四幕 二つの銭
宗吉の仕事は、なかなか決まらなかった。
柏屋からは、ときどき声がかかった。
「根津さん、明日来られます?」
嘉助がそう言ってくれる日は、宗吉の顔も明るくなった。
「行けます」
たいてい、ほかに用事は入っていなかった。
柏屋では、帳面の写しや、数字の突き合わせを頼まれた。茶箱の数を写し、入ったものと出たものを確かめ、書き損じがないかを見る。
宗吉は、こういう仕事には向いていた。
一度書いたものも、最後にもう一度確かめる。数字が合わなければ、どこが違うのかを探す。
嘉助が脇から覗き込み、
「そこ、もう見ましたよ」
と言うこともあった。
「もう一度だけ」
「三度目でしょう」
「そうでした?」
「そうですよ」
宗吉は首を傾げ、それから帳面へ戻る。嘉助は呆れた顔をする。
それでも仕事が終われば、
「助かりました」
と言った。
宗吉には、それが嬉しかった。
荷運びのときとは違う。誰かが宗吉の代わりに重い荷を持つこともない。無理をするなと止められることもない。自分がやったぶんだけ、仕事が片づいていく。
それは気分がよかった。
ただし、毎日ある仕事ではなかった。
柏屋には、もともと店の者がいる。宗吉は、忙しいときに足りない手を埋めるだけだった。
二日続けて呼ばれることもあれば、そのあと何日も声がかからないこともある。
柏屋へ顔を出して、
「今日は何かありませんか」
と聞いたこともあった。
嘉助は申し訳なさそうに帳場を見回した。
「今日はないですねえ」
「何でもいいんですけど」
「何でもいいって言われても、ないものは作れませんよ」
「そうですよね」
宗吉は笑った。嘉助も笑った。
「溜まったら呼びますから」
「お願いします」
それで店を出る。
柏屋の仕事がない日は、ほかの働き口を探して歩いた。
人に聞く。店を覗く。人を探しているところがあると聞けば行ってみる。
話をして、頭を下げる。断られれば、次へ行く。
だが、荷を担ぐ仕事を除けば、その場で雇ってくれるところはなかなかなかった。
柏屋からもらう銭だけで暮らしていくこともできない。宗吉には店賃があった。食べなければならなかった。
銭は、何もしなくても減っていった。
宗吉は、故郷から持ってきた銭を二つに分けていた。
最初に分けたのは、千代の家へ移った日のことだった。
一つは、使ってよい銭。
飯を食う。店賃を払う。仕事を探すために必要なものを買う。着るものが破れて、どうにもならなくなれば直す。
そういう日々の暮らしに使う銭だった。
もう一つは、使わない銭だった。
病に倒れる。火事に遭う。大水や地震に遭う。どうしてもこの町で暮らせなくなり、故郷へ帰らなければならなくなる。
そういう、本当にどうにもならなくなったときのための銭だった。
最初に分けたとき、そちらの額も確かめてある。宗吉は銭を包み、固く結んだ。
それからは開いていない。
使っていないのだから、減るはずがない。減らないものを、何度も数える必要はなかった。
同じ銭なのに、宗吉の中ではまるで違うものだった。
使ってよい銭は、銭である。
使わない銭は、銭ではない。
無いものとして考える。
そう決めていた。
荷運びの仕事を失ってからも、それは変えなかった。
夜になると宗吉は、ときどき、使ってよいほうの包みを出した。
開いて数える。減っている。
当たり前だった。一日生きれば、一日ぶん減る。
柏屋の仕事があった日は少し戻る。翌日にはまた減る。
数え終わると、宗吉は包み直した。使わないほうには触れなかった。
あちらへ手を伸ばすようになったら、本当にあとがない。
だから、使ってよい銭が減れば減るほど、宗吉は暮らしを小さくした。
最初に買わなくなったのは魚だった。
町へ出れば魚は売っている。海が近いから、珍しいものではない。店先から焼いた匂いがしてくることもある。
初めの頃は、宗吉も買った。働いた日の晩など、少し奮発して魚を食べることがあった。
それをやめた。
次に卵を控えた。
宗吉は卵が嫌いではなかった。むしろ好きだった。
だが、なくても飯は食える。
