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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
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三幕 柏屋の家守

荷運びの仕事を失ってから、宗吉は毎朝、町へ出るようになった。


腰には、まだ鈍い痛みが残っていた。深津に言われたことを思い出し、今度こそ身体を酷使する仕事は避けることにした。


とはいえ、何が自分に向いているのかは、宗吉にもよく分からない。


この町には仕事が多かった。そのかわり、人も多かった。


店先に奉公人を求める張り紙があれば覗き、荷問屋や商家で人を探していると聞けば足を運んだ。知り合った者にも、何か仕事があったら教えてほしいと頼んだ。


だが、すぐには決まらなかった。


住み込みの奉公人なら、若いうちから店へ入り、商いを仕込まれている者が多い。読み書きや算盤ができると言っても、どこの誰とも分からない余所者を、いきなり帳場へ置く店は少なかった。


宗吉は子供の頃、村の寺子屋で読み書きを習っていた。算盤も覚え、頼まれた仕事で銭を預かれば、いくら入り、いくら使ったかを自分でつけていた。


しかし、それを証し立てる者は、この町にはいない。


かといって、宗吉がその場ですぐ役に立てそうな仕事となると、また荷運びや人足仕事に戻ってしまう。


「うまくいかねえもんだな」


宗吉は往来を歩きながら呟いた。


頭上には薄く雲が広がっていた。少し動けば汗ばむほどには暖かいが、風にはまだ涼しさがあった。


町のあちこちから、新しい木の匂いがした。


港が開かれてから十数年。それでも、この町はまだ出来上がったものではないらしい。


建てている家がある。壊している建物がある。道を直しているところがある。


開港当初からある日本人町の家並みを抜けると、また別の顔をした町が現れる。


宗吉は仕事を探しているのに、つい周りを見て歩いた。


変わった看板がある。見たことのない品物を置いた店がある。異国人を乗せた人力車が通る。向こうから来た荷車には、茶箱がいくつも積まれていた。


何がどこへ運ばれていくのだろう。あの箱の字は何と読むのだろう。


そんなことを考えていたら、道端の石につまずいた。


「あっ」


身体が前へ傾く。どうにか踏み止まった。


後ろを歩いていた男が笑った。宗吉も振り返って笑った。


「危ねえ危ねえ」


そう言って、何事もなかったようにまた歩いた。


宗吉が柏屋のことを知ったのは、港で働いていた男からだった。


荷運びをしていた頃に顔を合わせた者で、宗吉が仕事を探していると知ると、茶を扱う柏屋という店で、帳面の写しに人手を欲しがっていたことがあると教えてくれた。


いまも人を求めているかは分からない。それでも、何も当てがないよりはよかった。


柏屋は茶を扱う店だった。


表から見ても、それなりに大きい。人の出入りが絶えず、店の奥には茶箱が積まれている。


開港以来、茶は生糸と並んで、海の向こうへ送られる大事な品となっていた。遠い産地からこの町へ運び込まれ、商人の手を経て、異国の商館へ渡る。


柏屋も、そうした商いに関わる店の一つだった。


宗吉は店先でしばらく様子を見てから、声をかけた。


「すみません」


若い男が顔を上げた。


宗吉よりいくつか年上に見えた。忙しそうに帳面を繰っていたが、手を止めてこちらを見る。


「何でしょう」


「仕事を探してるんですが、人は要りませんか」


男は宗吉を眺めた。


「奉公口ですか」


「住み込みでなくてもいいです。帳面の写しに人手が要ることがあると聞きました」


「誰から?」


宗吉は、港で働いている男の名を告げた。


相手は少し考え、


「ああ、茶箱を運んでもらったことがありますね」


と言った。


まったく知らない者の名ではなかったらしい。


男は嘉助と名乗った。柏屋で手代をしているという。


「読み書きと算盤は?」


「できます。帳面も少しなら」


「少し?」


宗吉は、しまったと思った。自分で少しと言ってしまえば、頼りなく聞こえる。


「いや、普通にはできます」


「どっちなんです」


嘉助が笑った。


「普通です」


宗吉も笑った。


嘉助は宗吉にいくつか尋ねた。どこから来たのか。この町へ来てどれくらいになるのか。前は何をしていたのか。商家に奉公したことはあるか。


宗吉は一つずつ答えた。


荷運びを始めて三日目に腰を痛め、それでも三週間あまり通い続け、ひと月足らずで首になった話をすると、嘉助は宗吉の身体を見た。


「そりゃ、向かなかったでしょう」


「やっぱりそう見えますか」


「見えますね」


即答された。宗吉は苦笑した。


