
「いろんな仕事はしてました」
「いろんな仕事と、朝から晩まで重い荷を運ぶ仕事は別だ」
宗吉は何も言えなかった。
深津は薬を用意しながら、
「数日は休みなさい」
と言った。
「それから、できれば仕事を変えたほうがいい」
「でも、始めたばかりです」
「始めたばかりだから変えろと言っている」
「もう少しやれば慣れるかもしれません」
深津は宗吉を見た。
「医者のところへ来て、医者の言うことを聞かないなら、何をしに来た」
「お千代さんに行けと言われたので」
「お前さんなあ」
「すみません」
深津は溜息をついた。
「荷運び以外にも仕事はあるだろう。ここは人間の多い町だ。帳面を扱えるなら、店へ入る道もある。手先が利くなら別の口も探せる。何も身体を壊す仕事にしがみつくことはない」
宗吉は頷いた。
「分かりました」
「本当に分かったか」
「はい」
そのときは、宗吉も休むつもりだった。
ところが翌朝になると、途中で仕事を抜けたことが気になり始めた。ほかの者へ、自分の分まで働かせたような気がした。
腰は昨日よりましだった。薬も効いているのかもしれない。
働ける。
宗吉はそう考え、家を出ようとした。戸口で千代に見つかった。
「どこ行くの」
「仕事です」
「医者は何て言ったの」
「数日は休めと」
「じゃあ、何で出ていくの」
宗吉は少し考えた。
「昨日、途中で帰ったから」
「だから?」
「今日まで休んだら、悪いでしょう」
千代はしばらく宗吉を見ていた。
「馬鹿なの?」
「よく言われます」
「褒めてないよ」
「知ってます」
宗吉は仕事へ行った。
仕事場へ着くと、昨日助けてくれた男が宗吉を見るなり顔をしかめた。
「何で来たんだよ」
「働きに」
「見りゃ分かるよ」
また似たようなことを言われた。
宗吉は少し笑った。
「もう大丈夫です」
男は笑わなかった。
「医者は?」
「数日は休めって。それから、仕事を変えろと」
「じゃあ休めよ。仕事も変えろ」
「まだ三日しかやってないでしょう」
「三日で腰やったんだろ」
返す言葉がなかった。
男は仕事を回している者と話し、その日は軽い荷だけを扱うことを条件に、宗吉を働かせた。
それから三週間あまり、宗吉は港へ通った。腰の痛みは、よくなったり戻ったりした。
軽い荷なら運べた。荷の持ち方も、縄の扱いも、人のあいだを通るときの身のこなしも、初めの頃よりずっとうまくなった。
宗吉は仕事を覚えていった。
それでも、大きな荷や重い荷になると、ほかの者に任せなければならなかった。
周りの男たちは誰も宗吉を責めなかった。
「お前はそっちでいい」
「無理すんな」
と言ってくれた。
それが宗吉にはつらかった。
周りの者が重い荷を運び、自分だけ軽いものを抱えている。誰かが自分の分まで背負っているように思えた。
ある日、宗吉は少し重い荷へ手を伸ばした。すぐに別の男が取り上げた。
「お前はこっち」
「持てますよ」
「持てる持てるって、持った結果がそれだろ」
悪意のない笑いが起きた。宗吉も笑った。
けれど、腰の痛みはその日の夕方からまた強くなった。
翌朝、宗吉が仕事場へ行くと、仕事を回している男に呼び止められた。
「根津」
「はい」
「ここへは来なくていい」
宗吉は一瞬、意味が分からなかった。
「明日のことですか」
「明日も、そのあともだ」
「ああ」
そこでようやく分かった。
「首ですか」
「そういうことだ」
宗吉は黙った。男は少し困ったような顔をした。
「恨むなよ」
「恨みません」
「働きが悪いってんじゃねえんだ」
「はい」
「お前、無理するだろ」
宗吉は何も答えなかった。
「軽い荷だけやらせても、それじゃほかの奴にしわ寄せが行く。重いのを持たせりゃ、また腰をやる。ここで身体を壊されても困るんだ」
「はい」
「もっと合う仕事を探せ」
深津と同じことを言われた。
宗吉は頭を下げた。
「分かりました」
「悪いな」
「いえ」