そう考えると、買う理由がなくなった。
代わりに、安く手に入るものを買った。
豆腐。大根。菜っ葉。豆。味噌。
その日に安いものがあれば、それを選ぶ。
千代の家では、自分の飯は自分で用意することになっていた。
宗吉は米を炊いた。汁を作った。野菜を煮た。漬物があれば、それで済ませる。
料理すること自体は苦ではなかった。むしろ外で食べるより、どれだけ使ったのか分かるので気が楽だった。
一度作ったものを、二度に分けることもあった。
少し多めに炊き、その日のうちに食べる。冷えた飯なら、そのまま食べればいい。腹に入れば同じだった。
千代が台所で、宗吉の鍋を覗いたことがある。
「また大根?」
「安かったんです」
「昨日も食べてなかった?」
「昨日の残りです」
「一昨日も見た気がするけど」
「それは別の大根です」
千代は妙な顔をした。
「何だい、その言い分」
宗吉は笑った。
「ちゃんと食べてますから」
「食べてるならいいけどさ」
千代はそれ以上言わなかった。
宗吉は、食べる量そのものを極端に減らしたわけではない。腹が減れば働けない。それくらいは分かっている。
ただ、同じように腹を満たすなら、なるべく銭を使わないものを選んだ。
昼も軽くした。
朝に炊いた飯を握り、竹の皮に包んで持って出ることもあった。腹が減ったら、それを食べる。
それだけで昼を済ませる日もある。茶が飲めれば十分だった。
町で飯屋を見かけても、入らなくなった。
店先から、いい匂いがしてくる。煮魚の匂い。焼いたものの匂い。汁の匂い。
宗吉は一度だけ足を止める。値を思い出す。それから歩く。
我慢できないほどではなかった。仕事が決まれば、また食べればいい。
宗吉はそう考えた。
ところが、仕事探しに夢中になると、食べることまで忘れる日があった。
一軒目で話を聞く。駄目だったので次へ行く。途中で、人を探している店があると教えられる。そちらへ向かう。もう一軒、聞いてみる。まだ日がある。ならば、あちらにも行ってみよう。
そんなことをしていると、気づけば日が傾き始めている。
宗吉は自分でも呆れた。
忘れ物が多いわけではない。仕事を頼まれれば覚えている。銭の勘定も忘れない。
なのに、目の前に別のものがあると、ときどき自分のことが抜ける。
その日も、朝から歩いていた。
昼前には一度家へ戻るつもりだったので、握り飯は持ってこなかった。
一軒目では、もう人は足りていると言われた。二軒目では、住み込みでなければいらないと言われた。三軒目は、話だけは聞いてくれた。
「読み書きできるのか」
「できます」
「算盤は」
「使えます」
少し期待した。
だが結局、
「いまは人を増やせないな」
と言われた。
宗吉は頭を下げて出た。
そのあと、知り合った男から、
「あっちの商家で人を探してるらしいぞ」
と聞いた。
宗吉は、家へ戻らず、そのまま向かった。
行ってみると、探しているのは荷を運ぶ人間だった。
「軽いものだけなら」
と言いかけて、やめた。
また同じことになる。
店を出た。
少し歩くと、別の店が目に入った。聞くだけ聞いてみようと思った。
そこで、しばらく待たされた。店の者が忙しかったのである。
ようやく話を聞いてもらった頃には、陽がだいぶ傾いていた。
そこも駄目だった。
宗吉は往来へ出た。身体が妙に重かった。
足にも力が入りにくい。腰はもう痛くない。それでも、身体全体が動くことを嫌がっているようだった。
宗吉は立ち止まった。
「……あ」
腹に手を当てた。
腹の中は、空っぽだった。
朝飯を食べてから、何も口にしていない。昼を丸ごと抜いていた。
宗吉は近くの飯屋を見た。戸口の向こうに、客の背中が見えた。
いい匂いが流れてきた。腹が、急に自分の存在を思い出したように鳴った。
入りたい。
そう思った。
宗吉は懐へ手を入れた。銭入れに触れた。
手を止めた。
今朝、数えたばかりだった。使ってよい銭は、かなり減っている。
柏屋から次にいつ声がかかるかは分からない。明日、仕事が見つかるとも限らない。店賃を払う日も、また来る。