嘉助は宗吉の細い腕へ目をやった。


「三日で腰を痛めたのに、そのあともよく続けましたね」


「褒められました?」


「半分くらいは」


「残り半分は?」


「馬鹿だなと思ってます」


宗吉はまた笑った。不思議と嫌な感じのしない男だった。


嘉助は少し考えてから、宗吉を店の中へ呼び入れた。


「今すぐ人を一人抱えるほどではないんですがね」


「はい」


「店の者だけでは手が回らない日に、帳面の写しを頼むことはあります」


「できます」


「まだ何も見せてませんよ」


「字と算盤なら」


「いきなり店の帳面を任せるわけにはいきません。まず、これを写してみてください」


嘉助が出したのは、すでに勘定を締めた古い帳面だった。


開いたところを別の紙へ写し、最後に品の数と金の出入りを確かめるように言われた。


「分からないところは、勝手に決めないでください」


「はい」


「字が読めなかったら聞く」


「はい」


「数字が怪しかったら聞く」


「はい」


「分かったふりが一番困ります」


「分かりました」


宗吉は素直に答え、帳面へ向かった。


最初は嘉助も、横目で宗吉の手元を見ていた。宗吉は一つずつ確かめながら書いた。


こういう仕事は嫌いではなかった。何より、腰が痛まない。


帳面には、知らない土地の名が出てきた。茶の種類が出てくる。荷の数がある。金の出入りがある。


宗吉は気になった。


これはどこから来る茶なのか。この箱はいくつで一組なのか。海を渡ったあと、どこへ行くのか。


聞きたいことがいくつも浮かんだが、仕事中なので黙っていた。


しばらくすると、嘉助が、


「根津さん」


と呼んだ。


「はい」


「早いですね」


「そうですか」


「字も悪くない。数も合ってます」


宗吉は少し嬉しくなった。


「またやらせてもらえます?」


「仕事があれば」


「いつあります?」


「それが分かれば苦労しませんよ」


嘉助は苦笑した。


それでも、それから宗吉は、ときどき柏屋へ呼ばれるようになった。


毎日ではない。店の者だけでは手が回らない日や、書き写すものが溜まったときに声がかかる。


決まった働き口を得たわけではなかったが、宗吉にはありがたかった。わずかでも銭が入る。何より、荷運びのように身体を壊さない。


柏屋へ行けば、嘉助が仕事を出してくれた。そのうち、店の者にも顔を覚えられた。


そして、みちとも知り合った。


最初に見たとき、宗吉は思わず手を止めた。店の奥から女が出てきたのである。


十八ほどに見えた。


きれいに結った髪。明るい顔立ち。


派手な着物ではないのに、店の中へ出てくると、そこだけ少し華やいだように見えた。


宗吉はぼんやり眺めた。


――村じゃ、見たこともねえな。


そう思った。


美人というものが村にいなかったわけではない。しかし、宗吉の知っている娘たちとは、何となく違った。


大店で育ったせいなのか。この町の娘だからなのか。宗吉には分からない。


とにかく、きれいな人だった。


女は嘉助に何か話しかけていた。嘉助が答える。


宗吉は帳面へ視線を戻した。少しして、また見た。


女はまだいた。


目が合いそうになり、慌てて帳面へ戻った。


嘉助がこちらを見た。宗吉は何もしていない顔をした。


幸い、何も言われなかった。


みちは柏屋の一人娘だった。


次に顔を合わせたとき、嘉助が、


「うちのお嬢さんのみちさんです」


と宗吉へ教えた。


みちは店へ出て商いを取り仕切るわけではないが、ときどき帳場へ顔を出した。店の者ともよく話した。


宗吉にも、ほどなく普通に声をかけるようになった。


「根津さん、だったね」


「はい」


「嘉助さんの手伝いをしてるの?」


「手伝いってほどじゃないです。仕事を分けてもらってます」


「字がきれいだって言ってたよ」


宗吉は嘉助を見た。


嘉助は帳面から顔も上げず、


「余計なこと言わないでください」


と言った。


宗吉は嬉しくなった。


「本当に言ってました?」


「仕事してください」


みちが笑った。宗吉も笑った。


その日のやり取りは、それだけだった。


ところが柏屋には、もう一つ、宗吉の目を引くものがあった。


最初に気づいたのは、何度目かに店を訪れた日のことだった。


帳面を写している途中、宗吉は頭上で何かが動く気配を感じた。


顔を上げた。


梁の上に、家守がいた。ただし、普通の家守ではなかった。


大きかった。あまりにも大きかった。


頭だけでも人の拳より大きい。胴は猫ほどあり、そこから太い尾が長く伸びていた。四本の脚を広げ、梁へ貼りついている。


灰白色の皮膚には、ところどころ黒っぽい斑があった。目は丸く、濡れた珠のようだった。


宗吉はしばらく見上げた。家守らしきものも、宗吉を見た。


瞬きはしない。


