三幕 柏屋の家守
荷運びの仕事を失ってから、宗吉は毎朝、町へ出るようになった。
腰には、まだ鈍い痛みが残っていた。深津に言われたことを思い出し、今度こそ身体を酷使する仕事は避けることにした。
とはいえ、何が自分に向いているのかは、宗吉にもよく分からない。
この町には仕事が多かった。そのかわり、人も多かった。
店先に奉公人を求める張り紙があれば覗き、荷問屋や商家で人を探していると聞けば足を運んだ。知り合った者にも、何か仕事があったら教えてほしいと頼んだ。
だが、すぐには決まらなかった。
住み込みの奉公人なら、若いうちから店へ入り、商いを仕込まれている者が多い。読み書きや算盤ができると言っても、どこの誰とも分からない余所者を、いきなり帳場へ置く店は少なかった。
宗吉は子供の頃、村の寺子屋で読み書きを習っていた。算盤も覚え、頼まれた仕事で銭を預かれば、いくら入り、いくら使ったかを自分でつけていた。
しかし、それを証し立てる者は、この町にはいない。
かといって、宗吉がその場ですぐ役に立てそうな仕事となると、また荷運びや人足仕事に戻ってしまう。
「うまくいかねえもんだな」
宗吉は往来を歩きながら呟いた。
頭上には薄く雲が広がっていた。少し動けば汗ばむほどには暖かいが、風にはまだ涼しさがあった。
町のあちこちから、新しい木の匂いがした。
港が開かれてから十数年。それでも、この町はまだ出来上がったものではないらしい。
建てている家がある。壊している建物がある。道を直しているところがある。
開港当初からある日本人町の家並みを抜けると、また別の顔をした町が現れる。
宗吉は仕事を探しているのに、つい周りを見て歩いた。
変わった看板がある。見たことのない品物を置いた店がある。異国人を乗せた人力車が通る。向こうから来た荷車には、茶箱がいくつも積まれていた。
何がどこへ運ばれていくのだろう。あの箱の字は何と読むのだろう。
そんなことを考えていたら、道端の石につまずいた。
「あっ」
身体が前へ傾く。どうにか踏み止まった。
後ろを歩いていた男が笑った。宗吉も振り返って笑った。
「危ねえ危ねえ」
そう言って、何事もなかったようにまた歩いた。
宗吉が柏屋のことを知ったのは、港で働いていた男からだった。
荷運びをしていた頃に顔を合わせた者で、宗吉が仕事を探していると知ると、茶を扱う柏屋という店で、帳面の写しに人手を欲しがっていたことがあると教えてくれた。
いまも人を求めているかは分からない。それでも、何も当てがないよりはよかった。
柏屋は茶を扱う店だった。
表から見ても、それなりに大きい。人の出入りが絶えず、店の奥には茶箱が積まれている。
開港以来、茶は生糸と並んで、海の向こうへ送られる大事な品となっていた。遠い産地からこの町へ運び込まれ、商人の手を経て、異国の商館へ渡る。
柏屋も、そうした商いに関わる店の一つだった。
宗吉は店先でしばらく様子を見てから、声をかけた。
「すみません」
若い男が顔を上げた。
宗吉よりいくつか年上に見えた。忙しそうに帳面を繰っていたが、手を止めてこちらを見る。
「何でしょう」
「仕事を探してるんですが、人は要りませんか」
男は宗吉を眺めた。
「奉公口ですか」
「住み込みでなくてもいいです。帳面の写しに人手が要ることがあると聞きました」
「誰から?」
宗吉は、港で働いている男の名を告げた。
相手は少し考え、
「ああ、茶箱を運んでもらったことがありますね」
と言った。
まったく知らない者の名ではなかったらしい。
男は嘉助と名乗った。柏屋で手代をしているという。
「読み書きと算盤は?」
「できます。帳面も少しなら」
「少し?」
宗吉は、しまったと思った。自分で少しと言ってしまえば、頼りなく聞こえる。
「いや、普通にはできます」
「どっちなんです」
嘉助が笑った。
「普通です」
宗吉も笑った。
嘉助は宗吉にいくつか尋ねた。どこから来たのか。この町へ来てどれくらいになるのか。前は何をしていたのか。商家に奉公したことはあるか。
宗吉は一つずつ答えた。
荷運びを始めて三日目に腰を痛め、それでも三週間あまり通い続け、ひと月足らずで首になった話をすると、嘉助は宗吉の身体を見た。
「そりゃ、向かなかったでしょう」
「やっぱりそう見えますか」
「見えますね」
即答された。宗吉は苦笑した。
嘉助は宗吉の細い腕へ目をやった。
「三日で腰を痛めたのに、そのあともよく続けましたね」
