五幕 飯屋の人魂
日が暮れかけていた。飯屋の中には、もう灯が入っていた。
広くはない店だった。土間の脇に細長い小上がりがあり、客たちは壁を背にして膳を前にしていた。仕事帰りらしい男たちの声が、立ちのぼる湯気の向こうで重なっている。
味噌と醤油の匂いがした。焼いた魚の匂いも、少し混じっていた。
宗吉は小上がりの端に腰を下ろし、飯と汁、それに安い菜を一つ頼んだ。
腹が減っていた。
千代に言われなければ、家へ戻ってから米を炊くつもりだった。だが、それでは食べる頃には、ずいぶん遅くなる。
銭は惜しい。それでも、食を惜しんで身体を壊しては何にもならなかった。
宗吉は膝の上で手を組み、店の中を見回した。
知らない客ばかりだった。港で働いてきたような男。商家の奉公人らしい若者。一人で黙々と飯を食う老人。二人で酒を飲んでいる者もいた。
店の女が忙しく行き来している。さっき注文を聞きに来た女は、お滝というらしい。
奥から、もう一人の女の声がした。
「お滝、それ持ってっておくれ」
「はいよ」
お滝は返事をし、汁椀を二つ載せた盆を持って客のあいだを抜けていった。
そのときだった。
宗吉の視界の隅に、青白いものが入った。
最初は、灯の加減かと思った。だが、違った。
戸口のあたりから、一つの光が店の中へ入ってきた。
宗吉はそちらを見た。
人魂だった。
少なくとも、宗吉が知っている呼び名ではそうなる。
濁った白い芯がある。真っ白ではない。灰を溶いたような、鈍い白だった。
その周囲を、青白い光がぼんやりと包んでいる。炎にも似ているが、燃えてはいない。
後ろには細い尾のような光が伸び、動くたびにゆるくたなびいた。
ふわり、と進む。人が歩くより少し遅い。
宗吉は黙って見た。
人魂は客の肩ほどの高さを漂い、一人の男の背後を通った。その耳元まで近づく。
男は何も気づかず、箸で飯を口へ運んでいる。
人魂はしばらくそこに浮かんだあと、別の客の頭上へ移った。その客も反応しない。
ちょうどそこへ、お滝が盆を持って歩いてきた。
青白い光は、お滝のすぐ脇を通った。肩と触れそうなほど近かった。
お滝は足を止めなかった。顔も動かさない。
「お待ちどうさま」
盆を置き、客に笑いかける。
人魂は、その背後を通り過ぎた。
宗吉は少し首を傾げた。見えていないらしい。
ほかの客も同じだった。誰も人魂を見ず、避けようともしない。
宗吉自身も、別に驚いてはいなかった。
見える者がいる。見えない者がいる。それだけのことだった。
ただ、こんなところにも出るのかとは思った。
故郷でも、似たものを見たことはある。夜道。家の裏。人気のない場所。そういうところに現れるものだと思っていた。
これほど人のいる飯屋へ、堂々と入り込んでくるものは、あまり見た覚えがない。
人魂。昔から、そう呼ばれている。
だが、本当に死者の魂なのかどうかは、宗吉も知らなかった。
人が死に、身体を離れた魂が光になって飛ぶ。そういう話は聞いたことがある。
一方で、似たような姿をしたものを、何でも人魂と呼んでいるだけなのかもしれない。同じものに見えて、違うものかもしれなかった。
宗吉はそこまで考えて、やめた。
今ここで考えても分からない。
人魂らしきものは、誰かを襲うでもなく、物を壊すでもない。宗吉のところへ寄ってくる様子もなかった。
ならば、こちらにも用はない。
まずは飯だった。
「お待ちどうさま」
お滝が膳を持ってきた。
飯。汁。それから、簡単な菜がついていた。
宗吉の顔が少し明るくなった。
「どうも」
「足りなかったら言っておくれ」
「いや、これで十分です」
お滝は忙しそうに奥へ戻っていった。
宗吉は箸を取った。最初の一口を食べた。
うまかった。
特別なものではない。腹が減っていたから、余計にそう感じた。
続けて飯を食べる。味噌汁を飲む。
腹の中へ温かいものが落ちていく。それだけで、身体に力が戻ってくるようだった。
食べながら、宗吉はときどき人魂のほうを見た。
まだいた。店の中をゆっくり漂っている。
右へ流れる。少し止まり、今度は左へ動く。
宗吉は飯を口へ運んだ。
そこで、妙なことに気づいた。
客の中に、一人だけ、人魂を見ているらしい男がいた。
宗吉から少し離れた壁際に座っている。
大柄な男だった。宗吉より、明らかに身体が大きい。
肩が広い。腕も太い。着物の袖口から見える手首には、黒い毛が目立った。
肌はよく日に焼けている。髪はざんぎりで、坊主頭に近いほど短く刈ってあった。
宗吉は一度その男を見て、それから人魂へ目を戻した。
人魂が右へ動く。男の目も右へ動いた。
宗吉の手が止まった。
今度は、人魂が左へ流れる。男の目もそれを追った。
人魂が止まる。男の目も止まった。
宗吉は箸を持ったまま、男を見た。
――見えてるな。
偶然ではなかった。
人魂の動きと、男の視線がぴたりと合っている。
男は膳を前にしていたが、食べる手を止め、青白い光を見ていた。
宗吉は、急にそちらへ興味を引かれた。この店で人魂が見えているのは、自分だけではないらしい。
珍しい。
いまや人魂よりも、男のほうが気になった。
宗吉は男を見た。少し長く見すぎたのかもしれない。
男がこちらを向いた。
目が合った。
宗吉は固まった。
男も宗吉を見た。
眉が太い。目つきも強かった。
顔立ちそのものが悪いわけではない。ただ、身体が大きいせいもあって、じっと見られると威圧される。
宗吉は内心で思った。
――怖そうな人だなあ。
喧嘩でも強そうだった。港の荷運びに混じれば、宗吉とは違って、いくらでも重い荷を担げそうだ。
色黒で、逞しい。腕も首も太い。それに、やはり毛深い。
色白で小柄な宗吉とは、見た目だけなら何もかも反対だった。
男は、まだ宗吉を見ていた。
宗吉も、何となく目を逸らしそびれた。
その二人のあいだを、青白い人魂がゆっくり横切っていった。