やがて、ぺた、と前脚を出した。続いて、もう一本。


大きな身体が、音もなく梁を進んでいく。


宗吉の目が、その後を追った。梁から柱へ。柱から棚の上へ。


そこには茶箱が並んでいる。


巨大な家守は、箱の陰へ半分身体を隠した。尾だけが残った。


長い。


ずるずると引き込まれるように、尾も消えた。


「……でけえな」


宗吉は小声で言った。


「何が?」


すぐ近くから声がした。


宗吉は驚いて振り向いた。みちが立っていた。


「え?」


「今、大きいって言わなかった?」


「ああ」


宗吉は棚を指した。


「いました」


「何が?」


「大きなトカゲが」


みちは棚を見た。


「どこ?」


「あの茶箱の陰です」


宗吉は立ち上がった。


祖母なら、知らないものを追うなと言うだろう。だが、家守は宗吉を見ても襲ってこなかった。ただ店の梁や柱を這い、茶箱の陰へ隠れただけである。


宗吉は手を伸ばさず、棚の横へ回った。


ちょうどそこから、巨大な家守の顔が出てきた。宗吉と目が合った。


「あ、いる」


「どこに?」


「その箱の上です」


みちは目を凝らした。


「何も見えないよ」


宗吉はみちを見た。もう一度、棚を見る。


家守はいる。


前脚を茶箱へ掛け、首を少し傾けている。どう見ても、見落とすような大きさではない。


「見えませんか」


「うん」


みちは答えた。


宗吉は家守を見た。家守も宗吉を見た。みちは宗吉を見ていた。


しばらく妙な形になった。


やがて巨大な家守は、宗吉に興味を失ったらしい。身体を返し、棚の奥へ消えていった。


「行っちまった」


宗吉が言った。


みちは、そこで初めて少し目を見張った。驚いている。


けれど、宗吉が思っていたのとは違う驚き方だった。


嘘をつくなとも、気味が悪いとも言わない。


「本当にいたの?」


「いましたよ」


「どんなの?」


「トカゲみたいなやつです。灰色っぽくて」


宗吉は両手で大きさを示そうとした。


「このくらい……いや、もっとあるな」


「そんなに?」


「猫ぐらいあります」


みちの目がさらに大きくなった。


宗吉は慌てて言った。


「でも、何もしませんよ。店ん中を這ってるだけで」


みちは、家守が消えた棚を見た。すぐには何も言わなかった。


「家守かな」


「家守?」


「うちに住みついてるなら、守ってくれてるのかもしれないね」


宗吉は思わず、みちの顔を見た。


「信じるんですか」


「何を?」


「俺に大きなトカゲが見えるって話」


「うん」


あまりにも普通に答えられたので、宗吉のほうが戸惑った。


「疑わねえんですか」


「どうして?」


「いや、普通は……」


そこまで言って、宗吉は考えた。


普通ならどうするのだろう。見えないものが見えると言う者を笑うのか。気味悪がるのか。嘘だと決めつけるのか。


宗吉には、その普通がよく分からなかった。


みちは少し笑った。


「妖には、ちょっと縁があってね」


宗吉はその言葉に反応した。


「妖?」


「うん」


「おみちさんも見えるんですか」


「私は見えないよ」


みちは棚の上へ目をやった。もちろん、もうそこには何も見えていないらしい。


「でも、昔ね。そういう類の話が好きな幼なじみがいたの」


宗吉は黙って聞いた。


みちの声から、さっきまでの明るさが少し消えた。


「いろんな噂を知ってた。どこに何が出るとか、誰が何を見たとか。そういう話をよくしてた」


「へえ」


宗吉は少し身を乗り出しかけて、やめた。みちの顔が変わっていたからである。


笑ってはいる。けれど、懐かしいだけの顔ではなかった。


「結局ね」


みちは言った。


「妖のせいで、幼なじみを失ったんだ」


宗吉は、何と答えればいいか分からなかった。


しばらくして、


「死んだんですか」


と聞いた。


みちは首を横に振った。


「ううん」


それだけだった。


では、どういう意味なのか。宗吉は聞きかけた。


しかし、みちは先に笑った。


「ごめんね。変に湿っぽい話しちゃった」


そして、くるりと嘉助のほうを向いた。嘉助は少し離れたところで仕事をしていた。


「嘉助さん」


「はい?」


「この人に、ちゃんと仕事を回してあげてね」


嘉助が顔を上げた。宗吉とみちを交互に見る。


「働きがあれば回してますよ」


「もっと」


「お嬢さんが決めることじゃありません」


「けち」


「店の金ですから」


みちは笑った。


宗吉は二人を見ながら、何となく頭を下げた。


それから、もう一度だけ梁の上を見た。


巨大な家守の姿は、もうどこにもなかった。


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