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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
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五幕 飯屋の人魂

日が暮れかけていた。飯屋の中には、もう灯が入っていた。


広くはない店だった。土間の脇に細長い小上がりがあり、客たちは壁を背にして膳を前にしていた。仕事帰りらしい男たちの声が、立ちのぼる湯気の向こうで重なっている。


味噌と醤油の匂いがした。焼いた魚の匂いも、少し混じっていた。


宗吉は小上がりの端に腰を下ろし、飯と汁、それに安い菜を一つ頼んだ。


腹が減っていた。


千代に言われなければ、家へ戻ってから米を炊くつもりだった。だが、それでは食べる頃には、ずいぶん遅くなる。


銭は惜しい。それでも、食を惜しんで身体を壊しては何にもならなかった。


宗吉は膝の上で手を組み、店の中を見回した。


知らない客ばかりだった。港で働いてきたような男。商家の奉公人らしい若者。一人で黙々と飯を食う老人。二人で酒を飲んでいる者もいた。


店の女が忙しく行き来している。さっき注文を聞きに来た女は、お滝というらしい。


奥から、もう一人の女の声がした。


「お滝、それ持ってっておくれ」


「はいよ」


お滝は返事をし、汁椀を二つ載せた盆を持って客のあいだを抜けていった。


そのときだった。


宗吉の視界の隅に、青白いものが入った。


最初は、灯の加減かと思った。だが、違った。


戸口のあたりから、一つの光が店の中へ入ってきた。


宗吉はそちらを見た。


人魂だった。


少なくとも、宗吉が知っている呼び名ではそうなる。


濁った白い芯がある。真っ白ではない。灰を溶いたような、鈍い白だった。


その周囲を、青白い光がぼんやりと包んでいる。炎にも似ているが、燃えてはいない。


後ろには細い尾のような光が伸び、動くたびにゆるくたなびいた。


ふわり、と進む。人が歩くより少し遅い。


宗吉は黙って見た。


人魂は客の肩ほどの高さを漂い、一人の男の背後を通った。その耳元まで近づく。


男は何も気づかず、箸で飯を口へ運んでいる。


人魂はしばらくそこに浮かんだあと、別の客の頭上へ移った。その客も反応しない。


ちょうどそこへ、お滝が盆を持って歩いてきた。


青白い光は、お滝のすぐ脇を通った。肩と触れそうなほど近かった。


お滝は足を止めなかった。顔も動かさない。


「お待ちどうさま」


盆を置き、客に笑いかける。


人魂は、その背後を通り過ぎた。


宗吉は少し首を傾げた。見えていないらしい。


ほかの客も同じだった。誰も人魂を見ず、避けようともしない。


宗吉自身も、別に驚いてはいなかった。


見える者がいる。見えない者がいる。それだけのことだった。


ただ、こんなところにも出るのかとは思った。


故郷でも、似たものを見たことはある。夜道。家の裏。人気のない場所。そういうところに現れるものだと思っていた。


これほど人のいる飯屋へ、堂々と入り込んでくるものは、あまり見た覚えがない。


人魂。昔から、そう呼ばれている。


だが、本当に死者の魂なのかどうかは、宗吉も知らなかった。


人が死に、身体を離れた魂が光になって飛ぶ。そういう話は聞いたことがある。


一方で、似たような姿をしたものを、何でも人魂と呼んでいるだけなのかもしれない。同じものに見えて、違うものかもしれなかった。


宗吉はそこまで考えて、やめた。


今ここで考えても分からない。


人魂らしきものは、誰かを襲うでもなく、物を壊すでもない。宗吉のところへ寄ってくる様子もなかった。


ならば、こちらにも用はない。


まずは飯だった。


「お待ちどうさま」


お滝が膳を持ってきた。


飯。汁。それから、簡単な菜がついていた。


宗吉の顔が少し明るくなった。


「どうも」


「足りなかったら言っておくれ」


「いや、これで十分です」


お滝は忙しそうに奥へ戻っていった。


宗吉は箸を取った。最初の一口を食べた。


うまかった。


特別なものではない。腹が減っていたから、余計にそう感じた。


続けて飯を食べる。味噌汁を飲む。


腹の中へ温かいものが落ちていく。それだけで、身体に力が戻ってくるようだった。


食べながら、宗吉はときどき人魂のほうを見た。


まだいた。店の中をゆっくり漂っている。


右へ流れる。少し止まり、今度は左へ動く。


宗吉は飯を口へ運んだ。


そこで、妙なことに気づいた。


客の中に、一人だけ、人魂を見ているらしい男がいた。


宗吉から少し離れた壁際に座っている。


大柄な男だった。宗吉より、明らかに身体が大きい。


肩が広い。腕も太い。着物の袖口から見える手首には、黒い毛が目立った。


肌はよく日に焼けている。髪はざんぎりで、坊主頭に近いほど短く刈ってあった。


宗吉は一度その男を見て、それから人魂へ目を戻した。


人魂が右へ動く。男の目も右へ動いた。


宗吉の手が止まった。


今度は、人魂が左へ流れる。男の目もそれを追った。


人魂が止まる。男の目も止まった。


宗吉は箸を持ったまま、男を見た。


――見えてるな。


偶然ではなかった。


人魂の動きと、男の視線がぴたりと合っている。


男は膳を前にしていたが、食べる手を止め、青白い光を見ていた。


宗吉は、急にそちらへ興味を引かれた。この店で人魂が見えているのは、自分だけではないらしい。


珍しい。


いまや人魂よりも、男のほうが気になった。


宗吉は男を見た。少し長く見すぎたのかもしれない。


男がこちらを向いた。


目が合った。


宗吉は固まった。


男も宗吉を見た。


眉が太い。目つきも強かった。


顔立ちそのものが悪いわけではない。ただ、身体が大きいせいもあって、じっと見られると威圧される。


宗吉は内心で思った。


――怖そうな人だなあ。


喧嘩でも強そうだった。港の荷運びに混じれば、宗吉とは違って、いくらでも重い荷を担げそうだ。


色黒で、逞しい。腕も首も太い。それに、やはり毛深い。


色白で小柄な宗吉とは、見た目だけなら何もかも反対だった。


男は、まだ宗吉を見ていた。


宗吉も、何となく目を逸らしそびれた。


その二人のあいだを、青白い人魂がゆっくり横切っていった。


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