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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
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四幕 二つの銭

宗吉の仕事は、なかなか決まらなかった。


柏屋からは、ときどき声がかかった。


「根津さん、明日来られます?」


嘉助がそう言ってくれる日は、宗吉の顔も明るくなった。


「行けます」


たいてい、ほかに用事は入っていなかった。


柏屋では、帳面の写しや、数字の突き合わせを頼まれた。茶箱の数を写し、入ったものと出たものを確かめ、書き損じがないかを見る。


宗吉は、こういう仕事には向いていた。


一度書いたものも、最後にもう一度確かめる。数字が合わなければ、どこが違うのかを探す。


嘉助が脇から覗き込み、


「そこ、もう見ましたよ」


と言うこともあった。


「もう一度だけ」


「三度目でしょう」


「そうでした?」


「そうですよ」


宗吉は首を傾げ、それから帳面へ戻る。嘉助は呆れた顔をする。


それでも仕事が終われば、


「助かりました」


と言った。


宗吉には、それが嬉しかった。


荷運びのときとは違う。誰かが宗吉の代わりに重い荷を持つこともない。無理をするなと止められることもない。自分がやったぶんだけ、仕事が片づいていく。


それは気分がよかった。


ただし、毎日ある仕事ではなかった。


柏屋には、もともと店の者がいる。宗吉は、忙しいときに足りない手を埋めるだけだった。


二日続けて呼ばれることもあれば、そのあと何日も声がかからないこともある。


柏屋へ顔を出して、


「今日は何かありませんか」


と聞いたこともあった。


嘉助は申し訳なさそうに帳場を見回した。


「今日はないですねえ」


「何でもいいんですけど」


「何でもいいって言われても、ないものは作れませんよ」


「そうですよね」


宗吉は笑った。嘉助も笑った。


「溜まったら呼びますから」


「お願いします」


それで店を出る。


柏屋の仕事がない日は、ほかの働き口を探して歩いた。


人に聞く。店を覗く。人を探しているところがあると聞けば行ってみる。


話をして、頭を下げる。断られれば、次へ行く。


だが、荷を担ぐ仕事を除けば、その場で雇ってくれるところはなかなかなかった。


柏屋からもらう銭だけで暮らしていくこともできない。宗吉には店賃があった。食べなければならなかった。


銭は、何もしなくても減っていった。


宗吉は、故郷から持ってきた銭を二つに分けていた。


最初に分けたのは、千代の家へ移った日のことだった。


一つは、使ってよい銭。


飯を食う。店賃を払う。仕事を探すために必要なものを買う。着るものが破れて、どうにもならなくなれば直す。


そういう日々の暮らしに使う銭だった。


もう一つは、使わない銭だった。


病に倒れる。火事に遭う。大水や地震に遭う。どうしてもこの町で暮らせなくなり、故郷へ帰らなければならなくなる。


そういう、本当にどうにもならなくなったときのための銭だった。


最初に分けたとき、そちらの額も確かめてある。宗吉は銭を包み、固く結んだ。


それからは開いていない。


使っていないのだから、減るはずがない。減らないものを、何度も数える必要はなかった。


同じ銭なのに、宗吉の中ではまるで違うものだった。


使ってよい銭は、銭である。


使わない銭は、銭ではない。


無いものとして考える。


そう決めていた。


荷運びの仕事を失ってからも、それは変えなかった。


夜になると宗吉は、ときどき、使ってよいほうの包みを出した。


開いて数える。減っている。


当たり前だった。一日生きれば、一日ぶん減る。


柏屋の仕事があった日は少し戻る。翌日にはまた減る。


数え終わると、宗吉は包み直した。使わないほうには触れなかった。


あちらへ手を伸ばすようになったら、本当にあとがない。


だから、使ってよい銭が減れば減るほど、宗吉は暮らしを小さくした。


最初に買わなくなったのは魚だった。


町へ出れば魚は売っている。海が近いから、珍しいものではない。店先から焼いた匂いがしてくることもある。


初めの頃は、宗吉も買った。働いた日の晩など、少し奮発して魚を食べることがあった。


それをやめた。


次に卵を控えた。


宗吉は卵が嫌いではなかった。むしろ好きだった。


だが、なくても飯は食える。


そう考えると、買う理由がなくなった。


代わりに、安く手に入るものを買った。


豆腐。大根。菜っ葉。豆。味噌。


その日に安いものがあれば、それを選ぶ。


千代の家では、自分の飯は自分で用意することになっていた。


宗吉は米を炊いた。汁を作った。野菜を煮た。漬物があれば、それで済ませる。


料理すること自体は苦ではなかった。むしろ外で食べるより、どれだけ使ったのか分かるので気が楽だった。


一度作ったものを、二度に分けることもあった。


少し多めに炊き、その日のうちに食べる。冷えた飯なら、そのまま食べればいい。腹に入れば同じだった。


千代が台所で、宗吉の鍋を覗いたことがある。


「また大根?」


「安かったんです」


「昨日も食べてなかった?」


「昨日の残りです」


「一昨日も見た気がするけど」


「それは別の大根です」


千代は妙な顔をした。


「何だい、その言い分」


宗吉は笑った。


「ちゃんと食べてますから」


「食べてるならいいけどさ」


千代はそれ以上言わなかった。


宗吉は、食べる量そのものを極端に減らしたわけではない。腹が減れば働けない。それくらいは分かっている。


ただ、同じように腹を満たすなら、なるべく銭を使わないものを選んだ。


昼も軽くした。


朝に炊いた飯を握り、竹の皮に包んで持って出ることもあった。腹が減ったら、それを食べる。


それだけで昼を済ませる日もある。茶が飲めれば十分だった。


町で飯屋を見かけても、入らなくなった。


店先から、いい匂いがしてくる。煮魚の匂い。焼いたものの匂い。汁の匂い。


宗吉は一度だけ足を止める。値を思い出す。それから歩く。


我慢できないほどではなかった。仕事が決まれば、また食べればいい。


宗吉はそう考えた。


ところが、仕事探しに夢中になると、食べることまで忘れる日があった。


一軒目で話を聞く。駄目だったので次へ行く。途中で、人を探している店があると教えられる。そちらへ向かう。もう一軒、聞いてみる。まだ日がある。ならば、あちらにも行ってみよう。