「褒められました?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「馬鹿だなと思ってます」
宗吉はまた笑った。不思議と嫌な感じのしない男だった。
嘉助は少し考えてから、宗吉を店の中へ呼び入れた。
「今すぐ人を一人抱えるほどではないんですがね」
「はい」
「店の者だけでは手が回らない日に、帳面の写しを頼むことはあります」
「できます」
「まだ何も見せてませんよ」
「字と算盤なら」
「いきなり店の帳面を任せるわけにはいきません。まず、これを写してみてください」
嘉助が出したのは、すでに勘定を締めた古い帳面だった。
開いたところを別の紙へ写し、最後に品の数と金の出入りを確かめるように言われた。
「分からないところは、勝手に決めないでください」
「はい」
「字が読めなかったら聞く」
「はい」
「数字が怪しかったら聞く」
「はい」
「分かったふりが一番困ります」
「分かりました」
宗吉は素直に答え、帳面へ向かった。
最初は嘉助も、横目で宗吉の手元を見ていた。宗吉は一つずつ確かめながら書いた。
こういう仕事は嫌いではなかった。何より、腰が痛まない。
帳面には、知らない土地の名が出てきた。茶の種類が出てくる。荷の数がある。金の出入りがある。
宗吉は気になった。
これはどこから来る茶なのか。この箱はいくつで一組なのか。海を渡ったあと、どこへ行くのか。
聞きたいことがいくつも浮かんだが、仕事中なので黙っていた。
しばらくすると、嘉助が、
「根津さん」
と呼んだ。
「はい」
「早いですね」
「そうですか」
「字も悪くない。数も合ってます」
宗吉は少し嬉しくなった。
「またやらせてもらえます?」
「仕事があれば」
「いつあります?」
「それが分かれば苦労しませんよ」
嘉助は苦笑した。
それでも、それから宗吉は、ときどき柏屋へ呼ばれるようになった。
毎日ではない。店の者だけでは手が回らない日や、書き写すものが溜まったときに声がかかる。
決まった働き口を得たわけではなかったが、宗吉にはありがたかった。わずかでも銭が入る。何より、荷運びのように身体を壊さない。
柏屋へ行けば、嘉助が仕事を出してくれた。そのうち、店の者にも顔を覚えられた。
そして、みちとも知り合った。
最初に見たとき、宗吉は思わず手を止めた。店の奥から女が出てきたのである。
十八ほどに見えた。
きれいに結った髪。明るい顔立ち。
派手な着物ではないのに、店の中へ出てくると、そこだけ少し華やいだように見えた。
宗吉はぼんやり眺めた。
――村じゃ、見たこともねえな。
そう思った。
美人というものが村にいなかったわけではない。しかし、宗吉の知っている娘たちとは、何となく違った。
大店で育ったせいなのか。この町の娘だからなのか。宗吉には分からない。
とにかく、きれいな人だった。
女は嘉助に何か話しかけていた。嘉助が答える。
宗吉は帳面へ視線を戻した。少しして、また見た。
女はまだいた。
目が合いそうになり、慌てて帳面へ戻った。
嘉助がこちらを見た。宗吉は何もしていない顔をした。
幸い、何も言われなかった。
みちは柏屋の一人娘だった。
次に顔を合わせたとき、嘉助が、
「うちのお嬢さんのみちさんです」
と宗吉へ教えた。
みちは店へ出て商いを取り仕切るわけではないが、ときどき帳場へ顔を出した。店の者ともよく話した。
宗吉にも、ほどなく普通に声をかけるようになった。
「根津さん、だったね」
「はい」
「嘉助さんの手伝いをしてるの?」
「手伝いってほどじゃないです。仕事を分けてもらってます」
「字がきれいだって言ってたよ」
宗吉は嘉助を見た。
嘉助は帳面から顔も上げず、
「余計なこと言わないでください」
と言った。
宗吉は嬉しくなった。
「本当に言ってました?」
「仕事してください」
みちが笑った。宗吉も笑った。
その日のやり取りは、それだけだった。
ところが柏屋には、もう一つ、宗吉の目を引くものがあった。
最初に気づいたのは、何度目かに店を訪れた日のことだった。
帳面を写している途中、宗吉は頭上で何かが動く気配を感じた。
顔を上げた。
梁の上に、家守がいた。ただし、普通の家守ではなかった。
大きかった。あまりにも大きかった。
頭だけでも人の拳より大きい。胴は猫ほどあり、そこから太い尾が長く伸びていた。四本の脚を広げ、梁へ貼りついている。
灰白色の皮膚には、ところどころ黒っぽい斑があった。目は丸く、濡れた珠のようだった。