宗吉は飯屋から目を逸らした。
「帰って食えばいい」
誰に言うでもなく呟いた。
家には米がある。味噌も残っている。大根も少しある。
帰って炊けばいい。それなら、余計な銭を使わずに済む。
宗吉はそのまま歩き出した。
途中で、何度か食べ物を売る店の前を通った。目には入った。しかし、買わなかった。
千代の家へ戻った頃には、もう夕方だった。
戸を開ける。
「ただいま」
奥から千代の声がした。
「おかえり」
宗吉は草履を脱いだ。しゃがんだところで、少し立ちくらみがした。
目の前が一瞬だけ白くなる。すぐに戻った。
「……よいしょ」
立ち上がる。
その声を聞いたのか、千代が出てきた。宗吉を見る。
何も言わずに、しばらく見ていた。
宗吉は自分の部屋へ向かおうとした。
「宗吉さん」
「はい?」
「飯、ちゃんと食べたのかい」
宗吉は振り返った。
「朝は食べた」
千代の眉が上がった。
「朝?」
「うん」
「昼は」
宗吉は少し考えた。考える必要などなかった。
「食べてない」
「何で」
「仕事探してたら、食べ損ねました」
「食べ損ねた?」
「気づいたら夕方だったんです」
千代は呆れたように宗吉を見た。
「子供じゃあるまいし」
宗吉は笑った。
「帰ってから食べますよ」
「これから炊くの?」
「そのつもりです」
「今から?」
「米はあります」
「そういう話じゃないよ」
千代は腕を組んだ。
宗吉は、また何か言われるのだろうと思った。
千代は少し考えるような顔をした。それから言った。
「飯、作ってやってもいいけど」
宗吉は目を上げた。
「本当ですか」
「この辺の飯屋で一膳食う値の、三割増しでもらうよ」
宗吉は黙った。
「三割?」
「嫌ならいいよ」
「高くないですか」
「人に飯を作らせといて、ただで済むと思うな」
「ただとは言ってません」
「じゃあ三割増し」
「何で三割なんです」
「私が決めたから」
千代は平然としていた。
宗吉は思わず笑った。千代も少しだけ笑った。
だが、すぐに宗吉の顔を見て、
「それが嫌なら、なんか食ってきな!」
と言った。
宗吉は返事をしなかった。
腹がまた鳴った。今度は千代にも聞こえたらしい。
千代が宗吉の腹を見る。宗吉も自分の腹を見た。
「ほら」
「これは……」
「何が『これは』だい」
「いや」
「銭を惜しんで身体壊したら、医者代のほうが高くつくだろ」
宗吉は黙った。
その言葉には覚えがあった。
荷運びを始めたときも、無理をした。身体を痛めた。深津へ行った。薬をもらった。仕事まで失った。
確かに、同じことをまたやれば馬鹿だった。
食わずに倒れれば、仕事を探すこともできなくなる。柏屋から呼ばれても行けない。医者へ行けば銭がかかる。
何より、空腹で一日動けなくなるほうが損だ。
使わないために銭を惜しんで、そのせいで余計に銭を使う。それでは、何をしているのか分からない。
宗吉はしばらく考えた。
千代が言った。
「何をそんなに考えてんの」
「いや」
宗吉は懐へ手を入れた。銭入れを出した。
「食ってきます」
「そうしな」
「三割増しより安いところで」
「勝手にしな」
千代は鼻で笑った。
宗吉はもう一度草履を履いた。戸を出る。
日中ほどではないが、まだ往来には人がいた。仕事帰りらしい男たちが歩いている。店じまいを始めるところもあれば、これから客が増える店もある。
軒先から灯が漏れていた。
宗吉は歩きながら、手の中の銭を確かめた。
余計には使わない。腹を満たせればいい。なるべく安いところ。それでいい。
そう思っているのに、空腹を自覚してしまったせいか、さっきまでより食べ物の匂いが強く感じられた。
魚を焼く匂いがする。味噌の匂いがする。醤油の焦げる匂いもした。
宗吉は一軒の前で足を止めた。
中を覗く。少し高そうだった。
やめた。
もう一軒。そこも通り過ぎた。
しばらく歩いたところに、小さな飯屋があった。
立派な店ではない。間口は狭く、戸口から中が見える。
何人か客がいた。
宗吉は懐の銭を、もう一度指で確かめた。
それから戸を開け、小さな飯屋へ入った。