そんなことをしていると、気づけば日が傾き始めている。


宗吉は自分でも呆れた。


忘れ物が多いわけではない。仕事を頼まれれば覚えている。銭の勘定も忘れない。


なのに、目の前に別のものがあると、ときどき自分のことが抜ける。


その日も、朝から歩いていた。


昼前には一度家へ戻るつもりだったので、握り飯は持ってこなかった。


一軒目では、もう人は足りていると言われた。二軒目では、住み込みでなければいらないと言われた。三軒目は、話だけは聞いてくれた。


「読み書きできるのか」


「できます」


「算盤は」


「使えます」


少し期待した。


だが結局、


「いまは人を増やせないな」


と言われた。


宗吉は頭を下げて出た。


そのあと、知り合った男から、


「あっちの商家で人を探してるらしいぞ」


と聞いた。


宗吉は、家へ戻らず、そのまま向かった。


行ってみると、探しているのは荷を運ぶ人間だった。


「軽いものだけなら」


と言いかけて、やめた。


また同じことになる。


店を出た。


少し歩くと、別の店が目に入った。聞くだけ聞いてみようと思った。


そこで、しばらく待たされた。店の者が忙しかったのである。


ようやく話を聞いてもらった頃には、陽がだいぶ傾いていた。


そこも駄目だった。


宗吉は往来へ出た。身体が妙に重かった。


足にも力が入りにくい。腰はもう痛くない。それでも、身体全体が動くことを嫌がっているようだった。


宗吉は立ち止まった。


「……あ」


腹に手を当てた。


腹の中は、空っぽだった。


朝飯を食べてから、何も口にしていない。昼を丸ごと抜いていた。


宗吉は近くの飯屋を見た。戸口の向こうに、客の背中が見えた。


いい匂いが流れてきた。腹が、急に自分の存在を思い出したように鳴った。


入りたい。


そう思った。


宗吉は懐へ手を入れた。銭入れに触れた。


手を止めた。


今朝、数えたばかりだった。使ってよい銭は、かなり減っている。


柏屋から次にいつ声がかかるかは分からない。明日、仕事が見つかるとも限らない。店賃を払う日も、また来る。


宗吉は飯屋から目を逸らした。


「帰って食えばいい」


誰に言うでもなく呟いた。


家には米がある。味噌も残っている。大根も少しある。


帰って炊けばいい。それなら、余計な銭を使わずに済む。


宗吉はそのまま歩き出した。


途中で、何度か食べ物を売る店の前を通った。目には入った。しかし、買わなかった。


千代の家へ戻った頃には、もう夕方だった。


戸を開ける。


「ただいま」


奥から千代の声がした。


「おかえり」


宗吉は草履を脱いだ。しゃがんだところで、少し立ちくらみがした。


目の前が一瞬だけ白くなる。すぐに戻った。


「……よいしょ」


立ち上がる。


その声を聞いたのか、千代が出てきた。宗吉を見る。


何も言わずに、しばらく見ていた。


宗吉は自分の部屋へ向かおうとした。


「宗吉さん」


「はい?」


「飯、ちゃんと食べたのかい」


宗吉は振り返った。


「朝は食べた」


千代の眉が上がった。


「朝?」


「うん」


「昼は」


宗吉は少し考えた。考える必要などなかった。


「食べてない」


「何で」


「仕事探してたら、食べ損ねました」