宗吉は仕事場を離れた。
来たときより肩が軽かった。荷を担いでいないのだから、当然だった。
その軽さが、妙に寂しかった。
波止場では、いつもと同じように人が働いていた。
声が飛ぶ。荷が運ばれる。縄が軋む。沖から艀が近づいてくる。
宗吉がいなくなっても、何も変わらない。
一月足らず働いただけの人足など、この町にとっては、最初からいなかったのと同じなのだろう。
宗吉は少し歩いた。腹が減っていた。
何か食べようと思い、銭入れを出した。
働いた分の銭はある。故郷から持ってきた銭も、まだ残っている。
けれど、これから先、入ってくるものがない。
宗吉の指が止まった。
飯は食わなければならない。店賃も払わなければならない。
銭は使えば減る。働いていれば、そのぶんまた入る。
いまは、入らない。
当たり前のことだった。その当たり前のことが、急に重く見えた。
宗吉は銭入れをしまい、少しでも安く腹を満たせるものを探した。
千代の家へ戻ると、千代がいた。
宗吉の帰りが早いのを見て、
「今日はずいぶん早いね」
と言った。
「首になりました」
千代は目を瞬いた。
「早かったねえ」
「俺もそう思います」
「この町へ来て、もう一月になるんじゃないかい」
「明日で一月です」
「大したもんだ」
「褒めてませんよね」
「もちろん」
宗吉は部屋へ入ろうとした。
すると、
「宗吉さん」
と呼ばれた。
振り返る。千代が手を出していた。
「何です?」
「店賃。明日からの一月分だよ」
宗吉は千代の手を見た。千代は平然としている。
「いま、仕事がなくなったって言いましたよね」
「聞いたよ」
「聞いたうえで?」
「仕事がなくなったら、店賃を払わなくてよくなるのかい」
宗吉は考えた。
「ならないですね」
「だろ」
「はい」
「かわいそうだから次の分はいりません、なんて言うと思った?」
宗吉は少し笑った。
「思ってません」
「なら払いな」
宗吉は部屋へ入り、銭を出した。決めていた分を数え、千代へ渡した。千代もその場で一つずつ確かめた。
「はい、ちょうど」
「どうも」
「何であんたが礼を言うの」
「分かりません」
千代は銭をしまった。それで話は終わりだった。
仕事を失ったことを慰めもしない。気の毒がりもしない。店賃を待つとも言わない。
働いていようが、失職していようが、借りた部屋の店賃は払う。ただ、それだけだった。
宗吉は部屋へ戻った。不思議と嫌な気はしなかった。
もし千代から、大変だったね、しばらく店賃は待ってやろう、などと言われていたら、宗吉のほうが居心地を悪くしただろう。
千代は何も変えなかった。
働いている宗吉にも、失職した宗吉にも、同じように店賃を請求した。
それでいい。
宗吉は腰を下ろした。まだ少し痛んだ。
銭入れを出し、中身を数えた。
旅立つ前より減っている。当然である。
道中で使った。この町へ来てからも使った。医者にも払った。いま、次の一月分の店賃も払った。
働いた分が加わっているので、すぐに困るわけではない。少なくとも、次の一月はこの部屋にいられる。
だが、何もしなければ銭は確実に減っていく。
宗吉は銭を二つに分け直した。
こちらは使っていい。
こちらには、なるべく手をつけない。
包みを結びながら考えた。
荷運びは駄目だった。なら、別の仕事を探せばいい。
この町には人がいる。店がある。商いがある。荷がある。職人がいる。
来た日に往来を眺めただけでも、故郷では知らなかった仕事がいくつもあった。
何も、仕事が一つしかないわけではない。
宗吉は銭をしまった。
戸の向こうから、町の音が入ってきた。
誰かが呼び売りをしている。遠くで車輪が鳴る。子供が走っている。知らない男たちの話し声が通り過ぎる。
この町は、人が多かった。それだけ仕事もあるはずだった。
宗吉は立ち上がった。腰が少し痛んだ。
顔をしかめる。
それから、明日はどこを回ろうかと考え始めた。