宗吉はしばらく見上げた。家守らしきものも、宗吉を見た。
瞬きはしない。
やがて、ぺた、と前脚を出した。続いて、もう一本。
大きな身体が、音もなく梁を進んでいく。
宗吉の目が、その後を追った。梁から柱へ。柱から棚の上へ。
そこには茶箱が並んでいる。
巨大な家守は、箱の陰へ半分身体を隠した。尾だけが残った。
長い。
ずるずると引き込まれるように、尾も消えた。
「……でけえな」
宗吉は小声で言った。
「何が?」
すぐ近くから声がした。
宗吉は驚いて振り向いた。みちが立っていた。
「え?」
「今、大きいって言わなかった?」
「ああ」
宗吉は棚を指した。
「いました」
「何が?」
「大きなトカゲが」
みちは棚を見た。
「どこ?」
「あの茶箱の陰です」
宗吉は立ち上がった。
祖母なら、知らないものを追うなと言うだろう。だが、家守は宗吉を見ても襲ってこなかった。ただ店の梁や柱を這い、茶箱の陰へ隠れただけである。
宗吉は手を伸ばさず、棚の横へ回った。
ちょうどそこから、巨大な家守の顔が出てきた。宗吉と目が合った。
「あ、いる」
「どこに?」
「その箱の上です」
みちは目を凝らした。
「何も見えないよ」
宗吉はみちを見た。もう一度、棚を見る。
家守はいる。
前脚を茶箱へ掛け、首を少し傾けている。どう見ても、見落とすような大きさではない。
「見えませんか」
「うん」
みちは答えた。
宗吉は家守を見た。家守も宗吉を見た。みちは宗吉を見ていた。
しばらく妙な形になった。
やがて巨大な家守は、宗吉に興味を失ったらしい。身体を返し、棚の奥へ消えていった。
「行っちまった」
宗吉が言った。
みちは、そこで初めて少し目を見張った。驚いている。
けれど、宗吉が思っていたのとは違う驚き方だった。
嘘をつくなとも、気味が悪いとも言わない。
「本当にいたの?」
「いましたよ」
「どんなの?」
「トカゲみたいなやつです。灰色っぽくて」
宗吉は両手で大きさを示そうとした。
「このくらい……いや、もっとあるな」
「そんなに?」
「猫ぐらいあります」
みちの目がさらに大きくなった。
宗吉は慌てて言った。
「でも、何もしませんよ。店ん中を這ってるだけで」
みちは、家守が消えた棚を見た。すぐには何も言わなかった。
「家守かな」
「家守?」
「うちに住みついてるなら、守ってくれてるのかもしれないね」
宗吉は思わず、みちの顔を見た。
「信じるんですか」
「何を?」
「俺に大きなトカゲが見えるって話」
「うん」
あまりにも普通に答えられたので、宗吉のほうが戸惑った。
「疑わねえんですか」
「どうして?」
「いや、普通は……」
そこまで言って、宗吉は考えた。
普通ならどうするのだろう。見えないものが見えると言う者を笑うのか。気味悪がるのか。嘘だと決めつけるのか。
宗吉には、その普通がよく分からなかった。
みちは少し笑った。
「妖には、ちょっと縁があってね」
宗吉はその言葉に反応した。
「妖?」
「うん」
「おみちさんも見えるんですか」
「私は見えないよ」
みちは棚の上へ目をやった。もちろん、もうそこには何も見えていないらしい。
「でも、昔ね。そういう類の話が好きな幼なじみがいたの」
宗吉は黙って聞いた。
みちの声から、さっきまでの明るさが少し消えた。
「いろんな噂を知ってた。どこに何が出るとか、誰が何を見たとか。そういう話をよくしてた」
「へえ」
宗吉は少し身を乗り出しかけて、やめた。みちの顔が変わっていたからである。
笑ってはいる。けれど、懐かしいだけの顔ではなかった。
「結局ね」
みちは言った。
「妖のせいで、幼なじみを失ったんだ」
宗吉は、何と答えればいいか分からなかった。
しばらくして、
「死んだんですか」
と聞いた。
みちは首を横に振った。
「ううん」
それだけだった。
では、どういう意味なのか。宗吉は聞きかけた。
しかし、みちは先に笑った。
「ごめんね。変に湿っぽい話しちゃった」
そして、くるりと嘉助のほうを向いた。嘉助は少し離れたところで仕事をしていた。
「嘉助さん」
「はい?」
「この人に、ちゃんと仕事を回してあげてね」
嘉助が顔を上げた。宗吉とみちを交互に見る。
「働きがあれば回してますよ」
「もっと」
「お嬢さんが決めることじゃありません」
「けち」
「店の金ですから」
みちは笑った。
宗吉は二人を見ながら、何となく頭を下げた。
それから、もう一度だけ梁の上を見た。
巨大な家守の姿は、もうどこにもなかった。