「食べ損ねた?」


「気づいたら夕方だったんです」


千代は呆れたように宗吉を見た。


「子供じゃあるまいし」


宗吉は笑った。


「帰ってから食べますよ」


「これから炊くの?」


「そのつもりです」


「今から?」


「米はあります」


「そういう話じゃないよ」


千代は腕を組んだ。


宗吉は、また何か言われるのだろうと思った。


千代は少し考えるような顔をした。それから言った。


「飯、作ってやってもいいけど」


宗吉は目を上げた。


「本当ですか」


「この辺の飯屋で一膳食う値の、三割増しでもらうよ」


宗吉は黙った。


「三割?」


「嫌ならいいよ」


「高くないですか」


「人に飯を作らせといて、ただで済むと思うな」


「ただとは言ってません」


「じゃあ三割増し」


「何で三割なんです」


「私が決めたから」


千代は平然としていた。


宗吉は思わず笑った。千代も少しだけ笑った。


だが、すぐに宗吉の顔を見て、


「それが嫌なら、なんか食ってきな!」


と言った。


宗吉は返事をしなかった。


腹がまた鳴った。今度は千代にも聞こえたらしい。


千代が宗吉の腹を見る。宗吉も自分の腹を見た。


「ほら」


「これは……」


「何が『これは』だい」


「いや」


「銭を惜しんで身体壊したら、医者代のほうが高くつくだろ」


宗吉は黙った。


その言葉には覚えがあった。


荷運びを始めたときも、無理をした。身体を痛めた。深津へ行った。薬をもらった。仕事まで失った。


確かに、同じことをまたやれば馬鹿だった。


食わずに倒れれば、仕事を探すこともできなくなる。柏屋から呼ばれても行けない。医者へ行けば銭がかかる。


何より、空腹で一日動けなくなるほうが損だ。


使わないために銭を惜しんで、そのせいで余計に銭を使う。それでは、何をしているのか分からない。


宗吉はしばらく考えた。


千代が言った。


「何をそんなに考えてんの」


「いや」


宗吉は懐へ手を入れた。銭入れを出した。


「食ってきます」


「そうしな」


「三割増しより安いところで」


「勝手にしな」


千代は鼻で笑った。


宗吉はもう一度草履を履いた。戸を出る。


日中ほどではないが、まだ往来には人がいた。仕事帰りらしい男たちが歩いている。店じまいを始めるところもあれば、これから客が増える店もある。


軒先から灯が漏れていた。


宗吉は歩きながら、手の中の銭を確かめた。


余計には使わない。腹を満たせればいい。なるべく安いところ。それでいい。


そう思っているのに、空腹を自覚してしまったせいか、さっきまでより食べ物の匂いが強く感じられた。


魚を焼く匂いがする。味噌の匂いがする。醤油の焦げる匂いもした。


宗吉は一軒の前で足を止めた。


中を覗く。少し高そうだった。


やめた。


もう一軒。そこも通り過ぎた。


しばらく歩いたところに、小さな飯屋があった。


立派な店ではない。間口は狭く、戸口から中が見える。


何人か客がいた。


宗吉は懐の銭を、もう一度指で確かめた。


それから戸を開け、小さな飯屋へ入った。


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